彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

建社会の納税(後編)

2020年06月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本史を俯瞰すると海外では考えられない日本人独特の好みがある。それは「世襲」と呼ばれる代々の血や名誉の繋がりである。
 海外でも世襲は存在するが、どちらかといえば権力者が主張するものであり一般人がそれを完全に是とはしていない。
 しかし、日本では平安時代初期に財力を失った天皇が千年を超えた現在でも国民の象徴として残り、歴史上の有名人の子孫はそれだけで一目置かれる。政治・文化・宗教などさまざまな分野において世襲が通用している。
 封建社会では今よりも世襲が強い時代であり、世襲には独自の責任が付加されたが個々の判断で簡単に捨てられるものでもない。民衆は生活を保護してもらうために年貢を支払い、権力者がその一部を私用に使うのは謝礼のようなものであると解釈しているが、受ける側はそれに甘んじてはならず、先祖から続き自らも受けた恩恵を守り、子孫に伝えていかねばならなかったのである。そして武士たちは常に質素倹約を強いられるほど慎ましい生活であった。年貢の多くは開墾や治水などの公共工事によるインフラ整備、自然災害・飢饉などに備えた備蓄、軍事にも使用されていたのだ。
 昔の時代劇などでは民衆を苦しめる悪代官を正義の味方が斬る物語が定番だったが、戦国時代以降の日本で定番の悪代官は数えるほどしか存在しない。民衆を苦しめると年貢が減り権力者自身が困ることになるからだ。悪代官など支配者側の失敗は、家禄減俸や重ければ死罪など目に見える形での罰として裁かれた。
 さて、日本の封建社会においては地方分権の上に中央政府が置かれていたため、地方によって政策が違い地域に即したものであった。また責任範囲が限られていたため緊急時における救民活動の動きも早かった。江戸時代では各藩に物資を備蓄する蔵が点在し緊急時にここから囲米・囲籾と呼ばれる食糧や金銭が配られたのである。
 彦根藩では、井伊直孝の時に京で彦根藩領出身の生活困窮者17人が保護されたことを恥として直孝は家臣を叱責し領内改革に着手した。また井伊直幸の頃に城下で起きた大火の救済として、世子直富が父の許可を得るより早く自らの判断で彦根城の蔵を開いて救援物資を配るなどの政策もある。
 各藩は緊急事態で財政が逼迫すると年貢の値上げよりも先に藩士たちの俸給を藩が借受ける形でカットした。その額も半分や8割など状況によって信じられないような高額の対策が行われた。年貢や税を徴収する者は、それほど大きな責任を背負っていたのであり、それは先祖代々の身分と責任の世襲であることが社会の仕組みとして完成していたのだ。
 もちろん全ての者が自らの身分を顧みていたわけではなく、身分に胡坐をかいた者の多さが明治維新に繋がっていくが、迅速な救民、責任を持って状況を打破する施政者は期待できない。悪代官に近いような人物が横行するのは明治以降であると断言できるのである。

彦根城梅園
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彦根の木村重成史跡

2020年06月23日 | 史跡
大坂夏の陣の井伊直孝は、大坂城落城時に豊臣秀頼と淀の方が籠った山里曲輪を囲い、投降を呼びかけましたが返事がなかったため、鉄砲を撃ちかけ、秀頼と淀の方らの自害を認めたところまで続きます。

ひとつの説として、各地で敗北した秀頼はすでに降伏していて安心して気が抜けた大坂城の兵が火を使ったまま眠ってしまった失火で天守が燃えてしまい勘違いした直孝が秀頼らを追い詰めたとも言われています。

どんな形にせよ、大坂夏の陣により豊臣氏は滅びました。
そして、彦根に凱旋する井伊軍の中に、若江堤に生息するススキで丁寧に木村重成の首を包んで運ぶ安藤長三郎がいたのです。

長三郎は、彦根城下に建立された宗安寺に安藤家の墓を建立し、ここに重成の首塚を作りましたが、そのことは明治まで伏せられました。



首を包んだススキは、佐和山神社に植えられ「血染めのススキ」と呼ばれましたが、佐和山神社が井伊神社に合祀されたときに宗安寺に移されます。

後に井伊神社の鳥居の麓に分けられたので、彦根市内には二か所に血染めのススキがあります。



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茶臼山古墳

2020年06月22日 | 史跡
二回の大坂の陣で、どちらでも重要な拠点になったのが茶臼山です。

もともとは古墳なのですが、大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田信繁(幸村)の陣となった場所です。





古墳も、被葬者がこの辺りの有力者だった説や、和気清麻呂が掘削工事に失敗して残った跡である説など面白いものがありますが、ここから大坂城までの間は間違いなく激戦地であったのです。

そんな地で、御歌頭さんの描かれた真田信繁墨将印との写真を撮りました。



御歌頭さんファンですから、関連地で作品と一緒に撮影するのは大好きです。
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木村長門守表忠碑

2020年06月21日 | 史跡
彦根藩大坂蔵屋敷は、中之島の近くにありましたが、中之島にはしばらく書いていた若江の戦いの木村重成を顕彰した『木村長門守表忠碑』が建っています。
もともと、中之島に豊国神社があり、その境内に西村捨三が中心となり明治9年(1876)碑を建立しました。

字は日下部鳴鶴が書いていますので、旧彦根藩士が多く関わっているかもしれません。


重成の首が宗安寺に埋まっていることを安藤家が公表したのも明治になってからですので、旧彦根藩士のなかで明治になってから重成の再評価があったのかもしれないですし、重成を討ったことを含めて大坂の陣のあとに彦根藩は15万石(安中3万石は除く)から30万石に加増されたことからも、藩として決して軽く扱ってはいない人物だったかもしれません。

昭和36年(1961)に豊国神社は、大阪城内に遷座しますが重成の碑だけはそのまま残されることになったのです。
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彦根藩大坂蔵屋敷跡

2020年06月20日 | 史跡
大阪中之島周辺には、江戸後期に主要な藩の蔵屋敷が並んでいて、米や藩の特産物の取引を行う場でもありました。

彦根藩も大坂過書町(北浜)に蔵屋敷がありました。
地図で見ると、淀屋橋より一本東の栴檀木橋の南です。

(地図は、学研『歴史群像シリーズ 城と城下町2「大坂 大阪」』より)

まずは栴檀木橋を目指して、




南側の交差点から蔵屋敷がある方を見ると資生堂が建っていました。

大坂の町はすべてが幕府の直轄地であったため、各藩は蔵屋敷を所有しているわけではなく名代と呼ばれる人々から借りている形になっていて、自由に移転などは出来なかったそうです。
江戸後期は経済の時代になりつつあったので、商人たちと藩との付き合いも大変だったことでしょうね。

余談ですが、彦根藩大坂蔵屋敷の隣は盛岡藩南部家の蔵屋敷でした。
浅田次郎さんの『壬生義士伝』の始まりすぐに「大坂詰の南部藩士たちにとって、さしあたり配慮せねばならぬことは、塀ひとつを経て隣り合わせる彦根藩が、薩摩長州の陣に加わっているという事実である」
とも書かれています。つまりは彦根藩大坂蔵屋敷の隣が、この物語の主人公吉村貫一郎の孤独で壮絶な終焉地になるのです。
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飯島三郎右衛門の墓

2020年06月19日 | 史跡
井伊直孝軍の先陣として若江の戦いに参戦し、討死した山口重信の戦果として、飯島三郎右衛門を槍で討ったことが挙げられます。

その飯島三郎右衛門が討死したとされている地に墓が建立されています。


飯島家は、飯島太郎左衛門という人物が織田信長に仕えていました。
天正5年(1577)、信長と石山本願寺との戦いの局地戦として高井田の戦いと塩川の戦いが起こります。高井田では小寺高仲という青年が本願寺方の武将として信長軍と戦いますが、この高仲を討ったのが太郎左衛門でした。
その功績から、太郎左衛門には高井田村が与えられて庄屋となったのです。

東大阪市では、太郎左衛門が木村重成に従って戦ったとの話も残っていますが、高仲を討ってから40年近く後の話なので、若江の戦いで戦ったのは三郎右衛門は太郎左衛門の子もしくは孫でもおかしくはないと考えられます。

高井田と若江は近い場所にあり、三郎右衛門は重成の道案内を買って出ました。
弓と槍に秀でていて、積極的に戦い、山口重信の槍に突かれたのです。その地は沼地だったそうなので三郎右衛門は沼に足を取られた末に討たれたのかもしれません。

後に、三郎右衛門の息子により討たれた地に墓が建立されました。
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若江城跡

2020年06月18日 | 史跡
若江の戦いの関連地と一緒に、若江で欠かせないのは若江城です。


南北朝時代に南朝方楠木正儀(楠木正成の三男)侵攻を抑えるために河内守護畠山基国が築城したとされています。
若江鏡神社に朝日が差すことを邪魔しないように神社の西側に城を築いたという話があるため、前回紹介しました若江鏡神社は南北朝時代には信仰厚い場所であったことがわかります。

応仁の乱で特に激しく戦ったのが畠山政長と義就で、両者は応仁の乱終結後は畿内各地で戦火を広げます。
文明15年(1483)夏、若江城は畠山政長の城の一つでしたが、畠山義就は若江城を水攻めにします。これが日本最初の戦術としての水攻めの最初にぬります。
若江城水攻めで勝利したのは義就で、以降は義就の軍事拠点となり、この地で亡くなったとも言われています。

その後も畠山両氏の戦いや細川氏など畿内に関わる勢力争いの舞台になりますが、三好長慶が畿内で勢力を広げると三好氏の拠点となりました。
長慶の死後、織田信長の上洛で弱体化した三好氏は信長の仲介で足利義昭の姉と三好義継の婚礼を行い信長の傘下に入りました。
しかし今度は義昭が信長と戦ったために、義継夫婦は信長に敵対することとなり、若江城に籠った末に夫婦で自害して果てたのです。
若江城は、河内三好氏終焉の地でもあるのです。

三好氏は、足利義昭の兄義輝を暗殺している為、義昭と姉にとって義継は兄の仇になります。そんな三好氏と足利の姫が運命を共にするとは予想もしなかった織田信長は、三好義継室の死の知らせに小さく嘆息したとも言われています。

そして、若江城は大坂城築城の材料として破城され、大坂夏の陣の時には城としては機能していませんでした。
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若江鏡神社

2020年06月17日 | 史跡
若江鏡神社は、蓮城寺と並んでいる神社ですので、木村重成の陣に含まれていたと考えられます。


訪問したときはそれくらいの認識でしたが、あとで調べると「若江」の地名の由来になっていたり、雷様の手形石があったりしたそうです。
創建は古く、神功皇后にまつわる鏡を埋めた鏡塚があるくらいですので、『記紀』の時代まで遡ることになります。


大坂夏の陣で本殿は焼けてしまい、江戸時代後期の文政11年(1828)に再建されたそうですが、この間200年近くはどんな姿だったのか興味も沸きます。
本殿が焼けたのは若江の戦いの時と考えると、この戦いの遺構とも言えます。
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木村重成の菩提寺・蓮城寺

2020年06月16日 | 史跡
木村重成・山口伊豆守と対峙し討死した両武将の墓に手を合わせたあと、若江岩田駅に向かいながら史跡を訪れて行きます。

若江の戦いで、木村重成が陣を置いた蓮城寺は、重成の菩提寺にもなっています。

境内には、九州から移築された位牌堂があり、中には重成像や位牌が安置されてました。



もともと清正公堂だったこともあり加藤清正の像も安置されているようで、日蓮宗のお寺では外護者だった清正を祀るところも多いとの説明を読んで、そんな流れがあることを初めて知りました。



昔(2008年)に若江を訪れた時に、近くに木村重成石像があったのですが、写真の質が悪かったので今回撮り直そうと探し回ったのですが、近所の方の話では「住宅地に整備された時に像が撤去されて行先はわからない」とのことでした。

写真は、ボケてます。

地元で様々な形で顕彰されている人物ですら像が撤去されるという事実に驚き、残念でもありました。
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山口重信の墓

2020年06月15日 | 史跡
第二寝屋川の南、八尾市幸町の木村公園内に木村重成の墓がありますが、北の東大阪市若江東の若江南墓地内に山口伊豆守重信の墓があります。

所在地の市が違うために遠くに感じますが、第二寝屋川を挟んですぐの場所にあり近くに橋も架かっていますので、普通に歩けば2分くらいで移動できる距離です。

山口重信は、徳川家康に仕えていて常陸牛久1万石を封じられていましたが、大久保忠隣の養女を正室に迎えようとした時に不備があり慶長18年(1613)に改易になりました。
旧領回復のために、大坂冬の陣に出ようとしたら箱根の関で足止めされてしまい、井伊直孝軍に陣借し手柄を立てるために先鋒を望んだのです。

まだ26歳の若武者であった信重は、先陣を争い獅子奮迅の働きをみせて、木村重成軍の飯島三郎右衛門ら5騎を討ちますが自身も討死してしまいました。
若江の戦いには、重信の父重政と叔父重克も参陣していて、重克も討死します。

13年後に重政が牛久1万5千石で再興。
重信の33回忌の正保4年(1647)に、重信の弟弘隆(牛久藩二代藩主)が兄の討死の地に墓を建立したのです。
林羅山の文章、石川丈山の文字で作られた墓碑から考えても山口重信の活躍が凄かったことが窺えるますし、4.5mと言われている大きな墓石は迫力があります。


それから100年以上が過ぎて作られた木村重成の墓は、重成が美男子だったこともありお参りする人が多くいましたが、川を挟んだ重信の墓に参る人は少なく、墓石を支える石亀が鳴いたとの伝承も残っています。


余談ですが、木村重成の妹婿で重成の墓の隣に墓がある山口左馬介弘定と山口伊豆守重信は、どちらも山口の大内氏の子孫とも言われていて、大内氏が使った「弘」の通字を使う人物が多いとも言われています。
その二人が敵味方に分かれて、川を挟んだ地に墓が建立されているのも面白いです。
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