明治31年(1898)10月31日、第一次大隈重信内閣が瓦解し11月8日に総辞職しました。
第三次伊藤博文内閣の総辞職によって組閣された大隈重信内閣は明治31年6月30日から政務を行いましたが、その中には軍人を軍部大臣のみに推し止めるという当時としては画期的な人選で、実質的な日本最初の政党内閣だったのです。
しかし、新しいことを行うということは敵も多いということで、組閣当初から周囲の攻撃は理不尽に大きかったのです。そのうえで第一政党としての憲政党自体も、大隈重信や大東義徹・尾崎行雄らの旧進歩党と、板垣退助(内務大臣)らの旧自由党での内部争いも激化していたのでした。
とくに板垣退助は、星亨を外務大臣とするように依頼しますが大隈重信はこれを拒否して自分自身が外務大臣を兼任してしまうのです。
そして8月21日に尾崎行雄が共和演説事件を起こして失言を理由に辞任。後任には犬養毅が任じられますが、内閣内外からの批判が多く、犬養就任の翌日(10月28日)に板垣退助ら旧自由党の人々が辞任し、修正できないままに31日になって内閣が崩壊したのです。
失言問題や、新しい試みを複数政党が集まった形で行おうとして、意見が合わずに政党内が崩壊し、衰退の一途を辿る。
このようなことは、明治時代に既に行われていた事件だったのです。
ちなみに、この内閣の司法大臣が大東義徹。戦前で唯一の滋賀県出身の大臣であり旧彦根藩士であり、近江鉄道初代社長です。
第三次伊藤博文内閣の総辞職によって組閣された大隈重信内閣は明治31年6月30日から政務を行いましたが、その中には軍人を軍部大臣のみに推し止めるという当時としては画期的な人選で、実質的な日本最初の政党内閣だったのです。
しかし、新しいことを行うということは敵も多いということで、組閣当初から周囲の攻撃は理不尽に大きかったのです。そのうえで第一政党としての憲政党自体も、大隈重信や大東義徹・尾崎行雄らの旧進歩党と、板垣退助(内務大臣)らの旧自由党での内部争いも激化していたのでした。
とくに板垣退助は、星亨を外務大臣とするように依頼しますが大隈重信はこれを拒否して自分自身が外務大臣を兼任してしまうのです。
そして8月21日に尾崎行雄が共和演説事件を起こして失言を理由に辞任。後任には犬養毅が任じられますが、内閣内外からの批判が多く、犬養就任の翌日(10月28日)に板垣退助ら旧自由党の人々が辞任し、修正できないままに31日になって内閣が崩壊したのです。
失言問題や、新しい試みを複数政党が集まった形で行おうとして、意見が合わずに政党内が崩壊し、衰退の一途を辿る。
このようなことは、明治時代に既に行われていた事件だったのです。
ちなみに、この内閣の司法大臣が大東義徹。戦前で唯一の滋賀県出身の大臣であり旧彦根藩士であり、近江鉄道初代社長です。