現在は混合して使われているが、「苗字」と「氏」ではその用途が違っている。わかり易い例では徳川家康の苗字は「徳川」であり、氏は「源」となるので徳川家康が氏名を名乗る時は「源家康」となる。同じ例で豊臣秀吉は苗字が「羽柴」で氏は「豊臣」なのだ。氏が同じ一族を示すものであり、そこから派生して家ごとに苗字が付くようになった。
では、井伊家はどうだったのかといえば、例えば井伊直弼は狩野永岳に描かせた自らの肖像画に「藤原直弼」と署名しているように藤原氏を使っている。井伊直政も天正16年(1588)に徳川家康の供で聚楽第に行き豊臣秀吉が官位を勧めたとき「大織冠(藤原鎌足)の末裔なので、公家の家来筋に多い諸太夫は末代までの恥、官位をいただくならば侍従は別格、諸太夫なら辞退いたします」と堂々と訴えて侍従に任官された。つまり井伊家は藤原氏であることが直政の代には公に認知されていたことを示している。しかし初代井伊共保は井戸から化現した人物なのにどこで藤原鎌足の子孫となったのか? 共保の人生を追いながらその謎を解いてゆきたい。
共保が誕生した頃、遠江国を治めていたのは備中守共資という人物で、その館である志津城(古記では村櫛の江)は浜名湖の中に建てられ湖の交通を監視する重要な拠点だった。この共資が藤原鎌足の十二代の子孫であり藤原房前系(南家)であると彦根藩は江戸幕府に報告している。しかし新井白石は藤原武智麻呂系(北家)ではないかとも記しているのだ。どちらにしても共資の氏が藤原であったと考えられている。(ただし現在では藤原氏ではない説も出てきています)
『井伊家傳』にまとめられた話では、藤原共資には娘が生まれたが男子に恵まれず、男子が欲しいと神仏に祈っていた。そんな時に井伊谷で井戸から化現した男児の噂を聞き、この男児が七歳の時に養子として迎え、元服し共保と名乗った男児に娘を嫁がせて家を継がせた。と、書かれている。藤原共資の家督を継いだ共保は、居城を志津城から故郷である井伊谷の井伊保山に移し、この地名から「井伊」を苗字にしたのだと伝わっている。
井伊谷城への移転と井伊の苗字を名乗り井伊家始祖として歴史に名を刻んだ井伊共保は、寛治7年(1093)に84歳で亡くなり、産湯をつかった自浄院に葬られた。
さて、ここで一つの私説を論じて井伊共保の話は終わりにしたい。共保はなぜ七歳で養子になったのだろうか? 前稿で彦根藩は「辰年に奇瑞がある」と残していることを書いたが、井伊家に関わる最初の辰年が共保7歳の1016年なのだ。もしかすると共保は誕生してすぐに共資の養子になったが、後の井伊家が辰年の縁に繋げて七歳にこだわったと思うのは考え過ぎだろうか?
藤原共資の居城・志津城跡