彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『大築城時代と甲賀』講演聴講報告

2010年11月27日 | 講演
甲賀市で『甲賀市史』第7巻刊行記念シンポジウムが行われるとの記事が新聞に載っていましたので、これを聴講する事にしました。

記事では誰が講演されるのかが書かれていませんでしたが、資料を見ると中井均先生など城郭に関わる先生が4名講演される予定になっていました。


『甲賀市史』第7巻は、「甲賀の城」だけをまとめた、市史クラスでは他に類を見ない地域の城の専門的な本と言う位置付けになるようです。
180の城が調査され縄張図の作成をし直したそうです。
そんな調査に携わった先生方が講演されます。

まずは中井均先生が「甲賀の城の縄張と戦略」と題して、甲賀の城は本城と支城を分けて考えていたが、本城は本丸で支城は二の丸・三の丸と考える大きな複廓で考える方がいい事。
方形にこだわりながらも発展があった事が虎口などから伺える事。
石垣の城は、観音寺城から小堤城山城、三雲城と、六角氏の逃走拠点に合わせて作られている事などが話されました。

二番目に、中西裕樹先生が「戦国を問いかける甲賀の城」と題して、甲賀の同名中である一族でも外で活躍した例を挙げて、山中氏が細川氏の元で活躍した事。
同名中の事例として有力大名の後背地になっていた地があり、甲賀の場合は畿内全体の後背地になっている事などが話されました。

三番目に藤岡英礼先生が「甲賀の平地城館を探る」と題して、古地図や地名、地元の方のお話から甲賀の中の平地城館を調査された事を話されました。
甲賀では集落を囲む環濠集落の形跡が見られないそうで、複数の区画が集まった形が多いようです。

四番目に村田修三先生が「城郭から見た甲賀の世界」と題して、甲賀を信楽や土山・甲賀の中心に分け、それぞれで形跡が違う事を指摘され、特に知られている甲賀衆の城郭郡は信楽や土山には見られない事も話されました。
面白かったのは、土塁については家格との考え方でした。山城ならば土塁より切岸の方が有利なのに土塁を築くのは、それによってできる門が家格になるとのお話でした。

最後に4名のパネルディスカションがあり、
「甲賀の城ではどれくらいの規模の戦いがあったか?」では村田先生が土塁の上に100名中に100名程度の交代要員は入れただろうが、長期は無理。と話されたり。
「他の地域に行ったこともある人物がいるのに、なぜ甲賀の城は四角いままなのか?」では中西先生が地元に帰れば地元に従うからではないか。と話されました。
しかし信楽地域は松永久秀の侵攻を受けた事もあったりして、甲賀とは違う城郭もあり、他地域に影響され続けた地域との事でした。


最後に中井先生にお会いしましたので、甲賀の城の中で先生の一番お勧めの城を訊ねると上野城との事でした。
山城ならばそのまま山の形を利用した形の方が楽なのに、なぜ方形にわざわざ加工したのかを訊ねると、平地の居宅をそのまま山に上げるような作りは昔はゆくあったそうで兵庫にもその形跡はあるそうです。

この辺りに、まだまだ甲賀独特の城のヒントがあるのかもしれませんね。
何にしても『甲賀市史』第7巻、城の本として読み応えがありますよ。
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『家康と関ヶ原の群像』講演聴講報告

2010年11月24日 | 講演
『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー4「天下人と近江の戦国武将」
第3回目の講座として『家康と関ヶ原の群像』が開かれました。

講師は、静岡大学名誉教授 小和田哲男 先生


信長・秀吉に続いてはやはり家康のお話となります。
まずは、朝鮮の人が見た関ヶ原の解釈の話がありました。
朝鮮から見ると、関ヶ原の戦いは家康の米と毛利の銀の戦いとの視点になり、家康が勝ったから、江戸時代の日本は農本主義になり、豊臣政権は重商主義だったのが大きく変わったということでした。
秀吉が商業や貿易を重視し、家康が米による統治をしていたのは何となく感じていた事でしたが、ちゃんと言葉になって聞けて、脳の端にあったつかえの様な物が取れた気分でした。

そして、たった一日の大きな合戦の勝利が家康に632万石以上の差配をもたらしたとは…
関ヶ原の合戦の重さは計り知れませんね。

そして近江武将で西軍となった石田三成・大谷吉継
東軍となった京極高知・藤堂高虎・田中吉政・脇坂安治の説明をされて、井伊家の立場もお話がありました。

戦国近江を集中的に聞けた貴重な3回の講演は今回で終わりですが、次回の手習塾は『歴史学習を現代に活かす!』という講演が12月26日にあります。
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『よみがえる関ヶ原合戦』

2010年11月21日 | 博物館展示
「そうだ久々に、彦根城博物館の展示を見学に行こう!」と思い彦根城へ向かいました。
今の展示は『よみがえる関ヶ原合戦-関ヶ原合戦図を読む-』と題されたもので、関ヶ原の合戦図や関係する資料が展示されていました。

管理人は今まで、どちらかといえば文章に惹かれる性格だったので、合戦図屏風などは参考程度に眺めても、じっくり見る事は稀だったのですが、最近刊行されている『絵で知る日本史』の影響で、合戦図の見方も変わってきて案外じっくり見るようになりました。

思った以上に、様々な場面を一度に表現しようとしているのだと思うと、その描き手が何を主張したいのかが見えてくるのかもしれませんね。

井伊家の合戦図屏風ではやはり赤備えの活躍がよく目立ちます

その代りに西軍は散々です。
嶋左近は怪我を負っていますし

大谷吉継も自害の場面です。


そんななか気になったのは、本多忠勝(写真なし)井伊家の関ヶ原合戦屏風では本多忠勝の落馬のシーンをわざわざ描いたのでしょうね?


また井伊家伝来の物以外にも、旗印が多く描かれた物や、嶋左近の肖像画などの展示品もありました。
先日、伊賀上野に行った時に見た藤堂高虎の兜も展示されていました。

(この写真は伊賀上野城で撮影した物です)

関ヶ原の戦い410年の記念年ですから、方々で関ヶ原資料は取り合いになって展示されているかもしれませんが、彦根らしい展示も見モノですね。
展示は2010年11月30日までです。


【注意】
写真は他の展示の時に撮影した、今回の展示物です。今回は撮影を禁止されていました。



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『秀吉を支えた武将たち』講演聴講記録

2010年11月17日 | 講演
『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー4「天下人と近江の戦国武将」
第2回目の講座として『秀吉を支えた武将たち』が開かれました。

講師は、静岡大学名誉教授 小和田哲男 先生


前回の信長に続いて今回は秀吉を中心とした近江武将のお話でした。
秀吉が長浜城築城に至った経緯から、長浜城が建っている場所に秀吉より前に城主をしていた上坂氏という一族の“兄弟間の農分離”という一族の生き方。
そして、秀吉に仕えた北近江の武将たちの活躍ぶりなどが紹介されました。
とくに、今まで滋賀県内でもあまり多くを語られる事がなかった宮部継潤の生涯や、その養子となっていた豊臣秀次の生涯は地元民だからこそ知っておきたい人々だと感じるお話でした。

最後の質疑応答で、武将の書状が読み難いとの質問をされた方がおられ、小和田先生が「400年前500年前ですと当時の一般的な字なので読めたと思います」と答えておられたので、管理人もその質問者さんの内容にそのまま乗って「あの字は当時では綺麗な字だったのでしょうか?」と訊いてみました。
すると、「自筆と右筆書きがあり、右筆書きはけっこう綺麗な字です。書くプロ(今の書家)が書くような字ですので右筆の書いた字は綺麗です。ただ、自筆はそれぞれ個性があります。なかには上手い人もいます。11月25日に『戦国武将の手紙を読む』という本を出すのですが、そこに挙げた松永久秀の字は汚いです。なんとなく人物を反映しているのかな? と思います」とのお答えでした。
この本、一気に興味がわきました。読んでみようと思います。


次回は11月24日、『家康と関ヶ原の群像』というお話です。
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『信長に挑んだ武将たち』講演聴講報告

2010年11月10日 | 講演
『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー4「天下人と近江の戦国武将」
第1回目の講座として『信長に挑んだ武将たち』が開かれました。

講師は、静岡大学名誉教授 小和田哲男 先生


まずは、戦国・織豊期の近江の歴史的な位置付けについてのお話があり、近江は北国街道・北国脇往還・中山道・東海道・八風街道などの多くの陸路が通っていただけではなく、海路を通って敦賀や小浜から陸揚げされた物が塩津・大浦・海津・今津から坂本・堅田・大津に琵琶湖の舟運を使って流れる事で流通経済が活発化していた事。
また、六角氏や朽木氏が足利将軍の隠れ家になっていた事。そして戦国期有数の穀倉地帯だった事が話されました。
慶長三年検地目録には、近江は77万石と書かれているそうで、これは駿河17万石や越後30万石に比べるとはるかに多いそうです。
尾張・美濃・伊勢は50万国クラスの国だった為に、尾張で生まれた信長の活躍も頷けるとのことでした。

そして信長以前に近江で勢力を持っていた六角氏や京極氏のお話があり、京極氏は江北三郡(伊香・浅井・坂田)の守護職権を持っていたくらいであり、六角氏の方が上の立場であったとの事でした。

そんな中で、京極氏被官の国人一揆の中から浅井亮政が台頭してきます。
浅井氏は小谷城という大きな城を築城した事で、他の国人一揆が真似できないと思わせたとの事でした。
同じくらいの国人たちの中から一歩抜きんでる事で戦国大名化した国人一揆の代表は西の毛利氏と中央の浅井氏だったそうです。


織田信長の時代になると、浅井長政といつ頃同盟を結んだのかが問題になってきます。
小和田先生は信長が美濃の稲葉山城を落とした後の永禄10年から11年ごろとされていて、足利義昭を上洛させるために近江の六角・浅井両氏を敵に回さないようにするために浅井長政に妹を嫁がせた近国同盟ではないか。との説でした。
この後、金ヶ崎退き口を経て、姉川の戦いに至るのですが、姉川の戦いで信長が小谷城を落とさずに途中で軍を引いたために、三好三人衆が浅井方の勝利と勘違いして四国から大坂に軍を進め、城(寺)を囲まれたと勘違いした石山本願寺が怒ったという事でした。
その為に10年続く石山戦争が起こると考えると、何がどう影響するのか解らないものですね。


最後に、浅井家臣団の結束力について質問しました。
すると、当時は江戸時代のような「二君に仕えず」の精神はなく、強い方につく時代だったので結束力は低かったとの事でしたが、その例外として、三河徳川家は結束力が強かったそうです。そうであるからこそ天下人となり、その精神が江戸時代の二君に仕えない武士道に繋がっていったとのことでした。


次回は11月17日、『秀吉を支えた武将たち』の講座が開かれます。
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150年前:堀利煕、自害(11月6日)

2010年11月06日 | 何の日?
萬延元年(1860)11月6日、外国奉行の堀利煕(としひろ)が自害しました。
自害の原因は、老中の安藤信正に疑いをかけられた為の憤死だと伝わっています。

堀利煕は、安政5年に岩瀬忠震・水野忠徳・永井尚志・井上清直と共に新設された外国奉行に任命されるくらいですから、西洋通である事は伺えます。
しかし、他の外国奉行経験者に比べると、ネームバリューが少ないのは、この時に自害してしまったからなのです。
ただし、堀が居なければ幕末に台頭する人物もいます。その代表は後に五稜郭で蝦夷共和国を建国する榎本武揚です。榎本は堀の小姓として蝦夷探索調査に加わっていて、この調査があったからこそ蝦夷地の実態を知っていたのです。

また、堀は安政4年には箱館奉行も務めていて、日本人が手掛けた洋式帆船『箱館丸』の進水式に出席し、箱館丸で江戸までの海路を乗ってその技術が信頼できるものである事を示したのです。

このように幕府にとって有能な官僚であった堀利煕でしたが、プロイセン使節オイレンブルークら一行の応接掛として全権を委ねられ交渉しながら「プロセインと裏交渉を行ってい、それと同時にオーストリアとの裏交渉も行っている(これらはドイツ連邦に関わる国々)」との噂が幕府内で流れた為に、老中の安藤信正に追及され、何の弁明もしないままに自害したのです。享年43歳。

堀の交渉は外国奉行の同役にあった村垣範正が引き継ぎ『日普修好通商条約』締結にいたりますが、同じように修好通商条約を結んだ他国とのほぼ変わらない条約締結のために、江戸幕府の総理大臣クラスの閣僚が、毒を食らう覚悟もある行動的で将来性もある官僚を死に追いやる不手際を打つ事となったのです。

堀利煕は、幕末期における管理職官吏犠牲者の最初の事例とも言われています。


余談ですが、堀利煕の母方の身内として叔父が天保期に南町奉行を務めた鳥居耀蔵。従兄弟には同じく外国奉行を務め『日米修好通商条約』に調印した岩瀬忠震がいます。
また利煕の父は大塩平八郎の乱の時に大坂西町奉行だった堀利堅(としたか)という人物で、利煕は血筋から考えても官僚の典型のような人物だったのです。
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11月4日、原敬刺殺事件

2010年11月04日 | 何の日?
大正10年(1921)11月4日、現役の首相であった原敬が東京駅で刺殺されました。享年65歳。

原敬は、平民宰相として歴史に名前を留めていますが、実は生まれは盛岡藩の武士で、原敬の祖父の原直記は家老も務めた上級武士でした。
敬が次男であった為に、分家した時に戸籍上の平民となっただけなのです。

盛岡藩を始めとする東北の諸藩は、幕末維新の動乱の中で奥羽越列藩同盟を締結し、明治政府に抵抗したことから朝敵とされて薩長藩閥から軽視されたとの歴史が実しやかに囁かれています。
確かに、政府高官のほとんどは薩長土肥の出身者に牛耳られていましたが、丁寧に歴史を見てみると、特定の藩(会津など)以外は、それほどに差別を受けた感は見られません、逆説的に考えればそこまで政府の人材は充実してはいませんでした。
そんな中、盛岡藩出身で戸籍上は平民だった原敬の生い立ちだけを見ると司法省法学校を退学処分になったり大隈重信の関係者と意見が合わなかったなど、迫害されたようなイメージが付き纏う人生がありますが、最終的に陸奥宗光や西園寺公望に外交官としての才能が認められて実務を任されるほどになっているのです。
明治33年(1900)になうと、伊藤博文の立憲政友会に井上馨の薦めで入会しているので、長州藩閥との繋がりも持っていた事が伺えます。

その後、第2次西園寺公望内閣や第1次山本権兵衛内閣で内務大臣を務め、西園寺公望の後を受けて立憲政友会の三代目総裁に就任するのです。
こうして、政党の力を武器として大正7年(1918)には内閣総理大臣に任命されるのでした。これが日本最初の本格的な政党内閣となります。

政党内閣として、民衆から大いに期待された原内閣でしたが、財閥や政商優遇や普通選挙法に反対した事や、政治の動きが小刻み過ぎた事などが民衆の失望感を買いました。
そして大正10年11月4日午後7時25分頃、立憲政友会京都支部大会へ出席する為に京都行きの汽車に乗る予定で東京駅乗車口(現在・丸の内南口)へと向かっていた原敬に対して一人の青年が突っ込んできて敬にぶつかり、青年が持っていた短刀で右胸を刺されました。その場に倒れた原敬は、心臓にまで達した刺し傷のために即死だったのです。

原敬を刺した青年は、山手線大塚駅職員の中岡艮一という18歳の若者だったのです。

中岡は死刑求刑を受けましたが、無期懲役の判決を受け、13年後には釈放されています。裁判に関する記録もほとんど残っていない不思議な裁判として、原敬暗殺事件は政治的な陰謀説が囁かれているのです。


さて、この事件自体は彦根にも滋賀にもあまり関わりが無い事件です。
敢えて言うなら「原敬が向かっていた先が近くの京都だった…」との指摘があるくらいでしょうか?

しかし、原敬と言う人物に注目すると面白い関わりが見えてきます。
原敬の最初の妻である貞子の父親は、中井弘という元薩摩藩士でした。この中井弘は桜洲という号の方が知られているかもしれませんが、滋賀県にとっては三代目滋賀県令であり初代滋賀県知事として知られた人物です。
その業績の一番大きい物は琵琶湖疏水の完成を手掛け、明治天皇の琵琶湖行幸を実現させた事でした。
中井は、その後滋賀県知事を辞任しますが、平安遷都1100年の大祭のために京都府知事に任命され平安神宮建造や時代祭として今に残る大祭の準備に奔走している途中で病没します。その時代祭を開催にまで導いた人物の一人が、彦根藩士族で大阪府知事・沖縄県令などを歴任した西村捨三です。
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150年前:家茂と和宮縁組発表(11月1日)

2010年11月01日 | 何の日?
萬延元年(1860)11月1日、将軍徳川家茂と皇女和宮の縁組が正式に発表されました。
同時に、酒井忠義が和宮下向の御用掛に任命されます。

二人の婚礼は井伊直弼が残した公武合体政策を基準として、井伊政権を引き継いだ安藤信正によって進められました。
一説には長野主膳が裏で動いていたとも言われています。

皇室から武家に正室を出す事は、身分が低い者へ嫁ぐ事になるので降嫁という言葉がよく使われます。
特に和宮には既に婚約者がいた事もあって、この話は簡単には進みませんでした。しかし結局は幕府や朝廷の政治の道具にされてしまった感が否めないのです。

また、婚約が決まってからも様々な準備等があり、和宮が江戸城大奥に入るのは翌年の12月まで一年以上の時間が掛ることとなります。
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