甲賀市で『甲賀市史』第7巻刊行記念シンポジウムが行われるとの記事が新聞に載っていましたので、これを聴講する事にしました。
記事では誰が講演されるのかが書かれていませんでしたが、資料を見ると中井均先生など城郭に関わる先生が4名講演される予定になっていました。
『甲賀市史』第7巻は、「甲賀の城」だけをまとめた、市史クラスでは他に類を見ない地域の城の専門的な本と言う位置付けになるようです。
180の城が調査され縄張図の作成をし直したそうです。
そんな調査に携わった先生方が講演されます。
まずは中井均先生が「甲賀の城の縄張と戦略」と題して、甲賀の城は本城と支城を分けて考えていたが、本城は本丸で支城は二の丸・三の丸と考える大きな複廓で考える方がいい事。
方形にこだわりながらも発展があった事が虎口などから伺える事。
石垣の城は、観音寺城から小堤城山城、三雲城と、六角氏の逃走拠点に合わせて作られている事などが話されました。
二番目に、中西裕樹先生が「戦国を問いかける甲賀の城」と題して、甲賀の同名中である一族でも外で活躍した例を挙げて、山中氏が細川氏の元で活躍した事。
同名中の事例として有力大名の後背地になっていた地があり、甲賀の場合は畿内全体の後背地になっている事などが話されました。
三番目に藤岡英礼先生が「甲賀の平地城館を探る」と題して、古地図や地名、地元の方のお話から甲賀の中の平地城館を調査された事を話されました。
甲賀では集落を囲む環濠集落の形跡が見られないそうで、複数の区画が集まった形が多いようです。
四番目に村田修三先生が「城郭から見た甲賀の世界」と題して、甲賀を信楽や土山・甲賀の中心に分け、それぞれで形跡が違う事を指摘され、特に知られている甲賀衆の城郭郡は信楽や土山には見られない事も話されました。
面白かったのは、土塁については家格との考え方でした。山城ならば土塁より切岸の方が有利なのに土塁を築くのは、それによってできる門が家格になるとのお話でした。
最後に4名のパネルディスカションがあり、
「甲賀の城ではどれくらいの規模の戦いがあったか?」では村田先生が土塁の上に100名中に100名程度の交代要員は入れただろうが、長期は無理。と話されたり。
「他の地域に行ったこともある人物がいるのに、なぜ甲賀の城は四角いままなのか?」では中西先生が地元に帰れば地元に従うからではないか。と話されました。
しかし信楽地域は松永久秀の侵攻を受けた事もあったりして、甲賀とは違う城郭もあり、他地域に影響され続けた地域との事でした。
最後に中井先生にお会いしましたので、甲賀の城の中で先生の一番お勧めの城を訊ねると上野城との事でした。
山城ならばそのまま山の形を利用した形の方が楽なのに、なぜ方形にわざわざ加工したのかを訊ねると、平地の居宅をそのまま山に上げるような作りは昔はゆくあったそうで兵庫にもその形跡はあるそうです。
この辺りに、まだまだ甲賀独特の城のヒントがあるのかもしれませんね。
何にしても『甲賀市史』第7巻、城の本として読み応えがありますよ。
記事では誰が講演されるのかが書かれていませんでしたが、資料を見ると中井均先生など城郭に関わる先生が4名講演される予定になっていました。
『甲賀市史』第7巻は、「甲賀の城」だけをまとめた、市史クラスでは他に類を見ない地域の城の専門的な本と言う位置付けになるようです。
180の城が調査され縄張図の作成をし直したそうです。
そんな調査に携わった先生方が講演されます。
まずは中井均先生が「甲賀の城の縄張と戦略」と題して、甲賀の城は本城と支城を分けて考えていたが、本城は本丸で支城は二の丸・三の丸と考える大きな複廓で考える方がいい事。
方形にこだわりながらも発展があった事が虎口などから伺える事。
石垣の城は、観音寺城から小堤城山城、三雲城と、六角氏の逃走拠点に合わせて作られている事などが話されました。
二番目に、中西裕樹先生が「戦国を問いかける甲賀の城」と題して、甲賀の同名中である一族でも外で活躍した例を挙げて、山中氏が細川氏の元で活躍した事。
同名中の事例として有力大名の後背地になっていた地があり、甲賀の場合は畿内全体の後背地になっている事などが話されました。
三番目に藤岡英礼先生が「甲賀の平地城館を探る」と題して、古地図や地名、地元の方のお話から甲賀の中の平地城館を調査された事を話されました。
甲賀では集落を囲む環濠集落の形跡が見られないそうで、複数の区画が集まった形が多いようです。
四番目に村田修三先生が「城郭から見た甲賀の世界」と題して、甲賀を信楽や土山・甲賀の中心に分け、それぞれで形跡が違う事を指摘され、特に知られている甲賀衆の城郭郡は信楽や土山には見られない事も話されました。
面白かったのは、土塁については家格との考え方でした。山城ならば土塁より切岸の方が有利なのに土塁を築くのは、それによってできる門が家格になるとのお話でした。
最後に4名のパネルディスカションがあり、
「甲賀の城ではどれくらいの規模の戦いがあったか?」では村田先生が土塁の上に100名中に100名程度の交代要員は入れただろうが、長期は無理。と話されたり。
「他の地域に行ったこともある人物がいるのに、なぜ甲賀の城は四角いままなのか?」では中西先生が地元に帰れば地元に従うからではないか。と話されました。
しかし信楽地域は松永久秀の侵攻を受けた事もあったりして、甲賀とは違う城郭もあり、他地域に影響され続けた地域との事でした。
最後に中井先生にお会いしましたので、甲賀の城の中で先生の一番お勧めの城を訊ねると上野城との事でした。
山城ならばそのまま山の形を利用した形の方が楽なのに、なぜ方形にわざわざ加工したのかを訊ねると、平地の居宅をそのまま山に上げるような作りは昔はゆくあったそうで兵庫にもその形跡はあるそうです。
この辺りに、まだまだ甲賀独特の城のヒントがあるのかもしれませんね。
何にしても『甲賀市史』第7巻、城の本として読み応えがありますよ。