彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月28日、井伊直孝死去

2016年06月28日 | 井伊家関連
万治2年(1659)6月28日、井伊直孝が亡くなりました。


井伊直政が上野国(群馬県)箕輪城12万石の城主だった時、同じ年に2人の男児が誕生しました。
長男が、万千代(直継)
次男が、弁之助(直孝)と命名されました。

同じ年に生まれたこの兄弟の母親は別の人物で、万千代の母は正室・松平氏でしたが、弁之助の母・印具氏は、万千代の母の侍女だったのです。
怒った松平氏は印具氏と弁之助を城から追い出してしまったのです。
ちなみに直孝の産湯を汲んだ井戸が静岡県焼津市中里の若宮八幡宮に残っていますので、もしかしたら印具氏が追い出されたのは弁之助が生まれる前だったのかも知れません。
そんな風に、城から追い出された弁之助でしたが、6歳の時に母・印具氏に連れられて直政と親子の対面を果たし、その保護を受けるようになりましたがまだ城に入る事ができなかったのです。

11歳の時に弁之助の有能さを惜しみ手元で育てたいと望んだ直政は、迎え入れるのを拒む松平氏に対して「弁之助に母が居なくなれば我が手で育てねばなるまい」と言い、印具氏に刺客を向けて殺してしまったのです。
こうして母を失った弁之助は父・井伊直政の息子として迎えられたのでした。
この時、直政は近江国佐和山18万石の城主となっていましたが、翌年に亡くなってしまうのです。

しばらくして、徳川家康に拝謁、家康の後継・秀忠に仕え井伊家の別家として所領を得ました。
そして15歳で兄・万千代と共に元服し、直孝と名乗ったのです。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣で初陣を飾りますが、この時に病弱な兄に代わって井伊家家臣を率いて出陣しました。
この戦いでは真田信繁の真田丸に攻撃を仕掛けて大敗を喫しますが、その勇猛振りを家康に評価されたのでした。
冬の陣和睦後、家康から井伊家宗家の家督を兄・直継から直孝に譲るようにとの命が下ります。
こうして直孝は彦根藩井伊家を相続したのです。
石高は15万石。3万石を直継に譲ったのでした。この時から井伊家は2家に分かれたのでした。

翌年の大坂夏の陣では先鋒を務め活躍し“夜叉掃部”との異名をとるほどになったのです、この戦いで豊臣秀頼の信頼が厚かった木村重成を討ち取って、秀頼や淀の方を追い詰めて自害に追い込んだのも直孝でした。
戦後、戦功を賞されて家康から金と銀を千枚ずつ賜り、5万石の加増も得たのでした。島津家の薩藩旧記に「日本一の大手柄」と称賛されています。
この加増で、彦根城の拡大が必要となり、第二期工事が始まったのでした。
後年に近江国内で5万石、世田谷と下野国佐野で計5万石(後に3万石が近江に移される)の加増があり30万石の所領を得たのです。
ここに彦根藩主には京都守護を兼任する事が決まっていて、その役料として5万石の米が幕府より預けられていたので合計35万石の大大名となったのでした。

さて、井伊直孝には一つ大きな疑問が残されています。
大老になったのかなっていないのか?
徳川秀忠が亡くなる時に「彦根には戻らず、江戸詰めとなり“元老”に就任して三代将軍・家光を補佐するように」との遺命が残されます。
この元老という職は、そのまま後の大老となるのですが、大老という呼び名では無い以上は、大老として扱わないのか?それともいい直孝が初代大老となるのかは今でも議論が分かれる所です。
彦根藩から出た大老の数は5人か7人と言われていますが、5人の時は“直澄・直興・直幸・直亮・直弼”の事を指し、7人になるとこれに“直孝・直該(直興の再任)”が加わるのです。
どの様な呼び名にしろ、直孝は三代将軍・家光を元老として支え、家光が亡くなった後は四代将軍・家綱の後見を勤めたのです。


何度も書きますが、井伊直孝と言えばひこにゃんです。
彦根は招き猫がシンボルとなっていますが、その伝承は直孝から始まっています。

1615年と言いますから、ちょうど大坂夏の陣の年のこと、貧しいお寺だった弘徳庵の和尚は、とても大切にしている猫(名前・タマ)がいたそうです。
和尚は自分の食事を削ってまで猫に与えていましたが、ある日その猫に「タマ、恩を感じているなら何か福を招いてくれないか?」と言って聞かせました。
多分、貧しさによる冗談だった筈です、しかし夏の日のこと、急に門前が騒がしくなり和尚が不審に思って表に出ると狩の中途と思える立派な武士が居ました。
その武士は「何やらこの猫がしきりに手招きするので尋ねてみた、休憩させてもらう」と言いました。
和尚が武士を茶でもてなしていると突然雷が鳴り響き、辺りは豪雨となったのです、和尚はその中でも整然と仏の教えについて説きました、これを見た武士は「我は、近江彦根城主・井伊直孝だ、猫に招かれ雷雨を逃れ、その上、ありがたい話まで聞けた、これからもよろしく頼む」と言ったそうです。
井伊直孝は、この後、四代将軍・家綱の頃まで幕府の重鎮として活躍し、江戸前期の幕府を築き上げた「寛永の遺臣」の一人にも挙げられていますし、井伊家は江戸時代を通して七人の大老を輩出するほどの名門でしたから弘徳庵は、江戸における井伊家の菩提所として多くの田畑を寄進され、大きなお寺へとなったのでした。
そして、後に直孝の戒名を取って『豪徳寺』と改名したのです。
和尚は、猫の恩返しに感謝し、その後も大切にし、亡くなった後は墓を作って「まねきねこ」と称して家内安全、営業繁盛、心願成就のご利益があると公伝しました。
こうして招き猫が誕生し、彦根も招き猫をシンボルにするようになったのです。

この縁のあり、直孝の墓は豪徳寺に建立されています。
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井伊家千年の歴史 (8)

2016年06月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 南北朝時代に数々起った戦いのうちで、特に重要となる一つが青野原の戦いである。延元三年(1338)1月、奥州で戦っていた北畠顕家は畿内での南朝方の不利を助けるために軍勢を都へ向けて猛進させ、関東や東海道で味方が集まり軍は拡大した。北朝に属していた今川範国は、顕家の軍勢を後ろから追う形で戦いを仕掛け、そして美濃国青野原(大垣市)において北朝の土岐頼遠・高師兼(高師直の従弟)らの軍勢に範国が合流し顕家との決戦におよんだのだった。
 青野原は関ケ原の東側にある。平成28年4月に「関ケ原合戦は、その直後に青野カ原と記されていた」とのニュースが出たが、戦国時代の人々が南北朝時代の古戦場という予備知識を持っているくらいに有名な戦いであったという証拠でもある。
 戦いは、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ勢いも数も勝っていた南朝軍が勝利を収め北朝軍は崩壊。驚いた足利尊氏は高師泰(高師直の弟)や佐々木道誉らを関ケ原の黒血川に向かわせたが、なぜか顕家はこの軍を避けて南下し1か月後に奈良般若坂の戦いに敗れ、泉堺浦で討死する。この顕家の軍勢に遠江で合流し般若坂の戦いの後に義良親王を南朝の拠点である吉野まで送り届けたのが宗良親王だったとされている。
 青野原の戦いの少し前、後醍醐天皇の皇子として南朝方の拠点の一つである遠江に派遣されていた宗良親王は、井伊道政・高顕親子に迎えられ奥山に入り道政の娘(駿河姫、重姫とも呼ばれる)との間に尹良親王が誕生している。井伊家は、北畠顕家の父・親房が「東国の敵は“井ノ輩”に任せれば遠江以東は静かになる」と書いているくらいに頼りにされていた。対する北朝は、今川範国や佐野大輔が井伊家の城を攻めていて、三方ヶ原や三岳城で戦っている。これらの戦いは顕家の進撃に親王が合流し、範国が追う形で離れてゆく。この時に井伊家からも親王に従った者がいたと考えられるが確たる資料はない。一時の穏やかな時間があったが、顕家が討死した後に奥州へ向かうことになった親王が遠州灘で暴風に遭い白羽湊に漂着、三岳城に入城し騒乱も帰ってくる。
 同じ頃、青野原の戦いで敗れはしたものの北畠顕家の行軍ルートを阻んだ活躍を認められた今川範国が遠江守護職に任ぜられ、青野原で敵対した宗良親王と範国が遠江で戦火を交えることになり、井伊家は三岳城を中心に支城を周囲に築城して守りを固めたのだった。
 遠江の南朝拠点を問題視した足利尊氏は守護を仁木義長に変えて、高師泰・師兼らと共に井伊家を攻めさせた。必死の抵抗もむなしく延元5年正月に三岳城は落城し大平城に逃れた親王と道政は7か月抵抗するが降伏する。
 この後、親王は信濃へ逃れて戦い続けたとも井伊城中で亡くなったとも言われていて、明治になり井伊直憲が資金を出して龍潭寺の寺域に井伊谷宮を建立し、宗良親王陵として新政府によって所管されるようになったのだった。

井伊谷龍潭寺の宗良親王の位牌
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石田三成と戦国の世御用絵師展

2016年06月20日 | イベント
米原市のおうみはにわ館で行われている『石田三成と戦国の世御用絵師展』を観てきました。

それほど大きな展示ではありませんが、『石田三成の青春』という本の関連展示をが始め、

渡辺崋山、英一蝶、丸山応挙、狩野派の面々の作品といった、貴重な作品が展示されていました。

また、石田三成が領国に発した『十三ヶ条掟書』のうちで成菩提院に残る物が展示されています。
この資料の三成のサインは自署と言われていますので、三成の痕跡を知る貴重な物でもあります。


展示は6月30日まで入場無料ですし、一見の価値はありますよ。
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる9 六番「長命寺」

2016年06月12日 | 史跡
6.西国十番 長命寺  汚れの現世 遠くさりて
 黄金の波に いざこがん  語れ我が友 熱き心

前回、彦根港に寄港しなかったのではないか?と考えるもう一つの理由が次にわざわざ「西国十番長命寺」と始めているからです。
長命寺は西国三十一番札所で、十番ではないとの指摘を下級生に受けたとき、小口は「それでは曲に合わない」と答えたそうです。
そこまでしてわざわざ「西国十番」の言葉を入れたのは、西国三十三番札所巡りでは竹生島から長命寺まで舟で渡った故事があるからではないでしょうか?
だからこそ、彦根港は寄港していないと思っています。
ちなみに、この「西国十番」がカットされた歌碑が長命寺港にありました。

現在はこれを甘受して一つの歌の歌詞として認めた歌碑が長命寺境内にあります。



ここから見る琵琶湖は美しいです。

ここでも宗教的な雰囲気のある「汚れの現世遠くさりて 黄金の波にいざ漕がん」と表しています。
黄金の波ということは夕方のイメージがあるので晩年を表現しているのでしょうか?現実には長命寺から大津に向かうのに夕方に漕ぎ始めたら危険ですから、情景描写ではないはずです。

そして、未来を目指すように「語れ我が友 熱き心」と歌は終わります。

『琵琶湖周航の歌』六番に歌詞変更はありませんが、資料館の展示から紹介。

『琵琶湖周航の歌』は六番で終わりますが、ここから、出発地である大津まで戻り、琵琶湖周航は無事に終わりを迎えるのです。


所在地 近江八幡市長命寺町
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる8 五番「彦根港」

2016年06月11日 | 史跡
5.矢の根は深く 埋もれて  夏草しげき 堀のあと
 古城にひとり 佇めば  比良も伊吹も 夢のごと

歌碑は、彦根港の奥にあります。



古城という言葉と、当時の城の認識から考えて彦根城だと思われていますが、たぶん小口は彦根には寄港していないのではないか?と思います。
「矢の根は深く」という城によくあるイメージや、「夏草しげき堀のあと」は松尾芭蕉の句に重ねたのでしょう。
どちらにしても、戦がなく堀もしっかりと残っていた彦根城の現状とは違う部分も見られ、長浜城や安土城ではないかとの考え方もありますが、そうなると、距離感が変わってしまうので個人的にもこの古城は彦根城であると思いたいです。
そして「比良も伊吹も夢のごと」が彦根城とどう関わるのか?同じ名前の水上部の漕艇の古くても現役な様子を彦根城に重ねたのではないか?と思えます。

『琵琶湖周航の歌』五番と六番に歌詞変更はありませんが、これまで通り資料館の展示から紹介します。



所在地 彦根市松原町 彦根港
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる7 四番「竹生島」

2016年06月10日 | 史跡
4.瑠璃の花園 珊瑚の宮  古い伝への 竹生島
 仏の御手に 抱かれて 眠れ乙女子 やすらけく

琵琶湖を船で移動し、

上陸してすぐに歌碑があります。



竹生島は貴重な建物もあり、一見に値する場所。

『琵琶湖周航の歌』をしつこいほど聴いたら、1~3と4~6では雰囲気が変わることに気がつきます。これはたぶん4番以降は小口以外の意向も多く入り、また歌としての美しさや『ひつじ草』の水面に漂うよう様子を自らの舟に重ねたとも考えられます。
3番までは目に浮かぶ情景の描写でした。しかし4番以降はある意味で宗教的とも言える未知の世界に思えます。
「瑠璃の花園珊瑚の宮」と竜宮城のような描写の竹生島。
再び登場する「乙女子」は仏の御手の中で青春の苦しみから癒され眠りにつくのは救いでしょうか?

では、『琵琶湖周航の歌』四番の歌詞変更も資料館の展示から紹介します。



所在地 長浜市早崎町 竹生島
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6月9日、井伊直滋亡くなる

2016年06月09日 | 井伊家関連
寛文元年(1661)6月9日、井伊直孝の嫡男の直滋が亡くなりました。
母は側室・五味氏

井伊直孝の後継ぎとして若い頃から二代将軍・秀忠や三代将軍・家光に仕えていました。
早くから将軍家と親しい関係を保っていたためか、実直な強い意見を口にする事が多く、その言葉は家臣だけではなく父・直孝すらも論破するほどだったと言われています。
特に家光には気に入られていたようで、旧加藤忠広江戸屋敷を貰い受けたり(後の井伊家中屋敷)、直滋が藩主になった時には石高の大幅な加増が約束されていたとも伝わっています(家光はお気に入りに対するこう言った約束をよくしていて、柳生家ではこの事による混乱を恐れた柳生宗矩が家光のお気に入りだった息子・友矩を殺害したという伝説も残っています)。

ちなみに、直滋の正室は、いとこに当たる井伊直継の娘です。

直孝が元老として江戸詰めになると、家光から離される様に国許・彦根を任され藩政を行う事となりました。
この藩政時代に、彦根城鐘ノ丸にあった鐘楼の鐘の音が岩肌に響いて割れる事に気が付き、現在、時報鐘が置かれている場所に移転させると鐘の音が城下に綺麗に響くようになったと言う逸話が残っています。
この時報鐘の音色は『日本の音風景百選』に選ばれていますので、直滋はとても繊細な耳を持っていたのかも知れませんね。

そんな繊細な一面を持ちながらも、父を言い負かすような実直な性格が災いしたのかも知れません、いつまでも家督を譲られる事も無く世子のまま中年の域に達してしまいます。
直孝にすれば、将軍となった家光が直滋に対して優遇を行う事によって井伊家に災いが起こるのを避けようとしていたとも考えられます。

やがて直滋の家督相続を切望した家光も亡くなってしまいます。

ある年、正室が亡くなった事が理由で江戸で出家しようとした直滋は家臣に呼び戻されます。
その頃から、直滋に出家の想いが強くなったのかも知れません。
四代将軍・家綱の名代で家光三回忌法会のために日光へ代参したりしますが、万治元年(1658)の年末も押し迫った閏12月20日、近江国領内の百済寺で出家します47歳の時でした。

翌年6月28日、父・直孝死去。
三代藩主となる直澄に託された遺言には、
「もし彦根で事が起こって、直滋が援助に来ても兵を貸し与えるな」
「直滋が援助している扶持について何か言ってきても今の形を変えるな」
と言った直滋に対する厳しいやり方も記されていました。

そんな直孝の死から2年後の寛文元年(1661)6月9日、直滋は50歳の生涯を閉じたのです。

辞世の句は
“いるならく 奈落の底に沈むとも 又もこの世に我がへらめや”

直孝・直滋親子は実はとても似た性格でした。
だからこそ合わないものがあったのかもしれません、そして世は直孝のような武断派大名から文治派大名を求める時代になっていました、家光に愛された人物は武断派の人物が多かった事を考えると、直滋は最初から直孝の求める世継ぎでは無かったとも考えられますね。

私見ですが、直滋の死は直孝の三回忌の直前だったことかんがえると、直滋は自害したのではないかと思っています。
ちなみに、直滋の血統はこの先、彦根藩主に就く事は一度もなかったのです。


そんな直滋の墓は、百済寺の山門からわき道を進むとあります。
途中で害獣除けのネットがあり、これを越えなければなりません。
しばらく進むと、イノシシ用の罠があります

この辺りが晩年に直滋が過ごした屋敷跡だそうです。
もうしばらく進むと石橋を超え

土塁に囲まれた場所が直滋の墓所です

手水鉢もあります

空気が静かな、訪れる人よりも獣のほうが多そうな空間の中で直滋は眠っています。







・所在地 滋賀県東近江市百済町
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる6 三番「今津港」

2016年06月08日 | 史跡
3.波のまにまに 漂えば  赤い泊火 なつかしみ
 行方定めぬ波枕  今日は今津か 長浜か

今津港に到着した一行。



ここに宿泊し、小口がメモしていた詩を同じ水上部の中安次郎が『ひつじぐさ』のメロディーに乗せて歌うとハマったので、詩と曲が重なりました。
このために今津が『琵琶湖周航の歌』発祥の地とされています。

そのためか?「波のまにまに」との『ひつじぐさ』から引用したと考えられる歌詞があります。
そして「赤い」という言葉がまたでてきます。

では、『琵琶湖周航の歌』三番の歌詞変更も資料館の展示から紹介します。



所在地 高島市今津町今津
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる5 二番「雄松(近江舞子)」

2016年06月07日 | 史跡
2.松は緑に 砂白き  雄松が里の 乙女子は
 赤い椿の 森影に はかない恋に泣くとかや

最初の宿泊地である雄松(近江舞子)の歌詞を見ると、緑の松、白い砂浜、赤い椿と色とりどりの情景が浮かんできます。
椿の時期ではありませんが、椿の場所があったそうです。
乙女子が儚い恋に泣くのですから、青春ですね。
そんな光景が実際にあったのでしょうか?

ところで、『琵琶湖周航の歌』では二つだけ同じ言葉が使われています、それが「赤い」と「乙女子」です。2番は両方使われている点でも、もしかしたら小口の今が出ているのかもしれません。

では、『琵琶湖周航の歌』二番の歌詞変更も資料館の展示から紹介します。



所在地 大津市南小松 琵琶レイクオーツカ前
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『琵琶湖周航の歌』をめぐる4 一番「大津港」

2016年06月06日 | 史跡
1.われは湖の子 さすらひの  旅にしあれば しみじみと
 昇る狭霧や さざ波の 滋賀の都よ いざさらば



出発の地は、小口が在籍していた第三高等学校水上部の艇庫があった場所です。ここは琵琶湖疏水の入口でもあります。

「我は湖の子」で始まる歌詞ですが、最初は「水の子」(読み方は同じ)としていたそうです。
「のぼる狭霧」との情景が出てきますが、狭霧は秋の季語。なぜ6月27日に秋の季語を入れたのか?もしかしたら本当に霧が出ていたのかもしれません。
続く「さざなみ」は近江の枕詞なので滋賀の都(大津宮?)の枕詞にしたのでしょう。これは出発の歌詞でした。

ちなみに『琵琶湖周航の歌』はいくつかの歌詞の変更がありますので、資料館の展示からそれも紹介します。



所在地 大津市大津港近く(琵琶湖疎水入口付近)
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