彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

桜田門外の変(後編)

2018年05月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 当事者たちにとっては長い時間だったであろう桜田門外の変も時間にすれば十分にも満たなかったとされている。
 前稿で行列の日雇い仲間が一番に逃げたという説があることを書いたが、私は何年か前に『柘榴坂の仇討』という映画の中で桜田門に向かう彦根藩の行列にいた仲間役をいただいたことがある。エキストラではあったが井伊様の駕籠に連なっている自分が少し誇り高かった。映画のエキストラでもそう感じるのだから封建制度が強かった時代にはもっと誇りを持っていただろう、だがその誇りに命を賭けることはない。行列から逃げた者の姿を見た藩士の中にも動揺が走り、同じように去った者が居てもそれは責められるものではないかもしれない。まずは行列の先頭で騒ぎが起きて多くの者が前方に移動し、襲撃があったことで人が逃げて行くと駕籠の周りは手薄になり、ここに向けてピストルが放たれ銃弾で下半身不随になる重賞を負った直弼は駕籠から出ることもままならず、やがて乱暴に扉を開けた薩摩藩士有村次左衛門が直弼の体を強引に引きずり出して首を刎ねる、そこには高官に対する敬意は無かった。主君の首が取られるまでの大事件から逃げた藩士は文久二年に起こった彦根藩の政変で自害に追い込まれることになる。その反面、武士らしく戦った河西忠左衛門や永田太郎兵衛、主の首を持って行かれないように有村に斬りかかった小河原秀乃丞らが居たことは、江戸時代が二百年続いた平和な時代であっても彦根藩士は武士としての鍛錬も行っていた証でもあった。そんな全員とは言えないまでも勇敢に戦った藩士が存在しながらも、譜代大名筆頭で最高権力者である彦根藩ですら公然として暗殺される時代になったことに対する世間の衝撃は大きかった。こうして歴史は大きな転換期を迎えることになる。
 幕府も井伊政権に近い政策を踏襲しながら、元来が穏健派である安藤信正が舵取りを行ったため直弼ほど強硬手段を用いず、安政の大獄すら恩赦されたために暗殺によって政治が変えることができる時代の到来を公言する結果となる。人を殺すだけで時代が変えられるならば、多くの人間を殺した者が尊敬されるし、
一人で誰かを殺せないならば集団となって挙兵すれば良い時代となった。幕末維新の勝者と認識される薩長土は言い換えれば暗殺者の利用が上手だった藩でもある。この単純でも錯誤的な時代認識の上に暗殺と戦争で政権を奪った新政府は、今度は自分たちも暗殺と戦争の暴力というしっぺ返しを受け、横井小楠・大村益次郎・大久保利通らの政治家を政策未完成のまま失い、佐賀の乱や西南戦争をも引き起こした。その暴力は明治時代が何十年過ぎても沈静化されず、板垣退助や大隈重信が襲われ原敬暗殺などにも響くのだった。
 結果的に桜田門外の変から始まる暴力の日本史は日本人を世界大戦に巻き込み国土は焦土と化し多くの国民を失って正常化されたのだった。

桜田門外の変を描いた絵葉書 / 個人蔵

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150年前:奥羽列藩同盟成立(5月3日)

2018年05月03日 | 何の日?
慶応4年(1868)5月3日、東北地方の25藩が奥羽列藩同盟を結びました。

奥羽列藩同盟は、輪王宮(寛永寺に住まう親王のこと)北白川宮能久親王を盟主にして、明治新政府に反発した東北地方の藩が結んだ同盟でした。

戊辰戦争での東北での戦いは、会津藩と庄内藩が新政府軍の目の敵にされていて、最初は会津と庄内だけの軍事協定である会庄同盟が結ばれたのです。この頃すでに米沢藩と仙台藩にも加盟を促す計画があがっていました。
その計画と同じ時期に、仙台藩は奥羽の各藩に対して仙台藩領の白石での会合を呼びかけます、これは会津や省内に対して新政府のやり方があまりにもひどいことを指摘して、両藩に対して寛大な処置を願うことを一致した意見として奥羽鎮撫総督に提出しようとする動きだったのです。
奥羽鎮撫総督で参謀をしていた世良修蔵は、これを快く思わず各藩に会津への出兵を命じていたのです。それと同じ時期に京都に対して増兵の嘆願書を書いたのですが、その中に「奥羽皆敵」と書かれた一文があり、その文書を仙台藩士が手に入れたことで、藩士たちは激怒して世良を襲撃し斬首してしまったのです。

この事件により、仙台藩は奥羽鎮撫総督と対立する立場になってしまい、東北の諸藩の代表を再び白石に集めて、鎮撫総督を通さずに直接朝廷に訴えかける決定を行ったのです。そして白河盟約書に調印が行われました。
この日が慶応4年5月3日であり、その時を奥羽列藩同盟の成立日としています。


このような事情ですので、会津藩や庄内藩は白石盟約の段階では列藩同盟には参加していません。
そして奥羽列藩同盟が成立した翌日に長岡藩、そのよ翌日に新発田藩などが加わり、31藩による奥羽越列藩同盟成立となるのでした。
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