文久2年(1862)の閏8月のいずれかの日に、坂本龍馬が福井藩前藩主松平春嶽に面会したとされています。
面会の目的は勝海舟と横井小楠に対する紹介状を請う物だったそうです。
しかし、既に土佐藩を脱藩して浪人だった龍馬が、隠居していたとはいえ福井藩主の父親に簡単に会えるものではありません。
ましてや、春嶽の記録には龍馬が「勝は開国論を主張し、横井は廃帝論を唱える可悪の人だ」と訴えたとされているのです。
しかし、勝海舟への紹介状は書かれています。
ただし、実は龍馬と春嶽の会見は福井藩では12月5日であったとされていて、この時には間崎哲馬・近藤長次郎・坂本龍馬の名前が残っています。
この四日後に、勝海舟の屋敷に三人の客があり、その20日後には龍馬が千葉重太郎と共に海舟を斬りに来たという逸話があります。
ただし、12月29日の重太郎と共に龍馬が訪れた記録には、坂本龍馬を"坂本氏"と記していて既に面識があった筈との話があり(『時代考証にみる新江戸意識』大石学編より)、閏8月の龍馬の面会はありえないとの説もあります。
面会の目的は勝海舟と横井小楠に対する紹介状を請う物だったそうです。
しかし、既に土佐藩を脱藩して浪人だった龍馬が、隠居していたとはいえ福井藩主の父親に簡単に会えるものではありません。
ましてや、春嶽の記録には龍馬が「勝は開国論を主張し、横井は廃帝論を唱える可悪の人だ」と訴えたとされているのです。
しかし、勝海舟への紹介状は書かれています。
ただし、実は龍馬と春嶽の会見は福井藩では12月5日であったとされていて、この時には間崎哲馬・近藤長次郎・坂本龍馬の名前が残っています。
この四日後に、勝海舟の屋敷に三人の客があり、その20日後には龍馬が千葉重太郎と共に海舟を斬りに来たという逸話があります。
ただし、12月29日の重太郎と共に龍馬が訪れた記録には、坂本龍馬を"坂本氏"と記していて既に面識があった筈との話があり(『時代考証にみる新江戸意識』大石学編より)、閏8月の龍馬の面会はありえないとの説もあります。