長享3年(1489)3月26日、室町幕府九代将軍足利義尚が、近江国鈎の陣で病没しました。享年25歳。
応仁の乱は戦国時代を招いた内乱として有名ですが、その原因が何だったのかと言えば、義尚が誕生したことでした。
八代将軍足利義政は、正室の日野富子との間に子どもができず、弟の義視を次の将軍として指名し細川勝元がその後見となりました。しかしその後に誕生したのが義尚で、生母の日野富子は細川氏に対抗する勢力として山名宗全に後見を依頼したのです。
こうして細川・山名の両氏は将軍の跡目争いの代理戦争を行い、そこに多くの家が家庭内の事情を持ち込んで両者に分かれて全国で戦う構図となったのです。
その応仁の乱の原因はよく語られますが、結果として文明5年(1473)に、まだ混乱が終わらないうちに義政が政権を放棄する形で義尚に征夷大将軍の座を譲ってしまったのです。
義尚の評価は、文武両道、弓は一流で和歌や絵画も嗜む美青年(というか、将軍就任時は少年)だったそうです。しかし性格はけっこうきつかったようで、銀閣建造のために将軍から引退した後も一部の税収と明との貿易の利益を受ける権利を自分の手元に残していた父義政に対して己の髪を切って抗議する行動に出たり、義政と同じ女性を巡って争ったりもしています。
義尚が目指したのは荒廃した幕府権力の復興でした。
その大きな目標として、隣国近江守護の六角高頼を討伐する兵を挙げたのです。
長享・延徳の乱(六角征伐)と呼ばれる六角氏へ2度の討伐のうち、義尚が出陣したのは長享元年(1487)9月12日の1度目の討伐でした。
この戦いで、六角高頼は居城である観音寺城を放棄して甲賀に逃れ、甲賀53家が高頼の手足となって戦います。これが歴史書に甲賀忍者がはっきりと出てくる戦でもありました。
甲賀の入口付近での戦いがありますが、それ以上奥へ将軍家が入ることもできず、義尚自身は鈎の陣(滋賀県栗東市)に本陣を置いたままでした。
【鈎の陣跡・永正寺】
若い頃から病気の記録が見当たらないほど健康な将軍であった義尚ですが、酒と女には溺れていて、鈎の陣でも酒を手放さないまま長い滞在を続けました、長享2年秋、側近の二階堂政行が陰陽博士に相談すると「六十人の刀鍛冶に六十本の刀を打たせれば敵を滅ぼせる」との答えがあったので打たせて完成した翌日(らしい)、義尚発病(おいおい…)
一時は母の日野富子が看病に駆け付けるほど衰退し、回復。安心した富子が京に戻った後に重体。そして陣中で没っしたのです。
一説には甲賀衆に暗殺されたとも言われていますが、一時期は酒と水と女しか口にしないという生活を送っていたともいわれていますので、当然の死だったとも考えられます。
鈎の陣で義尚が亡くなった後、将軍の権限は義政が代行して政務を行いましたが、翌年に義政も亡くなり、将軍の座は義視の息子の義材(後の義稙)に引き継がれるのです。
応仁の乱は戦国時代を招いた内乱として有名ですが、その原因が何だったのかと言えば、義尚が誕生したことでした。
八代将軍足利義政は、正室の日野富子との間に子どもができず、弟の義視を次の将軍として指名し細川勝元がその後見となりました。しかしその後に誕生したのが義尚で、生母の日野富子は細川氏に対抗する勢力として山名宗全に後見を依頼したのです。
こうして細川・山名の両氏は将軍の跡目争いの代理戦争を行い、そこに多くの家が家庭内の事情を持ち込んで両者に分かれて全国で戦う構図となったのです。
その応仁の乱の原因はよく語られますが、結果として文明5年(1473)に、まだ混乱が終わらないうちに義政が政権を放棄する形で義尚に征夷大将軍の座を譲ってしまったのです。
義尚の評価は、文武両道、弓は一流で和歌や絵画も嗜む美青年(というか、将軍就任時は少年)だったそうです。しかし性格はけっこうきつかったようで、銀閣建造のために将軍から引退した後も一部の税収と明との貿易の利益を受ける権利を自分の手元に残していた父義政に対して己の髪を切って抗議する行動に出たり、義政と同じ女性を巡って争ったりもしています。
義尚が目指したのは荒廃した幕府権力の復興でした。
その大きな目標として、隣国近江守護の六角高頼を討伐する兵を挙げたのです。
長享・延徳の乱(六角征伐)と呼ばれる六角氏へ2度の討伐のうち、義尚が出陣したのは長享元年(1487)9月12日の1度目の討伐でした。
この戦いで、六角高頼は居城である観音寺城を放棄して甲賀に逃れ、甲賀53家が高頼の手足となって戦います。これが歴史書に甲賀忍者がはっきりと出てくる戦でもありました。
甲賀の入口付近での戦いがありますが、それ以上奥へ将軍家が入ることもできず、義尚自身は鈎の陣(滋賀県栗東市)に本陣を置いたままでした。
【鈎の陣跡・永正寺】
若い頃から病気の記録が見当たらないほど健康な将軍であった義尚ですが、酒と女には溺れていて、鈎の陣でも酒を手放さないまま長い滞在を続けました、長享2年秋、側近の二階堂政行が陰陽博士に相談すると「六十人の刀鍛冶に六十本の刀を打たせれば敵を滅ぼせる」との答えがあったので打たせて完成した翌日(らしい)、義尚発病(おいおい…)
一時は母の日野富子が看病に駆け付けるほど衰退し、回復。安心した富子が京に戻った後に重体。そして陣中で没っしたのです。
一説には甲賀衆に暗殺されたとも言われていますが、一時期は酒と水と女しか口にしないという生活を送っていたともいわれていますので、当然の死だったとも考えられます。
鈎の陣で義尚が亡くなった後、将軍の権限は義政が代行して政務を行いましたが、翌年に義政も亡くなり、将軍の座は義視の息子の義材(後の義稙)に引き継がれるのです。