堀や石垣・壁といったお城の防御手段は、一般的な常識で考えるとお城を囲うようにあるモノだと思われがちです。
しかし、山城に至ってはその常識が通用しない場合がありました。
中世までの山城でよく使われたのは麓から山頂に向かって登っていくように掘られた堅堀と呼ばれるモノがその代表となります。
堅堀は、縦に掘る事で山を攻め上ってくる敵が攻撃を左右に避ける動きを制限し、一定の間隔内でしか動けない攻め手に不安感を与える作用があったのです。
こんな堅堀をもっと有効的に活用できるように作られたのが登り石垣でした。
登り石垣は山の麓から上に向かって真っ直ぐ山を登るように作られている石垣で、豊臣秀吉が唐入りの際に朝鮮半島に築城した倭城に多用した形式です。
この事により山の左右の移動は限定され、石垣の上に瓦塀を作り、外側に堅堀を掘る事で高さを稼いでますます強固な守りへと変貌したのです。
倭城では山頂に城を築城し、麓の港を守る形で登り石垣を造った形跡があります。
その姿はまるで両腕で大切な物を守っている様にも見えるそうですよ。
ちなみに国内で登り石垣が築かれた事が確認できる城は淡路の洲本城・伊予松山城と彦根城の3城のみです。しかし彦根城は5ヶ所確認できます。
彦根城の登り石垣は天下普請だった第一期築城当時に5ヶ所作られたと考えられていますが、井伊家が独自で行った第二期築城期に建てられた表御殿を守るように作られた登り石垣が2ヶ所存在する事から、登り石垣を作る工事も2回に分けて行われたのではないか?という考え方もあります。
何にしても、珍しい遺構である事には間違いありませんね。
しかし、山城に至ってはその常識が通用しない場合がありました。
中世までの山城でよく使われたのは麓から山頂に向かって登っていくように掘られた堅堀と呼ばれるモノがその代表となります。
堅堀は、縦に掘る事で山を攻め上ってくる敵が攻撃を左右に避ける動きを制限し、一定の間隔内でしか動けない攻め手に不安感を与える作用があったのです。
こんな堅堀をもっと有効的に活用できるように作られたのが登り石垣でした。
登り石垣は山の麓から上に向かって真っ直ぐ山を登るように作られている石垣で、豊臣秀吉が唐入りの際に朝鮮半島に築城した倭城に多用した形式です。
この事により山の左右の移動は限定され、石垣の上に瓦塀を作り、外側に堅堀を掘る事で高さを稼いでますます強固な守りへと変貌したのです。
倭城では山頂に城を築城し、麓の港を守る形で登り石垣を造った形跡があります。
その姿はまるで両腕で大切な物を守っている様にも見えるそうですよ。
ちなみに国内で登り石垣が築かれた事が確認できる城は淡路の洲本城・伊予松山城と彦根城の3城のみです。しかし彦根城は5ヶ所確認できます。
彦根城の登り石垣は天下普請だった第一期築城当時に5ヶ所作られたと考えられていますが、井伊家が独自で行った第二期築城期に建てられた表御殿を守るように作られた登り石垣が2ヶ所存在する事から、登り石垣を作る工事も2回に分けて行われたのではないか?という考え方もあります。
何にしても、珍しい遺構である事には間違いありませんね。