彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

登り石垣

2007年09月26日 | 彦根城
堀や石垣・壁といったお城の防御手段は、一般的な常識で考えるとお城を囲うようにあるモノだと思われがちです。

しかし、山城に至ってはその常識が通用しない場合がありました。
中世までの山城でよく使われたのは麓から山頂に向かって登っていくように掘られた堅堀と呼ばれるモノがその代表となります。
堅堀は、縦に掘る事で山を攻め上ってくる敵が攻撃を左右に避ける動きを制限し、一定の間隔内でしか動けない攻め手に不安感を与える作用があったのです。


こんな堅堀をもっと有効的に活用できるように作られたのが登り石垣でした。

登り石垣は山の麓から上に向かって真っ直ぐ山を登るように作られている石垣で、豊臣秀吉が唐入りの際に朝鮮半島に築城した倭城に多用した形式です。
この事により山の左右の移動は限定され、石垣の上に瓦塀を作り、外側に堅堀を掘る事で高さを稼いでますます強固な守りへと変貌したのです。
倭城では山頂に城を築城し、麓の港を守る形で登り石垣を造った形跡があります。
その姿はまるで両腕で大切な物を守っている様にも見えるそうですよ。

ちなみに国内で登り石垣が築かれた事が確認できる城は淡路の洲本城・伊予松山城と彦根城の3城のみです。しかし彦根城は5ヶ所確認できます。


彦根城の登り石垣は天下普請だった第一期築城当時に5ヶ所作られたと考えられていますが、井伊家が独自で行った第二期築城期に建てられた表御殿を守るように作られた登り石垣が2ヶ所存在する事から、登り石垣を作る工事も2回に分けて行われたのではないか?という考え方もあります。


何にしても、珍しい遺構である事には間違いありませんね。
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9月19日、助作騒動

2007年09月19日 | 何の日?
万治元(1658)年9月19日、彦根藩奉行所は本庄助作騒動の判決を出しました。


・・・と言っても、彦根の人でも「本庄助作って誰やねん!」と言いたくなるのではないでしょうか?

本庄助作は小早川隆景の一族が彦根の本庄に移り住んだ一族の当主でした。
彦根藩が2代藩主井伊直孝だった頃の万治元年、助作は近くの新村・阿弥陀堂村・乙浜村(すべて今の東近江市)の人々を相手に訴訟を起こします。

訴訟に内容は愛知川左岸川尻に自生する葦の所有権を巡るものだったのです。
当時、葦は使い道が多くとても重宝される植物で高値で取引されていました。そしてこの土地の葦は助作の母方の祖父が権利を有していて助作の母が本庄家に嫁ぐ時に口約束で譲られたものでした。

しかし、この祖父が亡くなると新村を始めとする三村の人々が勝手に葦を刈りはじめたので助作が所有権を主張して注意を促しますが、三村の人々は無視し続けたのです。


こうして訴訟が行われ、助作も何度も彦根藩の奉行所に出頭しました。
この時にあった不思議な話は「八坂地蔵尊」のところで書いているので参考にしてくださいね。

さて、9月19日にこの訴訟に判決が出ました。
この日、助作は証拠不十分(口約束だったので)で敗訴となりました。
しかし納得できない助作は、武士として潔く死んで正義を示そうと、奉行所で十文字に腹を切り果てたのです。そして介添え人が助作の内臓を三宝に乗せて奉行所に提出しました。
助作の意気込みと誠意を知った奉行所は、先の判決を取り下げて助作勝訴としたのでした。

本庄村の人々はこの助作の正義を褒め称え、明治までは屋敷も残っていました。

江戸時代はこういった訴訟事が結構多かったそうですよ。
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『おあむ物語』

2007年09月17日 | 何の日?
佐和山城の石で作られたお地蔵様の数々


慶長5年9月17日~18日、佐和山城が徳川家康軍に攻められ落城します。
この話は昨年の9月18日の日記に書いていますので、今回はこの佐和山城攻防戦の時に佐和山城内に居た17歳の女の子“おあん(お庵?)”が、晩年に子どもたちを集めて語った話が語り継がれ、享保年間に『おあむ物語』として記録された文章をそのまま紹介しましょう。

文語体ですが読み易いので当時の様子を赤裸々に知る事ができますよ(一部漢字や読み方を直していますが殆ど原文通りです)


『おあむ物語』
子ども集まりて「おあん様、昔物語なされませ」と言へば。

おれが親父は。山田去暦と言うて。石田治部少輔殿に奉公し。近江の彦根に居られたが。その後。治部どの御謀反の時。美濃の国大垣の城へ籠もりて。我々皆々一所に。御城に居て。おじやつたが。不思議な事が。おじやつた。夜な夜な。九つ時分に。誰ともなく。男女三十人ほどの声にて。田中兵部殿。田中兵部殿と。おめきて。その後にて。わつというて泣く声が。夜な夜な。しておじやつた。おどましや/\。おそろしう。おじやつた。
その後。 家康様より。攻め衆。大勢城へ向かはれて。戦が。夜昼おじやつたの。その寄せ手の大将は。田中兵部殿と申すで。おじやつた。石火矢を撃つ時は。城の近所を触廻りて。おじやつた。
それは何故なりや。石火矢を撃てば。櫓も緩々動き。地も裂けるやうに。すさまじいさかいに。気のよわき婦人なぞは。即時に目を回して。難義した。その故に。前かたに触れておいた。其触れが有ば。光物がして。雷の鳴を待つやうな心しておじやつた。
はじめのほどは。生きた心地もなく。ただもの恐ろしや。怖やと計。
我も人も思うたが。後には。何ともおじやる物じやない。我々母人も。その他。家中の内儀。娘たちも。皆々。天守に居て。鉄鉋玉を鋳ました。
また味方へ。取った首を。天守へ集められて。それ/\に。札を付けて。覚えおき。さい/\。首にお歯黒を付て。おじやる。それは何故なりや。
昔は。お歯黒首は。よき人とて。賞翫した。それ故。白歯の首は。お歯黒付て給はれと。頼まれて。おじやつたが。首も怖い物では。あらない。
その首どもの血臭き中に。寝た事でおじやつた。

ある日。寄せ手より。鉄鉋撃ちかけ。最早今日は。城もおち候はんと申す。殊のほか。城の内騒いだ事で。おじやつた。その所へ。大人来て。敵かげなき。しさりました。最早。お騒ぎなされな。静まり給へ/\と言ふ所へ。鉄鉋玉来りて。われら弟。十四歳になりしものに。当りて。そのまゝ。ひり/\として。死でおじやつた。
扨々。むごい事を見て。おじやつたのう。

其日。わが親父のもち口へ。矢文来りて「去暦事は、家康様御手習いの御師匠申された。訳のある者じやほどに。城を逃れたくは。御助け有べし。何方へなりとも。落ち候へ。路次のわづらひも。候まじ。諸手へ。おほせ置た」との御事で。おじやつた。

城は。翌の日中。攻め落とさるるとて。皆々。力を落して。我等も明日は失はれ候はむと。心細くなつて。おじやつた。親父ひそかに。天守へ参られて。此方へ来いとて。母人我等をも連れて。北の塀脇より。梯子を掛けて。吊り縄にて。下へ釣下げ。さて。盥に乗て。堀を向こうへ渉りて。おじやつた。
その人数は。親たちふたり。わらわと。大人四人ばかり。其ほか家来は。そのまゝにておじやつた。

城を離れ。五六町ほど。北へ行し時。母人にはかに。腹痛みて。娘を産み給ひた。大人。其まゝ。田の水にて。産湯つかひ。引あげて。つまに包み。母人をば。親父。肩へ掛けて。青野ヶ原の方へ落て。おじやつた。
怖い事で。おしやつたのう。昔まつかふ。南無阿弥陀。/\。


又子ども。彦根の話。被成よと言へば。おれが親父は。知行三百石取りて居られたが。その時分は。軍か多くて何事も不自由な事で。おじやつた。
勿論。用意は。めん/\蓄えもあれども。多分。朝夕雑水を食べて。おじやつた。
おれが兄様は。折々山へ。鉄鉋撃ちに。参られた。其時に。朝菜飯をかしきて。昼飯にも。持れた。その時に。われ等も菜飯を貰うて。食べておじやつた故。兄様を。再々勧めて。鉄鉋撃ちに行くとあれば。嬉しうて。ならなんだ。
さて。衣類も無く。おれが十三の時。手作の花染めの帷子一ツあるより他には。なかりし。その一つの帷子を。十七の年まで着たるによりて。脛が出て。難義にあつた。せめて。脛の隠れるほどの帷子一つ欲しやと。思うた。此様に昔は。物事不自由な事でおじやつた。
また昼飯など喰うと言う事は。夢にも無い事。夜に入り。夜食と言う事も。無かつた。
今時の若衆は。衣類の物好き。心を尽くし。金を費やし。食物に色々の好み事めされる。沙汰の限な事とて。
又しても。彦根の事を言うて。叱り給ふ故。後々には。子ども。しこ名を。彦根婆と言ひし。今も老人の昔の事を引て。当世に示すをば。彦根を言うと。俗説に言うは。この人より始まりし事なり。それ故。他国の者には通ぜず。御国郷談なり。


右去暦。土州親類方へ下り浪人土佐・山田喜助。後に蛹也と号す。
おあんは。雨森儀右衛門へ嫁す。儀右衛門死して後。山田喜助養育せり。喜助の為には。叔母なり。寛文年中。齢八十余にして卒す。予その頃。八・九歳にして。右の物語を。折々聞き覚えたり。誠に。光陰は矢の如しとかや。正徳の頃は。予すでに。孫どもを集めて。此物語して。昔の事ども。取り集め。世中の費を示せば。小ざかしき孫ども。昔のおあんは彦根婆。今の爺様は。彦根じぃよ。何をおじやるぞ。
世は時々じやものをとて。鼻であしらう故。腹も立てども。後世恐るべし。又後世いかならむ。孫どもゝ。また己が孫どもに。さみせられんと。是をせめての勝手に言うて。後はたゞなまいだ/\。より外に言うべき事なかりし。

右一通。事実殊勝の筆取なり。誰人の録せるや。未詳。疑らくは。山田氏の覚書なるへし。田中文左衛門 直の所持をかり出しといふ事しかり。
 享保十五年庚戌三月廿七日 谷垣守



どうですか?
弟の死、首にお歯黒を塗った話、鉄砲の弾を作った話・・・
家族の脱出から母の出産まで色んな事が語られていますよね。

そして、昔を引き合いに当世の愚痴を言う事を「彦根」とこの地方では言うというのも面白い話ですね。
歴史は有名な人物だけではなくこう言った無名の一個人によって作られていくのだと考えさせられた一文でした。


ちなみに写真のお地蔵様は、佐和山の攻防戦で生き延びた人々がお城の石で彫った物が置かれているとの伝説があります。
写真以外にもこの近くにたくさん置いているんですよ。
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『琵琶湖周航の歌』歌碑

2007年09月16日 | 史跡
国宝彦根城築城400年祭のイベントの一環として9月16日に加藤登紀子さんのコンサートが行われました。加藤登紀子さんと彦根と言えば『琵琶湖周航の歌』ですね。


そんな『琵琶湖周航の歌』は、1971年に加藤登紀子さんがカヴァーされた事でポピュラーミュージックとして広まりましたが、本来は大正6(1917)年6月28日に琵琶湖一周の漕艇に来ていた第三高等学校(現・京都大学)のボート部員・小口太郎が琵琶湖周航の様子を故郷の諏訪湖に思いを馳せながら情緒豊かな詩を作った事が最初でした。


これが部員の中で広まり、当時既に世に広まっていた吉田千秋の『ひつじ草』のメロディーをあてて歌い継がれたのです。
吉田千秋は新潟県出身の人物で、『大日本地名辞書』を書いた歴史地理学者・吉田東伍の次男でした。
地名辞書の作者の息子の作曲した音楽に、琵琶湖周囲の地名をふんだんに含んだ詩を載せたという事は運命の出会いだったんですね。


曲はこうして出会いましたが、作詞者と作曲者は一度も出会う事はなく、作詞者の小口は26歳・作曲者の吉田は24歳で亡くなっています。

この2人は『琵琶湖周航の歌』を作るために生まれてきたのかもしれませんね。


ちなみに『琵琶湖周航の歌』は6番まで詩があり、


1.われは湖(うみ)の子 さすらいの
 旅にしあれば しみじみと
 昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
 滋賀の都よ いざさらば
 
2.松は緑に 砂白き
 雄松(おまつ)が里の 乙女子は
 赤い椿の 森陰に
 はかない恋に 泣くとかや

3.波のまにまに 漂えば
 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
 行方定めぬ 波枕
 今日は今津か 長浜か

4.瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
 古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
 仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
 眠れ乙女子 やすらけく
 
5.矢の根は深く 埋(うず)もれて
 夏草しげき 堀のあと
 古城にひとり 佇(たたず)めば
 比良(ひら)も伊吹も 夢のごと
 
6.西国十番 長命寺
 汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて
 黄金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん
 語れ我が友 熱き心

というそれぞれの舞台に1番ずつ歌碑が建てられています。

彦根でも彦根港に古城・彦根城を歌った5番の歌詞を刻んだ歌碑が2005年10月に建立されています。
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9月15日、関ヶ原の戦い(続)

2007年09月15日 | 何の日?
慶長5(1600)年9月15日、関ヶ原の戦いが行われます。
昨年の9月15日にも関ヶ原の話をし「小早川秀秋は裏切りではなくて英断だ」という事を書きましたが、この一年で新たに解った事がありますのでその辺りをご紹介しましょう。


○石田三成襲撃事件の経過。
豊臣秀吉の死後、前田利家と共に徳川家康に対抗しようとした三成でしたが、秀吉の死の半年後に利家が亡くなってしまいます(慶長4年閏3月3日)、この日の晩に豊臣武断派七将が大坂の三成屋敷を襲撃する計画を立てました。
この情報を掴んだ三成は、伏見の自分の屋敷に逃げ込んだのです。そしてこの屋敷を武断派七将が囲んだのです。

この時、徳川家康は伏見に居たので自分のすぐ近くで起こるこの事件を無視できる立場ではありませんでした。そこで仕方なく重臣・井伊直政を七将の元に派遣して兵を引かせ三成を保護したのです。

この結果、武断派の襲撃は収まりますが、三成は失脚して居城・佐和山城に引き篭もる事になったのです。


今までは三成は家康の屋敷に逃げ込んだという事になっていたのですが、家康の手紙からこの事が分かってきたのです。


○秀忠遅参の理由
上杉征伐の途中・小山で石田三成挙兵の報を聞いた家康は、豊臣武断派に三成を憎む気持ちを大きくさせて味方につけ大坂へ向かわせました、そして自分は江戸城に入って準備を整えたのです。
この時、家康の三男・秀忠に徳川家譜代の家臣を与えて別働隊として中山道から大坂に向かわせています、秀忠に従った家臣に家康の軍師・本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政と本多忠勝が居た事からこの軍が徳川本隊とする考え方もあります。

東海道を進む事になった豊臣武断派大名には井伊直政が軍監として付く予定でしたが、直政が江戸滞在中に病になった為に、急に本多忠勝が中山道から呼び戻されたのです。
このため、忠勝は500の兵しか連れて来れず、関ヶ原では家康の傍らを離れる事ができなかったのでした。

そして家康が江戸城に滞在する間に三成は大垣城を支配下に置いて軍事拠点とします。
この間に豊臣武断派は破竹の勢いで東海道を進み、そのまま岐阜城を落としてしまいました。

慌てたのはこの軍に居た井伊直政と本多忠勝です。
本来ならもっとゆっくり進んで中山道の本隊と合流する予定が、進軍の早さに本隊を待っていたら豊臣武断派達が勝手に戦を仕掛ける可能性も出てきたからです。
結局、秀忠は捨てて家康到着と同時に決戦する事が決定されました。

つまり、秀忠は予定通り進んでいたのに東海道軍のスピードが速すぎて関ヶ原に間に合わなかったのです。


関ヶ原にはまだまだ新しい謎が潜んでいます。常に注目していてもいい位に意外性がたくさんありますよね。

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9月8日、安政の大獄始まる

2007年09月08日 | 何の日?
安政6(1859)年9月8日、京で小浜藩士・梅田雲浜が捕縛され安政の大獄が始まりました。

国内に対する杞憂や海外対策についてこの段階で井伊直弼と一番近い思想を抱いていたのは、側近の長野主膳や宇津木六之丞ではなく、ましてや幕閣の開国派でもありませんでした。

直弼と思想が似ていたのは実は吉田松陰だったのです。
しかし、直弼と松蔭の違いは身分でした。


「日本の国営は幕府に任せればいい、幕権強化こそがこの国を救う道」

と考えていた直弼は、江戸城内での政敵を失脚に追い込みましたが、在野の事は全く分らないので長野主膳に全てを任せてしまったのです。


こうして、長野主膳にとって都合が悪いだけの人物も多く処罰されてしまったのでした。

安政の大獄は、梅田雲浜を始め吉田松陰・橋本佐内など多くの有能な人材を失うきっかけになってしまった残念な幕末史でもあります。


もしもの話ですが、埋木舎時代の直弼に松蔭が会っていたら(この頃の松蔭は全国を旅していたので可能性が無かった訳ではない)。
はたまた、松蔭が海外密航に成功して堂々と日本に帰ってきていたら・・・

幕末史は違った側面を見せていたかも知れませんよ。
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9月5日、卑弥呼殺害

2007年09月05日 | 何の日?
(写真は比婆神社)


西暦248年9月5日、日本で皆既日食が起こりました。この日卑弥呼が殺害されたという説があります。

太陰暦では皆既日食が起きるのは必ず1日(新月の日)になります。逆に皆既月食は16日(望月の日)しか起きません、ですので先日の皆既月食も旧暦では16日になっているはずです。
でも、卑弥呼の頃の暦はよく分かりませんので現在の暦でお話します。


神話の中に『天岩戸』というお話があります。
「弟のスサノオの乱暴に怒ったアマテラスが岩戸に隠れます。すると(アマテラスは太陽神なので)世の中が真っ暗になり困った神々が相談をして岩戸の前で宴会を開いてアマテラスを岩戸から引っ張り出したのです。すると世の中が明るくなった」という概要の話でしたね。

この事件(?)が起こった日が確定しているのです。この日を確定する要素は何の日か? と言うと日本全体で皆既日食が観測出来た日という事になります。
天文学を歴史と重ねてみると面白い事が見える時があります。
その中の一つがこれでした。
ちなみに本能寺の変がなぜ6月2日未明に起きたのか? という疑問も天文学で考えると簡単なのです。6月1日の夜は新月で真っ暗だったから兵が隠しやすかったからなんですよね 。


話を戻して、昼間なのに太陽が隠れそしてまた現れる。これこそ天岩戸の原点なのです。
そしてこの248年にはもう一つ大きな出来事が起きています。それが卑弥呼の死亡でした。


皆既日食と卑弥呼が死亡した年が重なったのは、ただの偶然なのでしょうか?
世界でも少数の太陽信仰をしている民族が皆既日食に何の恐怖も抱かないと言う方が難しいですよね。

では何か起こったか?の事実はどこにも伝わっていません。『逆説の日本史』の著者・井沢元彦さんはこの日に太陽を失った卑弥呼は民衆に殺されたのだ。と解釈しています。

太陽の巫女(日巫女)である卑弥呼が、太陽が消えて民衆が恐れおののいた混乱で殺されてしまうというのです。

もしそれが事実とするなら天岩戸は埋葬の瞬間と次の女王(壱与)が立つまでを記録した話となるのです。
(岩戸)隠れる→宴会(騒ぐ)→出てくる
(歴史)卑弥呼死亡→倭国騒乱→壱与登場



では、この話は彦根とどういった関係があるのでしょうか?
まずは、男鬼町にある比婆神社。ここはアマテラスの母であるイザナミが祭られている神社でイザナミが入山(亡くなるという意味らしいです)した場所だといわれています。

ここの比婆神社のある山の岩場を天岩戸だと考える説もあります。
ちなみに河内の風穴もこの批准地になる場合があります。
もっともこういう説は全国にあるのですが、管理人は神話の出来事はある特定の小さな地域で起こった出来事が日本の知識人の視界が広がるたびに全国に散って行ったと思っています。

そういう意味では、多賀大社や金亀伝説、金鶏伝説を始め『イナバの白うさぎ』伝説が残る彦根周辺に天岩戸があってもおかしくは無いですよね。


ちなみに、卑弥呼の邪馬台国が大和にあったという説があります。
この邪馬台国大和説は近江には無関係ではありませんこの説は孝元天皇の娘を卑弥呼と考え、卑弥呼の補佐をしていた弟を開化天皇と考えられています。

開化天皇では倭国大乱を招いてしまうので、別系統である壱与が登場し、その後を崇神天皇が継いでゆきます。


では開化天皇の系統はどうなったのでしょうか?
この一族は南山城(京都市周辺)から近江に逃れ近江王朝を築いたのです。
そして琵琶湖の水運を基に淀川・瀬戸内にまでの交通を管理し、渡来人の受け入れから政治・鉄文化を吸収し応神天皇の時に大和へ返り咲きました。

この近江王朝説は今でも奇説の域を出ない扱いを受けていますが(天皇家は万世一系が基本とされているので・・・)、古墳時代の出土品の中に大津と奈良を結ぶ物も発見されていてありえない説ではないのですよ。



余談
ここまで書きましたが、実は管理人は邪馬台国は秋田県八幡平説を推しています。
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佐和山一夜城復元プロジェクト

2007年09月01日 | イベント
20007年9月1日から16日まで、佐和山一夜城復元プロジェクトが佐和山麓の東山運動公園で行われています。

メインは、ベニヤ板100枚で作った18m×13mの石田三成・井伊直政が関わったとされる天守を描いたモノで、期間中は東山運動公園に立てられていて夜はライトアップもされます。

期間中は3回の佐和山歴史講座や土・日ごとにイベントが行われるんですよ。


そんな佐和山城は、鎌倉時代に六角氏から出た佐保時綱が館を建てたのが最初とされています。
佐和山は元々“佐保山”という地名で、これは藤原不比等が父を葬った明日香の佐保山に見立てて命名したそうです。

佐保時綱の後も何人かの所有者がでますが基本的には有事の時にだけ入る臨時のお城のような役割でした。


しかし、戦国時代になって近江国は北の京極氏(没落後は浅井氏)と南の六角氏との戦いが激しくなり双方の勢力がぶつかる佐和山城は境目の城として重要視されるようになったのです。


浅井長政が野良田表の戦いで六角義賢に勝利を収めて戦国大名として名乗りを揚げた翌年には重臣・磯野員昌を城主として住まわせます。
姉川の戦い後に織田信長に攻められて8ヶ月の篭城の末に磯野員昌は降伏しますが、城の価値が下がる事はなく、信長は重臣・丹羽長秀を城主として安土城が築城されるまで近江国内の居城として利用したのでした。


本能寺の変の後は堀秀久・堀尾吉晴と領主か代わり、石田三成が領主の時には天下無双の城の一つとなり「三成に過ぎたる物が二つあり 嶋の左近に佐和山の城」と呼ばれるまでになったのです。
関ヶ原の戦いの後に井伊直政が城主となり直政は佐和山城内で亡くなりました。


そして直政の息子・直継と直孝が彦根城築城を行い佐和山の資材を殆ど持っていってしまった為に現在では殆ど遺構を残していないのです。


ちなみに写真では5層の天守となっていますが、これは佐和山落城から約100年が過ぎた頃に西明寺に奉納された絵馬や当時の古老の言い伝えから5層とされているもので、実際は3層の天守ではなかったか?という説もあり管理人は3層説をとっています。
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