永禄3年(1560)8月中旬、浅井賢政(後の長政)の初陣となる野良田の戦いが行われました。
この戦いは8月中旬と言われていますが、はっきりとした日付があまり出てきませんので、今日紹介します。
2010年は野良田の戦い450年の記念の年でもあるのです。
この前の年、賢政は六角義賢から命じられて娶った妻と離縁します。この妻は、六角家重臣の平井定武の娘でした。「北近江の君主の妻が南近江の君主の家臣の娘とは失礼だ!」と賢政(この賢の字も六角義賢から与えられた)が、六角氏からの独立を宣言した行為だったと言われています。
これに呼応して肥田城で高野瀬氏が六角氏に対して反旗を翻し、怒った六角義賢が肥田城水攻めを行ったことは、管理人の専門分野として何度も紹介していますね。
肥田城水攻めで敗北した義賢は、いったん居城の観音寺城に引き上げ、翌年にもう一度肥田城を攻める軍を起こしたのです。
水攻めの時は援軍も出せなかった浅井賢政でしたが、今回は早々と軍を肥田まで動かしました。
こうして肥田城の北を流れる宇曽川を挟んで両軍が対峙したのです。
南岸の六角軍は、2万2千の軍勢
先陣に、蒲生定秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄
二陣は、楢崎壱岐守・田中冶部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
後陣に、六角承禎(義賢)・後藤賢豊
北岸の浅井軍は、1万1千と言われていますが、そんなに軍が動かせたか謎です。
先陣に、百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守
後陣は、浅井長政(賢政)・赤尾清綱・上坂正信・今村掃部助・安養寺氏秀・弓削家澄・本郷某
以前に講演を聞いた作家の羽生道英さんが『江濃記』からわかり易くお話して下さった状況で見ると…
“午前10時頃から百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀(氏郷の祖父)の手勢と衝突し2時間ばかり戦いましたが決着は着きませんでした。しかし六角方の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百々勢の横合いから攻め掛かり、百々勢は一時的に敗北をして軍勢を引きました(宇曽川を渡って引いたかは分かりません)。その時に百々内蔵助は大声を発して「これは近江南北分け目の合戦だ、予は先陣を承った。もし浅井家が六角に敗北すれば、後日如何にして人に顔向けできるか。我と思わん者は続けや」と取って返して、小高い丘に陣取りました。
小高い丘に陣取った百々内蔵助に、蒲生の家臣である結解十郎兵衛が個人戦を挑みますが内蔵助の方が取り押さえ、十郎兵衛の首を取ろうと思ったところで結解の郎党二人が飛び込んできて内蔵助の首を取りました(しかし、この後に百々内蔵助が佐和山城主として翌年に佐和山で切腹した話が『江濃記』に出てきます)。
野良田合戦は浅井長政が勝ちました。長政は近江南北の分け目の合戦だからという内蔵助と同じ言葉を口にして、六角義賢の本陣に突っ込んで行って勝利を収めたのです。この為に「江北に浅井長政という強い武将が誕生した」と近隣に響きます。
浅井長政が討ち取った首は九百二十級で、浅井方の討死は四百余り負傷者も三百余りあったという話です。この時、越前守護の朝倉義景の従弟の朝倉式部大輔が五百程の兵を引き連れて援軍に来ています。そして浅井が勝利したのを喜んで帰って行きました”
これが『浅井三代記』になると
“浅井長政は、肥田城攻めに間に合わず肥田城は六角義賢に降伏する。翌日長政は宇曽川より二里北に陣取って、六角勢も肥田城から出て宇曽川を挟んで対峙する。正午を過ぎた頃に六角勢の和田和泉守が、正面の磯野丹波守の陣に攻めるべく2500の軍勢を連れて宇曽川に一文字に討ち入る。磯野は「川を越えて来た軍を迎え討つ方が有利」と思って待ち構えるが、「敵に矢が届く距離まで矢を放つな」と命令したので1000人ほどが川を渡って北岸に上がってきた。これを見て磯野は攻撃を命じて攻めかかる。
これの状況を見ていた義賢は、「和田を討たせるな!」と進藤・平井・後藤らに渡川を命じ、長政も本陣の旗本を突撃させる。
半時ほど激戦が続いた後、磯野丹波守らが横槍を突いて六角勢が崩れ、宇曽川の南岸に逃げる。長政は勢いに乗って自ら川を越えて肥田城を奪還した”
となっています。
細かい部分では違いがありますが、宇曽川を挟んで対陣し、川の岸で戦があり、そして浅井長政はこの戦いに勝利するのです。16歳の時でした。
野良田の戦いは、近江の桶狭間とも言われますが、同じ年に織田信長も桶狭間で勝利し、戦国大名への道を進んでいったのでした。
ちなみに、野良田合戦は、野良田で行われたという説もありますが、ここではどうも宇曽川から遠い気もするので、“宇曽川の戦い”や“肥田の戦い”と呼ばれることもあります。
この戦いは8月中旬と言われていますが、はっきりとした日付があまり出てきませんので、今日紹介します。
2010年は野良田の戦い450年の記念の年でもあるのです。
この前の年、賢政は六角義賢から命じられて娶った妻と離縁します。この妻は、六角家重臣の平井定武の娘でした。「北近江の君主の妻が南近江の君主の家臣の娘とは失礼だ!」と賢政(この賢の字も六角義賢から与えられた)が、六角氏からの独立を宣言した行為だったと言われています。
これに呼応して肥田城で高野瀬氏が六角氏に対して反旗を翻し、怒った六角義賢が肥田城水攻めを行ったことは、管理人の専門分野として何度も紹介していますね。
肥田城水攻めで敗北した義賢は、いったん居城の観音寺城に引き上げ、翌年にもう一度肥田城を攻める軍を起こしたのです。
水攻めの時は援軍も出せなかった浅井賢政でしたが、今回は早々と軍を肥田まで動かしました。
こうして肥田城の北を流れる宇曽川を挟んで両軍が対峙したのです。
南岸の六角軍は、2万2千の軍勢
先陣に、蒲生定秀・永原重興・進藤賢盛・池田景雄
二陣は、楢崎壱岐守・田中冶部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
後陣に、六角承禎(義賢)・後藤賢豊
北岸の浅井軍は、1万1千と言われていますが、そんなに軍が動かせたか謎です。
先陣に、百々内蔵助・磯野員昌・丁野若狭守
後陣は、浅井長政(賢政)・赤尾清綱・上坂正信・今村掃部助・安養寺氏秀・弓削家澄・本郷某
以前に講演を聞いた作家の羽生道英さんが『江濃記』からわかり易くお話して下さった状況で見ると…
“午前10時頃から百々内蔵助が宇曽川を渡って、六角方の蒲生定秀(氏郷の祖父)の手勢と衝突し2時間ばかり戦いましたが決着は着きませんでした。しかし六角方の田中冶部大夫・楢崎壱岐守が百々勢の横合いから攻め掛かり、百々勢は一時的に敗北をして軍勢を引きました(宇曽川を渡って引いたかは分かりません)。その時に百々内蔵助は大声を発して「これは近江南北分け目の合戦だ、予は先陣を承った。もし浅井家が六角に敗北すれば、後日如何にして人に顔向けできるか。我と思わん者は続けや」と取って返して、小高い丘に陣取りました。
小高い丘に陣取った百々内蔵助に、蒲生の家臣である結解十郎兵衛が個人戦を挑みますが内蔵助の方が取り押さえ、十郎兵衛の首を取ろうと思ったところで結解の郎党二人が飛び込んできて内蔵助の首を取りました(しかし、この後に百々内蔵助が佐和山城主として翌年に佐和山で切腹した話が『江濃記』に出てきます)。
野良田合戦は浅井長政が勝ちました。長政は近江南北の分け目の合戦だからという内蔵助と同じ言葉を口にして、六角義賢の本陣に突っ込んで行って勝利を収めたのです。この為に「江北に浅井長政という強い武将が誕生した」と近隣に響きます。
浅井長政が討ち取った首は九百二十級で、浅井方の討死は四百余り負傷者も三百余りあったという話です。この時、越前守護の朝倉義景の従弟の朝倉式部大輔が五百程の兵を引き連れて援軍に来ています。そして浅井が勝利したのを喜んで帰って行きました”
これが『浅井三代記』になると
“浅井長政は、肥田城攻めに間に合わず肥田城は六角義賢に降伏する。翌日長政は宇曽川より二里北に陣取って、六角勢も肥田城から出て宇曽川を挟んで対峙する。正午を過ぎた頃に六角勢の和田和泉守が、正面の磯野丹波守の陣に攻めるべく2500の軍勢を連れて宇曽川に一文字に討ち入る。磯野は「川を越えて来た軍を迎え討つ方が有利」と思って待ち構えるが、「敵に矢が届く距離まで矢を放つな」と命令したので1000人ほどが川を渡って北岸に上がってきた。これを見て磯野は攻撃を命じて攻めかかる。
これの状況を見ていた義賢は、「和田を討たせるな!」と進藤・平井・後藤らに渡川を命じ、長政も本陣の旗本を突撃させる。
半時ほど激戦が続いた後、磯野丹波守らが横槍を突いて六角勢が崩れ、宇曽川の南岸に逃げる。長政は勢いに乗って自ら川を越えて肥田城を奪還した”
となっています。
細かい部分では違いがありますが、宇曽川を挟んで対陣し、川の岸で戦があり、そして浅井長政はこの戦いに勝利するのです。16歳の時でした。
野良田の戦いは、近江の桶狭間とも言われますが、同じ年に織田信長も桶狭間で勝利し、戦国大名への道を進んでいったのでした。
ちなみに、野良田合戦は、野良田で行われたという説もありますが、ここではどうも宇曽川から遠い気もするので、“宇曽川の戦い”や“肥田の戦い”と呼ばれることもあります。