彦根市が主催した、市民向けの『井伊直虎 学習会』を受講してきました。
講師は井伊谷龍潭寺の前住職・武藤全裕さんです。
直虎の生まれた頃の井伊家は、今川義元の旗本になるかならないかの微妙な時期で、もしかしたら井伊谷ではなく伊平で誕生した可能性もあること。
井伊家の男性たちは次々に不幸な亡くなり方をして、井伊家の一人である南渓和尚の後楯で直虎が井伊家当主になったのではないか。とのこと。
そして、直政の出世がたった10年で6万石を得るという他の武将には例を見ない早い出世をしたこと。
など、直虎を中心にした井伊家のお話でした。
最後に
「直政が家康に仕えてから四年後に、松平信康が自害しているが、直政も信康も井伊直平の玄孫の立場でありながら、直政が連座した形跡もない。
直政と信康は交流がなかったのか?」と質問しました。
お答えとしては、岡崎と浜松で離れていて二人が会うのは信康が出陣してきた時くらいだっただろう。とのことと、家康は何らかの想いで直政を重用していて、信康切腹のすぐ後に何の功績もないまま直政を6万石にしている、5万石を有していた信康を意識していたとも考えられる。
とのことでした。
以前に市長にお伺いした話では、今回の勉強会の受講者が彦根市内で、直虎を伝導する役割を担うそうですから、責任を持ってしっかりと学んでいかねばなりませんね。
講師は井伊谷龍潭寺の前住職・武藤全裕さんです。
直虎の生まれた頃の井伊家は、今川義元の旗本になるかならないかの微妙な時期で、もしかしたら井伊谷ではなく伊平で誕生した可能性もあること。
井伊家の男性たちは次々に不幸な亡くなり方をして、井伊家の一人である南渓和尚の後楯で直虎が井伊家当主になったのではないか。とのこと。
そして、直政の出世がたった10年で6万石を得るという他の武将には例を見ない早い出世をしたこと。
など、直虎を中心にした井伊家のお話でした。
最後に
「直政が家康に仕えてから四年後に、松平信康が自害しているが、直政も信康も井伊直平の玄孫の立場でありながら、直政が連座した形跡もない。
直政と信康は交流がなかったのか?」と質問しました。
お答えとしては、岡崎と浜松で離れていて二人が会うのは信康が出陣してきた時くらいだっただろう。とのことと、家康は何らかの想いで直政を重用していて、信康切腹のすぐ後に何の功績もないまま直政を6万石にしている、5万石を有していた信康を意識していたとも考えられる。
とのことでした。
以前に市長にお伺いした話では、今回の勉強会の受講者が彦根市内で、直虎を伝導する役割を担うそうですから、責任を持ってしっかりと学んでいかねばなりませんね。