慶長20年5月8日、大坂城が落城し豊臣家が滅亡しました。
なぜか続けて大坂夏の陣を書いてしまいましたので、最後に大坂城落城を書いて大坂夏の陣のお話を終わりにします。
連続で続いた敗戦により、いよいよ追い詰められた豊臣方は、最後に大坂城による決戦を行うしかありませんでした。
しかし、大坂冬の陣の講和条件によって丸裸にされていた大坂城は篭城する事もできないお城だったのです。
私たち現代人の感覚では「篭城なんて、勝ち目が無い戦いの最後の抵抗じゃん、やるだけ無駄な気がするけど・・・」と思いがちですが、実は戦国時代は篭城こそ必勝の一手という常識がまかり通っていたのです。
織田信長が登場する前の戦国時代の常識では、いつでも戦が出来た訳ではなく、戦は農閑期しか出来ませんでした。これは多くの兵が半農半兵で戦の時になると領主から借り出された農民だったので、農業が忙しい時に戦をすると収穫が下がって国力すら落ちてしまう結果が待っていたからでした。
そこで戦は短期決戦が望まれていて、時間のかかる城攻めは避けるのが普通だったのです。
徳川家康と武田信玄が戦った三方ヶ原の戦いの後で、浜松城に籠もった徳川家康を武田信玄が攻めなかった理由として、家康が城内の門を開け放ってか居た為に信玄が「空城の計」を案じて兵を引き、家康の機転を褒める逸話がありますが、これは江戸時代に家康の功績を称えた作り話だった可能性も高いと思います。
真相は織田信長との決戦を目指した信玄にとって、浜松城の城攻めに時間をかける余裕が無かっただけなんでしょう。
ちなみに、この時代の城攻めは落城を勝ちとするのではなく、城を囲んだ事により経済封鎖が行われ、守城方の経済的圧迫と民衆に対する信頼の失墜こそが最大の目的だったのでした。
つまり守る方にすれば、篭城は命を繋げる一番堅い策でもあり、これは戦国時代を通しての常識だったのでした。
この事を踏まえると、戦国時代の気質を残した浪人が多かった豊臣方が大坂城に集まって最終決戦に備えたのは、身体や空気が自然に覚えている行動だったのかもしれませんね。
さて5月8日、徳川軍による大坂城総攻撃が行われいよいよ本丸を残すのみとなった時にあまり記録には登場しないのですが講和会議が行われました。
そしてなんと講和が成立しているのです。
細かい条件は分かりませんが、少なくとも家康の孫の千姫が大坂城から出る話(これが一人でなのか、それとも秀頼や淀の方も一緒なのかは謎ですが・・・)はあったと思います。
大坂城落城を現場で経験した女性“菊”が記した『おきく物語』には、合戦が終わって静かになった事が記されているのです。
講和が結ばれてホッとした城内、夕刻になると夕食の準備が行われました。
その時になって段々城内が騒がしくなっていき、やがて大混乱に陥ったのです。
「火事だ!」「本丸が燃えている!!」「徳川に騙された!!!」
そんな叫びが阿鼻叫喚の地獄絵図を生み、大坂城に入っていた徳川家康からの和平の使者である常光院(淀の方の妹)も慌てて城外に逃げ出したのでした。
この騒ぎは、夕食の準備をしていた誰かが失火をしてしまい、それが本丸に燃え広がったのが原因だったのではないかと考える人もいます。
もしかしたら戦が終わって腹が減って、調理の途中についウトウトと・・・
気が付いたら火の海だった。というものかも知れませんね。
つまり、講和が結ばれ平和裏に終わった大坂夏の陣は、豊臣方の油断によって城を火の海に包んでしまったのです。
千姫の元気な姿を見て居ない家康は慌てて千姫救出を命じます。
そして、城が燃えて居る事に慌てたのは豊臣方も同じだった事でしょう・・・
徳川軍では、再び戦が起こったと勘違いした井伊直孝らが功名を求めて秀頼や淀の方の居場所を探し始めました。
そして、秀頼は千姫を城外に逃がして側室・成田の方を共に連れて行ったのです。一般的にドラマや小説などでは秀頼と千姫は想い合っていて、秀頼は愛の深さゆえに千姫と淡い恋を続け、愛しい人の命を救う為に城外に逃がした。とされていますが、真相はもっとドロドロしていたようです。秀頼には成田の方という側室が居て(秀吉の側室だった成田の方とはどういう関係なのかは不明ですが、小説家が色んな材料で楽しむ素材の一つです)、その間には“国松”とう男の子と後に出家する女の子が生まれていました、これに対し千姫との間の子どもは流産してしまったとかしないとか・・・
秀頼にとっては千姫は厄介払いだったのかもしれませんね。
真相は謎のままですが、山里郭に逃れた秀頼と淀の方一行。
その建物を囲んだのが井伊直孝でした。直孝は秀頼に降伏と投降を勧告し、その後に発砲を行い警告を発します。これによって豊臣秀頼は大野治長や毛利勝永・速水守久らと共に自害して果てたのです。23歳でした。
ここに成田の方も従っていたのでした。
淀の方も自害しました。49歳。
この時、山里郭から火が出て遺体を焼いてしまったらしく、秀頼や淀の方の痛いが発見されなかった為に後々まで生存説が残りました。
真田丸の批准地の最有力候補とされている三光神社にはそんな伝説を示す「真田の抜穴跡」が残っています。
しかし、昭和55年になって大坂城京橋口三ノ丸跡の豊臣時代の地層から3つの人骨の頭骸骨と1つの馬の首の骨が発見されました。
豊臣時代の地層をまだ掘って埋められたその首は豊臣秀頼と側近2名そして愛馬の首だったのです。
秀頼が最後まで共に望んだ成田の方の首が無かったのは残念ですが、この頭蓋事は370年を経た大発見となったのです。
様々な研究が行われた後に、昭和58年になって京都の清凉寺で法要を行うと、その頭蓋骨の眼球の無い目の窪みから滂沱の涙が溢れ出たのでした。
ここまで書くと、秀頼は無念の死を迎えたように思えますが、味方の失火による真相を知っていたとしたら、もしかしたらこの涙も一部の学者が夢もなく言うような「法要の熱気で蒸発した水蒸気が、頭蓋骨という冷たい物に集まって露ができただけだろう」という説になっちゃうのかもしれませんね。
ついでに書けば、この失火は徳川方では知れ渡っていたらしく、16年後の秀頼の命日に江戸で天変地異とも言える大きな雹が降ってパニックになった時に「秀頼の祟りではないか?」と慌てふためいた人々の話を手紙で知った細川忠興は、息子に対して「そんな事ある筈が無い、もし秀頼公の祟りなら米粒ほどの大きさだろう」と送った。と藤原京さんが最近書かれた文章に載っていました。
こうして、豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家は滅亡したのです。
ちなみに大坂の陣後に捕らえられた国松が処刑された事により豊臣家は無くなった。と思われがちですが、秀吉の正室の北政所の実家である木下家が豊臣姓を使っていましたので、明治時代に姓や氏をまとめて一つにするまではこの木下家で豊臣姓が使われていました。
つまり豊臣一族は明治時代に姓が廃止されるまでは残っていたのです。
なぜか続けて大坂夏の陣を書いてしまいましたので、最後に大坂城落城を書いて大坂夏の陣のお話を終わりにします。
連続で続いた敗戦により、いよいよ追い詰められた豊臣方は、最後に大坂城による決戦を行うしかありませんでした。
しかし、大坂冬の陣の講和条件によって丸裸にされていた大坂城は篭城する事もできないお城だったのです。
私たち現代人の感覚では「篭城なんて、勝ち目が無い戦いの最後の抵抗じゃん、やるだけ無駄な気がするけど・・・」と思いがちですが、実は戦国時代は篭城こそ必勝の一手という常識がまかり通っていたのです。
織田信長が登場する前の戦国時代の常識では、いつでも戦が出来た訳ではなく、戦は農閑期しか出来ませんでした。これは多くの兵が半農半兵で戦の時になると領主から借り出された農民だったので、農業が忙しい時に戦をすると収穫が下がって国力すら落ちてしまう結果が待っていたからでした。
そこで戦は短期決戦が望まれていて、時間のかかる城攻めは避けるのが普通だったのです。
徳川家康と武田信玄が戦った三方ヶ原の戦いの後で、浜松城に籠もった徳川家康を武田信玄が攻めなかった理由として、家康が城内の門を開け放ってか居た為に信玄が「空城の計」を案じて兵を引き、家康の機転を褒める逸話がありますが、これは江戸時代に家康の功績を称えた作り話だった可能性も高いと思います。
真相は織田信長との決戦を目指した信玄にとって、浜松城の城攻めに時間をかける余裕が無かっただけなんでしょう。
ちなみに、この時代の城攻めは落城を勝ちとするのではなく、城を囲んだ事により経済封鎖が行われ、守城方の経済的圧迫と民衆に対する信頼の失墜こそが最大の目的だったのでした。
つまり守る方にすれば、篭城は命を繋げる一番堅い策でもあり、これは戦国時代を通しての常識だったのでした。
この事を踏まえると、戦国時代の気質を残した浪人が多かった豊臣方が大坂城に集まって最終決戦に備えたのは、身体や空気が自然に覚えている行動だったのかもしれませんね。
さて5月8日、徳川軍による大坂城総攻撃が行われいよいよ本丸を残すのみとなった時にあまり記録には登場しないのですが講和会議が行われました。
そしてなんと講和が成立しているのです。
細かい条件は分かりませんが、少なくとも家康の孫の千姫が大坂城から出る話(これが一人でなのか、それとも秀頼や淀の方も一緒なのかは謎ですが・・・)はあったと思います。
大坂城落城を現場で経験した女性“菊”が記した『おきく物語』には、合戦が終わって静かになった事が記されているのです。
講和が結ばれてホッとした城内、夕刻になると夕食の準備が行われました。
その時になって段々城内が騒がしくなっていき、やがて大混乱に陥ったのです。
「火事だ!」「本丸が燃えている!!」「徳川に騙された!!!」
そんな叫びが阿鼻叫喚の地獄絵図を生み、大坂城に入っていた徳川家康からの和平の使者である常光院(淀の方の妹)も慌てて城外に逃げ出したのでした。
この騒ぎは、夕食の準備をしていた誰かが失火をしてしまい、それが本丸に燃え広がったのが原因だったのではないかと考える人もいます。
もしかしたら戦が終わって腹が減って、調理の途中についウトウトと・・・
気が付いたら火の海だった。というものかも知れませんね。
つまり、講和が結ばれ平和裏に終わった大坂夏の陣は、豊臣方の油断によって城を火の海に包んでしまったのです。
千姫の元気な姿を見て居ない家康は慌てて千姫救出を命じます。
そして、城が燃えて居る事に慌てたのは豊臣方も同じだった事でしょう・・・
徳川軍では、再び戦が起こったと勘違いした井伊直孝らが功名を求めて秀頼や淀の方の居場所を探し始めました。
そして、秀頼は千姫を城外に逃がして側室・成田の方を共に連れて行ったのです。一般的にドラマや小説などでは秀頼と千姫は想い合っていて、秀頼は愛の深さゆえに千姫と淡い恋を続け、愛しい人の命を救う為に城外に逃がした。とされていますが、真相はもっとドロドロしていたようです。秀頼には成田の方という側室が居て(秀吉の側室だった成田の方とはどういう関係なのかは不明ですが、小説家が色んな材料で楽しむ素材の一つです)、その間には“国松”とう男の子と後に出家する女の子が生まれていました、これに対し千姫との間の子どもは流産してしまったとかしないとか・・・
秀頼にとっては千姫は厄介払いだったのかもしれませんね。
真相は謎のままですが、山里郭に逃れた秀頼と淀の方一行。
その建物を囲んだのが井伊直孝でした。直孝は秀頼に降伏と投降を勧告し、その後に発砲を行い警告を発します。これによって豊臣秀頼は大野治長や毛利勝永・速水守久らと共に自害して果てたのです。23歳でした。
ここに成田の方も従っていたのでした。
淀の方も自害しました。49歳。
この時、山里郭から火が出て遺体を焼いてしまったらしく、秀頼や淀の方の痛いが発見されなかった為に後々まで生存説が残りました。
真田丸の批准地の最有力候補とされている三光神社にはそんな伝説を示す「真田の抜穴跡」が残っています。
しかし、昭和55年になって大坂城京橋口三ノ丸跡の豊臣時代の地層から3つの人骨の頭骸骨と1つの馬の首の骨が発見されました。
豊臣時代の地層をまだ掘って埋められたその首は豊臣秀頼と側近2名そして愛馬の首だったのです。
秀頼が最後まで共に望んだ成田の方の首が無かったのは残念ですが、この頭蓋事は370年を経た大発見となったのです。
様々な研究が行われた後に、昭和58年になって京都の清凉寺で法要を行うと、その頭蓋骨の眼球の無い目の窪みから滂沱の涙が溢れ出たのでした。
ここまで書くと、秀頼は無念の死を迎えたように思えますが、味方の失火による真相を知っていたとしたら、もしかしたらこの涙も一部の学者が夢もなく言うような「法要の熱気で蒸発した水蒸気が、頭蓋骨という冷たい物に集まって露ができただけだろう」という説になっちゃうのかもしれませんね。
ついでに書けば、この失火は徳川方では知れ渡っていたらしく、16年後の秀頼の命日に江戸で天変地異とも言える大きな雹が降ってパニックになった時に「秀頼の祟りではないか?」と慌てふためいた人々の話を手紙で知った細川忠興は、息子に対して「そんな事ある筈が無い、もし秀頼公の祟りなら米粒ほどの大きさだろう」と送った。と藤原京さんが最近書かれた文章に載っていました。
こうして、豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家は滅亡したのです。
ちなみに大坂の陣後に捕らえられた国松が処刑された事により豊臣家は無くなった。と思われがちですが、秀吉の正室の北政所の実家である木下家が豊臣姓を使っていましたので、明治時代に姓や氏をまとめて一つにするまではこの木下家で豊臣姓が使われていました。
つまり豊臣一族は明治時代に姓が廃止されるまでは残っていたのです。
ご指摘ありがとうございます。
末裔の方ののコメントが一緒になることで、一つ勉強したことが証明されます。