文久3年(1863)2月23日、8日に江戸を経った浪士組が京都に入りました。
前日に京都を揺るがす大事件が起きたばかりであり、大騒ぎの京都の空気を浪士組がどのように感じたのかが知りたいですが、あまりこの辺りの記録は見たことがありません。
そんな京都を三条大橋から市街地を抜け壬生に入った浪士組はいくつかの場所に分けて宿としました。
その夜、清河八郎は各組の主だった者を取締役の宿であった新徳寺に集めます。そこで浪士組を天皇の先兵にする尊皇攘夷の計画を打ち明けるのです。
翌24日に学習院にその旨を記した建白書を提出。
29日になって、浪士組の者全員を集めて、実は天皇の兵となるべく上洛したことを清河が告げると、近藤勇をはじめとする試衛館の面々や芹沢鴨をはじめとする天狗党の生き残りの面々などが反対意見を出します。
怒った清河はこれらの面々に「勝手にしろ」と捨て台詞を吐き場を離れて、浪士組は分裂したのです。
こののち、近藤や芹沢の他に殿内義雄らのグループが加わり、24名が京都に残ります。そしてこの事態を知った幕府は清河らに帰国命令を発し、なぜかその命を素直に受けた清河は残りの浪士を連れて江戸へと出立するのです。
前日に京都を揺るがす大事件が起きたばかりであり、大騒ぎの京都の空気を浪士組がどのように感じたのかが知りたいですが、あまりこの辺りの記録は見たことがありません。
そんな京都を三条大橋から市街地を抜け壬生に入った浪士組はいくつかの場所に分けて宿としました。
その夜、清河八郎は各組の主だった者を取締役の宿であった新徳寺に集めます。そこで浪士組を天皇の先兵にする尊皇攘夷の計画を打ち明けるのです。
翌24日に学習院にその旨を記した建白書を提出。
29日になって、浪士組の者全員を集めて、実は天皇の兵となるべく上洛したことを清河が告げると、近藤勇をはじめとする試衛館の面々や芹沢鴨をはじめとする天狗党の生き残りの面々などが反対意見を出します。
怒った清河はこれらの面々に「勝手にしろ」と捨て台詞を吐き場を離れて、浪士組は分裂したのです。
こののち、近藤や芹沢の他に殿内義雄らのグループが加わり、24名が京都に残ります。そしてこの事態を知った幕府は清河らに帰国命令を発し、なぜかその命を素直に受けた清河は残りの浪士を連れて江戸へと出立するのです。