彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:浪士組上洛(2月23日)

2013年02月23日 | 何の日?
文久3年(1863)2月23日、8日に江戸を経った浪士組が京都に入りました。
前日に京都を揺るがす大事件が起きたばかりであり、大騒ぎの京都の空気を浪士組がどのように感じたのかが知りたいですが、あまりこの辺りの記録は見たことがありません。

そんな京都を三条大橋から市街地を抜け壬生に入った浪士組はいくつかの場所に分けて宿としました。
その夜、清河八郎は各組の主だった者を取締役の宿であった新徳寺に集めます。そこで浪士組を天皇の先兵にする尊皇攘夷の計画を打ち明けるのです。
翌24日に学習院にその旨を記した建白書を提出。
29日になって、浪士組の者全員を集めて、実は天皇の兵となるべく上洛したことを清河が告げると、近藤勇をはじめとする試衛館の面々や芹沢鴨をはじめとする天狗党の生き残りの面々などが反対意見を出します。
怒った清河はこれらの面々に「勝手にしろ」と捨て台詞を吐き場を離れて、浪士組は分裂したのです。

こののち、近藤や芹沢の他に殿内義雄らのグループが加わり、24名が京都に残ります。そしてこの事態を知った幕府は清河らに帰国命令を発し、なぜかその命を素直に受けた清河は残りの浪士を連れて江戸へと出立するのです。
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150年前:足利三代木像梟首事件(2月22日)

2013年02月22日 | 何の日?
文久3年(1863)2月22日、足利将軍である尊氏・義詮・義満の木像の首が賀茂川の河原に晒される足利三代木像梟首事件が起こりました。

この当時、徳川光圀が編集させていた『大日本史』の影響で、天皇の正当性は三種の神器を保有していたかどうかで決められていて、南北朝時代には南朝が三種の神器を保有していたことから正当性が認められていました。
そうすると、南朝に対抗した北朝の任命した征夷大将軍である足利尊氏・義詮・義満は朝敵と言う扱いになったのです。

持統院に祀られていた木像は、前日に位牌と共に奪われていて、目をくり抜かれ首を斬られた状態で晒されました。そして斬奸状には「朝廷を守るのがこの国の本来の姿なのに、源頼朝が幕府を開いて以来、北条・足利と朝廷を悩ませた。本来なら本人の首を斬りたいところだ無理なので尊氏とその子孫の木像の首を刎ねてその不満を晴らす」と書かれていたのです。
犯人は平田派国学の三輪田元綱、師岡正胤とされています。

この事態を怒った松平容保は、犯人捕縛を厳命します。
4月の犯人捕縛後に三条実美が、一橋慶喜を通じて赦免を要求しますが聞き入れられず8月に主計されたのです。

この事件は、容保に大きな影響を与え、それまでは融和路線を執っていたのですが、翌日に上洛する浪士組から派生した新選組を登用するなどの強硬路線を執ることになったのです。
こう考えると、幕末の尊王攘夷派の悲劇って、自分で起こしたものだとも言えますね。
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150年前:イギリス艦隊来航(2月19日)

2013年02月19日 | 何の日?
文久3年(1863)2月19日、生麦事件の賠償交渉のためにイギリス艦体が来航しました。

前年8月21日に薩摩藩国父島津久光の行列の前を乗馬したまま横切ったとして、横浜の生麦村でイギリス人が殺された事件に、イギリスは怒りをあらわにしました。
イギリス公使代理ジョン・ニールは幕府に対して10万ポンドの賠償を要求したのです。そして幕府から薩摩藩の支配を幕府が行っていないことを見抜き、薩摩藩に対しても犯人の引き渡し要求(これは事件直後から行っている要求)と2万5千ポンドの賠償を要求したのです。
そして幕府や薩摩藩に脅しをかけるために、横浜にイギリス・アメリカ・オランダ・フランスの四か国艦隊を入港させたのです。この最初であるイギリス艦隊が入港したのが2月19日でした。

このころ、将軍徳川家茂は上洛のために江戸を離れていて、老中格の小笠原長行が家茂の一行から離れ江戸に戻り日英での交渉が始まりますこの交渉は賠償の支払いをするか否かで何度も意見が変わり、最終的に5月9日に幕府からの支払いが行われることになるのですが、薩摩藩はこれを拒否したのです。
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150年前:本庄宿騒動(2月9日)

2013年02月09日 | 何の日?
文久3年(1863)2月9日、上洛中の浪士組が本庄宿で事件を起こしました。

『新撰組始末記』によると、浪士組の宿割りを担っていた近藤勇は、本庄宿での仕事を終えて隊士たちを宿に案内したのですが、なぜか芹沢鴨の宿の手配を忘れてしまったのです。
怒った芹沢は、宿場の薪や木片などを街道の真ん中に積み上げて、そこに火を放ち大きなたき火を行ったのです。
宿場街は大騒ぎになり、近藤勇は池田徳太郎という人物とともに、自分の失態を地に附して詫び、芹沢はその場は収まって事なきを得た。
と言われています。

これは、新選組に関わる物語ではよく取り上げられる逸話ですが、最近の研究では本庄にこのような記録は残っておらず、作り話であった可能性が高いのです。
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150年前:浪士組江戸出発(2月8日)

2013年02月08日 | 何の日?
文久3年(1863)2月8日、浪士組が京に向けて出発しました。

当初50人程度を予定していた浪士組は、最終的に240人の大所帯となって、江戸を出発したのです。
この時、浪士たちには10両の手当てが支給されました。
一般的な説では、浪士取締役の松平主税助が、人数の多さに驚いて職を辞して鵜殿長鋭に代わったといわれていますが、松平はこれより前に職を降りていますので、浪人の人数には関わっていません。
また、当初は50人で一人50両の手当てが、200人以上になったので10両になったとの話もありますが、これも当時の史料を調べていくと最初から10両だった可能性が高いのです。

ちなみに浪士取締役には鵜殿の他にも清河八郎や石坂周造・山岡鉄舟なども就いていて、上洛の道中で、芹沢鴨もこの任に就くのです。
またこの出発に際して浪人たちは7組に分けられますが、近藤勇は平扱いで、なぜか先発隊として浪人たちの宿を確保する役割を受け持つのです。

こうして8日に出発した浪士組は23日に京に入るのです。
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150年前:浪士組結成(2月4日)

2013年02月04日 | 何の日?
文久3年(1863)2月4日、江戸小石川伝通院で浪士組が結成されました。

浪士隊は、清川八郎が山岡鉄舟らと図り、幕府に進言して将軍上洛の警護を関東の浪士たちに行わせるという名目で集められたものでした。
これより1か月ほど前に、試衛館の道場主だった近藤勇の元にも、門弟である永倉新八から情報が入っていて、近藤以下主だった剣士たちが浪士取締役の松平主税助を訪ねて、将軍警護が本当であると確認し、参加を決意したのです。

この日、伝通院に集まった浪人は、幕府が予想していた50人をはるかに上回る234人でした。
そして2月8日の江戸出発が告げられたのです。


ちなみに、この浪士組に坂本龍馬も誘われる予定だったという話は、あまり知られていませんね。
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飛鳥寺西方遺跡現地見学会

2013年02月02日 | 講演
飛鳥寺の近くで石敷の遺跡が出た。
このニュースは衝撃でした。

飛鳥寺の西で石敷きの庭と言えば、「槻樹広場」が思い浮かぶ方もおられるはずです。
中大兄皇子(天智天皇)が蹴鞠をしているときに靴が飛び、その靴を拾った中臣鎌子(藤原鎌足)が皇子に届けて、お互いに意気投合して翌年に乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)を起して大化の改新を成し遂げるという、古代史のロマンが詰まった現場です。
「飛鳥時西槻」という呼び名でたびたび記録に登場する場所であり、ここには大きな槻の木があったとされているのです。

今回は現地見学会なので、現地を見て関係者さんに質問をするスタイルです。

基本的には、石敷と砂利敷そして土抗が発掘されました。

石は、近くの河原から運んだのではないかとのことでしたが、特に大きさはまとまっていません。

土抗は槻の跡ではないようです、でも建物の跡でもなくまだ研究段階とのことでした。

この発掘現場の西橋から甘樫丘を背に立つと、発掘現場の奥に蘇我入鹿の首塚があり、その向こうが飛鳥寺です。


まさしく歴史の舞台であり、ここで大きな出会いがあったのだと考えると、震えるくらい感動です。
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150年前:賀川肇の首が晒される(2月1日)

2013年02月01日 | 何の日?
文久3年(1863)2月1日、賀川肇の首が東本願寺門前に晒されました。

和宮降嫁に関わった四奸二嬪(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直と今城重子・堀河紀子)の一人に挙げられていた千種の家臣である賀川肇が暗殺されたのは1月28日の事でした。
28日夜に、賀川宅を十数名の浪人が襲ったのです。しかし賀川の姿が見えなかったために、子どもを殺そうとしました。
これには賀川も観念し、浪士たちの前に姿を示し、首を斬られたのです。この浪士たちの中に田中新兵衛や岡田以蔵がいたとも言われています。

そんな賀川の遺体をバラバラの切り裂いた浪士たちは、2月1日になって右腕を千種邸に、左腕を岩倉邸に投げ込んで「二嬪が女官に復帰するらしいが、もしそうなったら同じ目に合うと伝えろ」との文を添えました。
そして首が、一橋慶喜の宿舎である東本願寺の門前に晒されて、「本気で攘夷をしないなら、天下の有志は黙っていない。攘夷の期限を確定して天下の疑惑を取り除け。この首は粗末だが攘夷の血祭りに献上するので、一橋公に披露しろ」と老中や大目付宛に書かれていたのです。

東本願寺は一時大騒ぎになりましたが、水戸藩の武田耕雲斎が吉兆と進言し、慶喜は翌日に賀川の首に清酒を献じて、「攘夷の前に生首を得たのは吉兆だ」と公言して騒ぎを沈静化させたのです。
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