彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『ひな人形の歴史』

2009年02月28日 | 講演
御雛様の時期に合わせて彦根城周辺で『城下町の雛と雛道具展』と題した様々な企画が行われています。
その中で、善利組足軽屋敷では江戸時代の建物の中で江戸時代の雛人形が展示されるという催しが3月3日まであるのです。
写真は、井伊直弼が彦根藩主に就任した嘉永3年(1850)に作られた古今雛です。

2009年2月28日、そんな足軽屋敷の中の雛飾りの前で『ひな人形の歴史』と題された講演が行われました。


『ひな人形の歴史』について
彦根市教育委員会文化財課課長:谷口 徹 さん

井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのは3月3日、雛の節句で登城する途中で暗殺されていますので、どこまで本当かはわかりませんが家臣たちの中では雛の節句を控えるようになったとも言われていますが、実際に探してみると江戸時代に遡る雛人形が出てきますので、少なくとも町屋の方ではそういう事はなかったのだろうと思われます。
 
 人形の歴史を最初にお話ししますと、私たち人間が人形を作ったり描いたりするのは長い歴史があります。
 人間が人間として地球上に生活するようになってから、おそらく随分早い時期からあったのだろうと考えられます。
 猿が人間になったと言われていますが、猿が手を使って森林を移動し、色んな状況に中で森林が無くなり猿が平原に移動すると手の利用法が無くなってしまいます。そこで道具を作り出し二足直立歩行を行い人間の元となります。
 二足直立歩行になって四つん這いよりも頭脳の重量が支えられ脳が発達し、二本の手を使って色んな道具を編み出して人間が人間としてどんどん発達しました。
 その一番古い時代は旧石器(先土器)時代。つまり古いタイプの石の道具を使っていた時代が随分長く続きます、これは日本の場合で5万年くらい前まで、世界史で言うと300万年くらい前まで人間の痕跡が遡ります。旧石器時代でも、石にもっと硬い石で妊娠した女性を描いたり、あるいは洞窟に絵を描いたりそんな物が日本ではまだ見つかっていないのですが各地で見つかっています。
 今から大体1万年くらい前(縄文時代)になりますと日本でも見つかってきます。その典型的なのが“土偶”という土でできた人形です。多いのは妊娠した女性の形をしています、精巧な物はお腹が膨らんでいて中に土の人形をちゃんと入れている物もあります。
 妊娠した状態の女性というのは、縄文時代は米作りを知らず自然界にある動物や木の実を食べる「自然が生み出した物でそのまま人間が恩恵を受ける」時だったのです。ですから自然の状態によって人間が食べる物が減る場合もあるのです。そんな自然に頼った生活の中では人間が子どもを産むのも自然に頼った事と同じ意味があったのです。ですから人形を使って「自然の恵みが豊かでありますように」とお祈りをする意味を込めて、女性の妊娠した状態を人形に託しているんです。しかし土偶にはほとんどまともな形が無く壊して埋めているのです。ですからそういう物を意図的に毀し地面に埋める事によって、生まれるという事の何がしかが祈られたと言われています。
 弥生時代になると、土の人形もあるのですが木を削って人形が作られます。この頃になると鉄製品が中国や朝鮮から入ってきて今で言う小刀のような木を削る道具も生まれますので、道具に発達から木でできる人形も生まれたのです。滋賀県では大中の湖遺跡で木の人形が埋められていました。やはり木の人形も「生み出す」という事に対するお祈りだっただろうと思われています。今でも大きな男性と女性の人形をお祀りするという習慣が滋賀県にも残っています。
 弥生時代の大きな特徴は米作りが始まった事です。それまでは自然に頼っていた物が意識的に生産する事ができるようになりました。そうすると単純な数字で考えると10人の人が居て8人が米作りに携わると2人の余りが生じます。米作りに従事しなくてもいい人物は村長やお祈りをする人であったりするのです。そんな村長が集落の中心で村の平和を保つように尽力するのですが、だんだん権力に芽生え、いつの間にか村人の為という内向きの顔が村の外に向くようになりそして権力者になり、誤解を始めて村人が作ったお米を自分の物にするという図式ができあがります。
 その権力者が、自分の権力を誇示する分かり易い物として作ったのが古墳でした、こうして古墳時代になります。近々国の史跡にする準備をしている荒神山古墳は、全長124mという非常に巨大な山の上の前方後円墳ですが、下から見上げるような形で作り死んでもなお自分の権力を誇示しようとする象徴(葬送儀礼)だったのです。
 しかし古墳は権力誇示だけではなく、次の権力者に引き継ぐ儀式(継承儀礼)もやったのです。ですから前方後円墳は、前の四角い場所でお葬式や権力者継承の儀式を行い、後ろの丸い方に遺体を葬ったのです。
 荒神山古墳ではなかなか見つかりませんが、古墳には埴輪が多く出土します。埴輪には“円筒埴輪”と“形象埴輪”があり“円筒埴輪”はたくさん作られました。高さは70~80cmくらい高さは大体30cm位の物が出てきます、それは古墳の外側をずっと廻ります、古墳はお墓(聖域)ですからそれを示すラインだと考えられています。
 “形象埴輪”は遺体の側や、儀式を行ったと思われる場所に置かれています、ですから家の形や人の形をした物もあります。その中には武人(墓を守る)や巫女(儀礼)の形をした物もあり正確な形をした物もあります。巫女は米原市(旧近江町)でも出てきています。
 奈良時代以降になると中国の文化がどんどん入りながらも、日本のオリジナルの文化も残ります。そういう中で“人形”と書いて“ひとがた”と呼ぶ物が出てきます。今でも人型は習慣としてやっています。この時期(晩冬頃)にお伊勢さんやお多賀さんで紙の人型の物に息を吹きかけて名前を書いて回収し、それを祈祷していますが。息を吹きかける事で自分の体内にある物を人型に移します。寒い時期になると人はあまり動かなくなり身体の中に邪気が溜まると言う考え方があり、その溜まった物を紙に移すという考え方なのです。
 そして移した紙を全部燃やして消すのです。そうして自らは綺麗にリフレッシュして春からに臨むという儀式として奈良時代からの伝統だったのです。
 それが上巳という3月最初の巳の日に穢れを人形に託そうという考え方から生まれ、それが雛人形へと変わっていったのです。ですから3月3日に歴史的に繋がってくるのです。

 最初は“天児(あまがつ)”や“這子(ほうこ)”という人形が平安時代に生まれます。天児は井伊直弼の四女・真千代の物が彦根城博物館残っています。どちらも子どもを写した人形で赤ちゃんの枕元に置いて赤ちゃんが病気になったら人形にうつす事で赤ちゃんは健康でいられるという思いが作られました。天児や這子はとてもシンプルな形だったのですが、どんどん精巧で飾るようになってくるのです。
 それに『源氏物語』にも登場する“ひいな遊び(お人形さんごっこ)”が引っ付き今の雛人形になったと考えられます。

 雛人形として非常に発達するのは江戸時代になってからです。そこにお人形に合わせたミニチュアである雛道具が加わります。彦根ではこの時期に直弼の次女・弥千代の雛道具が展示されますが、あれは実際に婚礼道具として高松に持って行った物のミニチュアなのです。人形と雛道具が引っ付いて段飾りになっていくのです。ですから人形と道具が一緒に飾られますがこれは全部江戸時代になってからなのです。

 江戸時代にはいろんな人形が生まれましたが天児に繋がる一番シンプルな物は“立雛(たちびな)”です、紙で出来ていることも多いので“紙雛”とも言いますが、博物館でも弥千代の雛として展示される時もあります。形はシンプルで古い物ですが、ずっと踏襲されますので直弼の娘の時も作られたのです。
 寛永時代(1624~1643)に作られたと言われているのは“寛永雛”です。ここではようやく座っている人形となり、男性の頭と飾りが一体になっていて髪の毛は描かれています、また女性は手を着物に隠して作らないと言う非常に古い形です。
 元禄年間(1688~1704)に“元禄雛”が作られました。形が大きくなり、衣装に金の糸が使われたりして派手になってきます。女性にも手が作られるようになり綿入りになって少しふっくらしています、しかし男性の冠はまだ顔と一体化していてその辺りはまだ古い事です。
 享保年間(1716~1735)になると“享保雛”という人形が登場します。要は時代が豊になったのに合わせて、どんどん豪華に大きくなっていくという傾向が生まれてきますので「8寸以上の人形は作るな」という規制が生まれたりもしたのです。頭の飾りに女性は冠が付いたりもしました。
 次に“次郎左衛門雛”が生まれます。京都の人形師・岡田次郎左衛門が作ったのでこう呼ばれていますが江戸でも作られるようになります。一番の特徴は顔が引目鈎鼻(目は一線引いて、鼻はくの字)という平安の特徴を表していています。
 そして“有職雛”というお公家さんの有職故事という言葉がありますが、つまり公家のきちっとした装束を真似て作るお公家さんの姿をそのまま踏襲した物が生まれます。
 衣冠束帯の“束帯雛”や“直衣雛”そして“狩衣雛”という有職故事にのっとったお雛様が流行るようになります。
 最後に現在に繋がる“古今雛”です。これは江戸の原舟月というお人形の世界では有名な方ですが、この人が生み出した物で、顔立ちが人間にそっくりになり特に女性は金糸・色糸を使う豪華な物になるのです。それが明治以降現在までずっと繋がります。
古今雛より古い物はなかなか見つからず、探して出てくる物は精々古今雛です。こう言った形でお雛様がたくさん作られます。

大きく分けますと“江戸雛”“京雛”とよく言われます。
“京雛”の特徴は一対だけを非常に大きく作るという傾向があります、そして雛道具をたくさん並べます。あるいは明治以降では御殿雛という御殿を作ってお雛様を飾る物で、あまり段になりません。
それに対し“江戸雛(関東雛)”は段飾りになり、三人官女や五人囃といった形で人形が増えていきます。そういった大きな特徴がありますが現在は混然としていて、東西を問わずどんどん入り乱れています。

 またお内裏様とお雛様の置き方をどちらに置くか?が問題になりますが、結果としてどちらでも間違いではありません。江戸時代はお内裏様を向かって右側に飾る形しかありませんでしたが、明治以降に逆転したやり方が西洋から入ってきました。
 なぜ江戸時代は置き方が決まっていたのか?と言えば身分制によって決まっているからです。江戸時代は左と右では左の方が位が高かったのです。ですから見る位置では左右が逆転しちゃいますが、座っている位置から言うと左が位が上で男尊女卑の考えが現れていたのでした。ところが明治以降のヨーロッパの結婚の位置などが逆だったので混然としたのです。そして今はどちらでもよくなったのでした。
 お人形の飾り方は、今はインターネットという便利な物がありますのでこちらで調べるといいですよね。

 雛道具は、嫁入りに持って行く婚礼調度の雛型で、一番典型的なのは弥千代の雛道具です。これらを博物館で飾っているのは箪笥や長持ちなどワンセットですが本来ならもっとあります。ですから物凄い数があるのです。
 婚礼調度は江戸時代の終わりがピークですが、物凄く増えています、その典型が大名の婚礼調度です。そのお披露目が雛道具のセットでした、そこに人形が付きますので弥千代の場合は人形が一対であとは全部雛道具ということです。


≪質疑応答≫
(管理人)
雛人形の飾り方はそれぞれの藩によって特徴はあったのですか?
(谷口さん)
藩はあまり関係ないと思います、むしろそれを買われたのが江戸であったか?京都であったか?で違うと思います。
(管理人)
江戸では、武家は平飾りで商家は段飾りと聞いた事があるのですが、彦根藩はどうですか?
(谷口さん)
もともとスペースの問題です。
彦根藩では段飾りは無いと思います、少なくとも井伊家では伝わっていませんね。
(管理人)
最初の方の人形の歴史に関わる事ですが、南川瀬町では女性が妊娠するとお地蔵さんを作り、死産だと畑に埋めて、産まれると奉納する習慣を聞いた事がありますが?
(谷口さん)
それは古くからの歴史です。(死んだ)胎児を竪穴住居の入り口に埋める習慣は結構あるので、その古い歴史が残っていると考えられます。
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『近江みちの国講座』田渕久美子さんの講演

2009年02月25日 | 講演
2008年11月27日、28日に横浜関内ホールで行われた『近江みちのくに講座』
江竜喜之さんの講演の後に、田渕久美子さんの講演も行われました。これは彦根城博物館の野田浩子さんとの対談形式でした。



『大河ドラマ「篤姫」で描いた井伊直弼』
大河ドラマ「篤姫」脚本:田渕 久美子 さん
対談相手・彦根城博物館学芸員:野田 浩子 さん

(野田)
ひこにゃんが活躍する前は「彦根と言えば?」というと国宝の天守閣があったのと、人物で言うと井伊直弼が全国的に有名だったかと思うのですけれども、今回の大河ドラマ『篤姫』で田渕さんは篤姫の敵役的な所はあったとは思うのですけれども井伊直弼を取り上げていただきました。
井伊直弼という人物は、ドラマに描く前はどんな印象を持っておられましたか?
(田渕)
殆どの方が同じ感想をお持ちのように、“国賊”とまでは言いませんが“多くの人々の命を奪った憎むべき男の人”なのであろうと、世間の人は捉えていると思いましたが、やはり私は物を書く人間ですのでそれだけではなく、その奥にあるものをとにかく掴みたいという想いで取り組みました。
(野田)
そうですね。井伊直弼という人物はどうしても沢山の人を殺したという歴史的な名前で言いますと“安政の大獄”という事で、悪い人だという印象が殆どの人のあると思います。
あとは“桜田門外の変”で暗殺されたという事で、“死”や“殺す”という事にイメージを持たれる人物ですね。悪い政治をして殺された人物だと。
ただ日本全国ほとんどそういうイメージですが、日本の中で2ヶ所だけ良いイメージの場所があります、一つは地元彦根ですね、もう一か所は横浜です。横浜掃部山公園には井伊直弼の銅像が建っております。開港・開国が井伊直弼の150年前の条約を結んだ事で横浜の町が開けたと、横浜の方は直弼に良いイメージを持っていただいているかと思います。
ただ全国的に悪いイメージがどうして直弼に植えつけられてしまったのか?というのは、少し歴史的に深いところがあると思います。と言いますのはやはり明治維新に誰が政権を担ったかと考えますと。
(田渕)
薩長ですね。
(野田)
あの人たちが、篤姫は薩摩の出身ですが、薩摩・長州の人たちにとっては井伊直弼は敵なんです、そういう人たちが政権を握って教科書レベルまで「直弼は悪い人だ」という印象を持たせるようになったのだと思います。
鎖国や身分制度で江戸時代全体が暗いイメージを持たれていたかもしれません、ただ今回の大河ドラマで大奥を含めてこれまでとは違う江戸時代のイメージが紹介されたのではないかと思います、その辺りはいかがですか?
(田渕)
あの、そういう意味では色んな事を言われる井伊直弼ですが、演じられる俳優さんにとっては井伊直弼・坂本龍馬・田沼意次とか、あの辺りの決まり役と言うか「この役はやってみたい」という役の一つが井伊直弼だと思います。そういう意味では今回、中村梅雀さんが凄く若作りなさってクッとお演りになって下さいましたが、「本当に演り甲斐がある」と仰っていました。
俳優さんとしては演り甲斐があると言う意味においても、それだけ注目されている人物だと思います。
ただ私は今回は篤姫に関しましても、今は皆さん篤姫を知っていただいていますが、(放送前は)ほとんどの方が篤姫の事もご存じなくて、更に小松帯刀に至ってはもう「誰それ?」と名前が出ても全くお分かりにならないような人物でした。そういう方に光を当てたいという気持ちが凄くありました。
同じ意味においても井伊直弼もそうですが、様々な立場で「その方たちが何をなそうとしたか?」に光を当てたいと、同じ意味でやりまして、そういう意味では井伊直弼という人物も私にとってやり甲斐がある人物と言いましょうか、見直し甲斐が最もある人物でしたね。
(野田)
私が観ていましても江戸時代を専門にしている者としましては、例えば大奥の女性たちも色んな立場の方が居られますが、そんな一つの社会と言いますか、今で言うならキャリアウーマンがいっぱいの社会、女性の職場としての大奥という見方もできるのかな?と思ったのです。
(田渕)
そうですね。「女のドロドロした社会」と言われてきた大奥だと思うのですが、そうじゃなくて女の人たちも生き甲斐を持って働いていたんだ。仕事をちゃんとしていたんだ。と表現したくて、本寿院様だけはちょっと別ですけど(笑)本寿院様は出てくるだけで笑っちゃいますけど、あの方は別としても、稲森いずみさんがお演りになっている役どころもそうですし、本当に皆んながそれぞれの役をこなしていっているという描き方をしていますし、また凄く美しいですよね着物からセットから…
あれで予算が取られるんですよ(会場爆笑)
本当に今回は馬も出てこないし、馬のシーンなんか書くとお金が掛るのですぐにカットされるんです。“早馬が駆ける”と書くと「ここカットです」と言われて「馬が出ると予算が掛る」と言われるんです。でも今回は大奥のセットが素晴らしいのであれでほとんどの予算は取られています。
(野田)
江戸時代のああいう所も最近研究が進んできまして、この大河ドラマに合わせまして展覧会が開催されましたが、ああいう中でも新しい資料を参考に“江戸城はこういう暮らしであった”とあるいは“将軍家定公はこんな方であったんですよ”という新しい歴史の見方を紹介された事もあったと思います。
私が気になるのは将軍家定公なんですけれども、その辺りのお話をお願いします。
(田渕)
家定は堺雅人さん。私は今回の大河で「この方はこの役に」とお願いした中のTOPでとにかく「堺雅人、堺雅人、堺雅人」と叫び続けたくらい堺さんを家定に推したかったんです。
と言いますのは篤姫の時代というのは“唯唯諾諾と親に言われれば教えに従い、想いを背負って嫁に行き、自分の故郷が攻めて来ようが最後まで徳川を守る”というのは、ちょっと前の方ならば「それはそうよね」と仰ると思うのですが、今の若い人は「帰りゃいいじゃない薩摩に」と皆さん絶対思うに決まっているな。と思ったんですね。それでは若い人たちが日本を創った人たちのドラマに触れる機会が無いと思いまして、とにかく若い女性にでも分るドラマ、その為には篤姫が最後まで徳川家を守り抜くと決心する為の何かが必要だという事で、それには夫との愛情関係だと思ったのです。
それで“うつけ(ちょっとバカな殿様)と言われた方ですが、それはあくまでも表の顔で、実は裏は違ったんだ、非常に物を見通す眼があり見通せたからこそ演じていた。それを篤姫に見抜かれてしまい、そしてその愛情が高まって高まって高まった頃に亡くなっていく、そして「家族なんだ」と言われた事を心の糧にして大奥の皆んなを纏めていくという覚悟をする”という話にすれば若い人も「そうなんだ」と思ってくれると思ったんですね。
それには表の顔と裏の顔をちゃんと演じ分ける魅力的な家定という人が必要で、私にとっては目が決め手だったのですが、良いですよねあの目でグッとやられるとヒョロっとなっちゃいそうな、あの目がとても良くて、とにかくそういう思いがありまして家定公を堺さんと決めました。
でも井伊直弼も実は(家定は)うつけでは無いという事を残してらっしゃるんですよね?
(野田)
そうなんです、実はですね彦根城博物館には井伊直弼の書いた書状などを保管していて、私たちはそれを紹介しているお仕事をさせていただいているのですが、井伊直弼あるいは側近が書いた将軍家定公に関する記録があります、その中に“将軍家定はお菓子を作るのが好きだった”と実際書いてあり、カステラや饅頭を作ったというのが書いていました。そういうのが反映されてドラマでということですね。
(田渕)
いただきました。
(野田)
あるいは大老になってすぐなのですが、家定と直弼が二人だけで話をする機会があった時に、「将軍は今までうつけと聞いていたがそんな事はない、賢明な判断ができる立派な方なんだ」という風に直弼は直接会って感想を書いています。
ですので家定がうつけというのは、反直弼方の後継ぎに一橋慶喜を推した人たちが流した陰謀ではないかと私たちは思っています。「バカだから賢い人を次の将軍に」というような図式があって本人が知らない間に周りの人たちの所で“バカな家定”という像が出来上がっていたのではないか、しかし直弼は直接会ってそうじゃないんだと自分の感覚で、主君として立派な方だと考えたのではないかと思います。
あの辺りの政治的なやり取りを描かれるのは、かなり大変だったのではないでしょうか?篤姫も後継ぎ問題にかなり巻き込まれていますから。
(田渕)
はい、観ている方が混乱しないかどうかかなり気にしながら、でも「篤姫の性格描写にはこれは使えるな」と思いまして、家茂を推す家定。でも自分は父親には一橋慶喜だと言われてきている。この間に挟まった彼女の苦しみというのを、彼女の性格描写に凄く使わさせていただいたので、私としてはドラマにし易い枷でした。
(野田)
家定が後継ぎを家茂に選んだというのは確実に史実としてあります。と言いますのは家定はうつけと言われていて判断力が無かったと言われてきましたが、そうではなくやはり直弼の資料の中に、まず直弼が大老になる事を選んだのも家定なんですね。
それは歴史的なややこしい話になりますが、老中の堀田が朝廷に条約調印を求めますがダメだった、帰って来た時に将軍に「ダメでしたごめんなさい」と言った時、自分は失敗して次はどうするか?という話になり、堀田は家定に「自分は身を引いて一旦(一橋派の)福井藩主松平春嶽に大老をさせたらどうか?」と言います、すると家定は「そんな事は出来ない。大老は井伊家が就任するのが定法なので大老にするなら井伊直弼しかないんだ」とはっきりと答えたので直弼が大老になったと直弼側の記録に書かれています。
それを知らない第三者が外から見ていますといつの間にか直弼が大老に決まったという言い方をされますが、ちゃんと将軍自身の判断で決まったんだという所がありますね。
井伊家は“譜代大名筆頭”という言われ方をしますが保守の本流なのです、今で言うなら官僚と与党です。それに対して一橋派、薩摩もそうですが野党というか野党ですらないのです。本当は政治的な発言をできる立場ではなかったのです、それが幕末の中で発言力を増してきて、その一つのきっかけとして「将軍の後継ぎを自分の派閥の人にすれば発言権が増すのではないか」との中で将軍の後継ぎ争いが出てきた訳です。ですから将軍自身も二百数十年守ってきた方針を変える筈が無いんです、家康以来の考え方で幕府の方針を考えていくと次の将軍は紀州の慶福しかないのですが、その辺りが薩長の歴史観になると誤魔化されてしまってるというような所があったかもしれないですね。
(田渕)
野田さんのお話を聞いていると、本当に井伊直弼という人物はこれくらいしないといけないほどに地に落ちている方なんですね。
(野田)
一番大事な所が誤魔化されてきたと思っています(会場爆笑)
薩長の歴史観に日本国民が騙されてきていたのだと思いますね。
(田渕)
そうですか、聴き入ってしまいましたが。
(野田)
直弼をドラマの中でどの様に描かれたのかという事をお聞かせ下さい。
(田渕)
私は井伊直弼と篤姫の心が繋がる時、つまり篤姫という人物が様々体験を経て人間的に多面的で幅のある人物にしていきたいと思っていましたので、そういう事の表現の一つとして、井伊直弼という人物が自分のしている事を“役割”としてそれだけの覚悟を持ってなしたのであるという事を、彼女がちゃんと理解しているというのを表現したいと思っていました。それにはやはり最も敵方を目される人物との交流が一番人の心を打つであろうと思ったのです。
ですから井伊直弼という方は私にとっては見せ場の一つで、彼女が井伊直弼という人にさえも自分の幅を見せ交流ができるという、一番の極めつけのシーンだと、長い50話の全体の中でも篤姫と井伊直弼のシーンは私の凄く好きなシーンでもありますし特別なシーンだと思っています。
そこで出ていただく為にも、そこまでは嫌な井伊さんで居ていただくことがドラマの作り方としては一番盛り上がりますので嫌な「本当嫌!もう嫌い!!」と皆さんの声が聞こえ来るような井伊直弼を中村梅雀さんが演じて下さっているのが、福々しい顔だったのがちょっとアレですが、でもそういう意味では見せ場を作れたありがたい方ですし、私は実際そうだったと思うんですね。なかなかあれだけの事を人はできないと私は思います。
この間ドラマの中で「上に立つ人間の孤独」というのをセリフで書いたのですが、それだけの事を思いつきはしても成し遂げられる人がどれだけいるだろうか?との観点に立ってもやはり特別な人だったのではないか?と思いますね。
(野田)
そうですね、直弼の考えを資料を読む中で思う事は「大老(井伊家という家)は、将軍の決断を補佐するものだ」と思っているようです。本来将軍が国のTOPですので大きな決断をしないといけない。徳川家康や初期の将軍はしていましたがその後はそんなに大きな決断をする機会も無かったと言いう所があります。ですが幕末になり条約を結ぶかどうか以来いろんな決断を将軍がしないといけなくなりますが、TOPが決断をするには周りのブレーンがいろんなアドバイスといいますか情報を仕入れて、どの決断が良いかを考え補佐をする。それが直弼の大老としての役割だったのではないかと思うのです、直弼はあくまでも「将軍家の為に」というのが考えの根本にあったと思います。
(田渕)
ドラマが分かり易かったですよね。井伊直弼という方があの時代に居て下さり、ああいう決断をし、あくまでも徳川将軍家を。というような言い方をして生きた姿というのは、反対派の人たちを浮き彫りにし易かったですし、ドラマを作る人間の立場から言わせていただくとありがたい方でしたね。
中村梅雀さんは最後、本当に倖せそうな顔をなさって殺されていらっしゃいました(笑)駕籠に乗られて。
私は滅多に現場に行かないのですが、どうしても桜田門外の変のシーンだけは観たかったので出掛けて行きましたら全部セットって室内で撮ってるんですね。上手い監督なんですけど。見事だったし、あの撮影が終わった後の梅雀さんの倖せそうなお顔といったら無かったです。あの瞬間私は「これで井伊直弼さんも浮かばれたのではないだろうか?」と思った程でした(会場爆笑)
(野田)
今回の大河ドラマでの井伊直弼像というのは今までとかなり皆さんの印象が変わったのではないか。と彦根市民の中でも喜んでいる声を聞きました。
(田渕)
私、彦根に行くと良い事ありますかね?
(野田)
そうですね、是非とも彦根にお越しください。
(田渕)
伺いたいです、本当に。
(野田)
やはりあのお茶のシーンは印象的だったと伺います。直弼という人物は大老としての政治家という面を持っていますが、文化人としても知られておりましてお茶ですね。若い頃から文武諸芸はしているのですが最終的に行きついたのはお茶でした。武家の茶道の石州流という流派ですが自分で勉強もいたしまして古典・千利休の本なども読み一つの流派をかため最終的に『茶湯一会集』という本に纏めます。そこの最初に書いてある事が“一期一会”という言葉です。この言葉も色んなところで聴きますが井伊直弼が言い始めた言葉なのですね。「茶会というものはこの茶会も一生に一回だけのものなんだ、ですから今の茶会も心を込めておもてなしをしよう」という意味を込めておるのが一期一会というものですね。
お茶のシーンは、梅雀さんは自分で点てられたんですよね?
(田渕)
そう思います、やはり素晴らしいですあの方は。
(野田)
お茶室で二人向かい合うだけでも心が通じ合ったかと思います。
(田渕)
梅雀さんも素晴らしいですが、それを向こうに回しているあおいちゃんという女優さんは凄い娘ですよね。本当に感心します。あの若さでよくもまぁと…

(ここで大河ドラマ『篤姫』のOPが会場に流される)

(田渕)
このタイトルバックも新しいですよね、今までの大河とはちょっと違う。
宮崎さんは撮影が終わってもいつまでも篤姫が抜けないらしくて、「自分を嫌いになりそうだ」と仰ってました。「篤姫に戻りたい」と仰ってましたね。
瑛太さんもいいですね、衣装を脱ぐと全然別の人になっちゃうんです。
私の一押し役は慶喜役の平岳太さんです、平幹二郎さんと佐久間良子さんの息子さんですけど、あの方は現代ものでも素晴らしいと思います、凄く良い若者です。

(大河ドラマ『篤姫』第27話。家定が世継ぎを慶福に決めたことを篤姫に告げるシーン)
(大河ドラマ『篤姫』第32話。篤姫と直弼の茶席のシーン)

(野田)
ここに井伊直弼の心がそのまま凝縮されていたように思います、敵役というのではなく描いていただけるとしたらどういう風なイメージになりますか?
(田渕)
えっ!?(会場に笑)
敵役でないとしたら…
それは『井伊直弼』というドラマを作らないと、今は何とも申せませんが、良いシーンでしたね「誰が書いたんだ」と思いました私も(笑)
(田渕・野田)
ありがとうございました。
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『近江みちの国講座』江龍喜之さんの講演

2009年02月19日 | 講演
2008年11月27日、28日に横浜関内ホールで行われた『近江みちのくに講座』
その中で元長浜城歴史博物館館長の江竜喜之さんが講演をされましたのでその内容をご紹介します。


『道の国近江―近江路を歩いた人々―』
元長浜城歴史博物館館長:江竜 喜之 さん

今回のテーマは『旅日記に見る 近江路を歩いた人々』という本を2008年5月に発行させていただきましたそれが元で、主催者の方からもこのテーマでと仰っていただいた訳です。
ところが県外の方にこういうお話をする場合に、色んな方々が近江路を何を歩き、何を見たかを申し上げるよりは、その前に近江(滋賀県)の歴史を話した方がいいのではないかと思い、それが膨らみ今日の話もそれが中心になると思います。
また、近江路を歩いた人々にどれだけ時間が取れるか分かりませんが場合によっては本をご覧下さい。

最初に近江国の特色として、明治以前、北海道を省くと近江は日本列島の中心に位置していて長い間都のあった京都に近いということが近江の歴史を形作る上で大きな役割を果たしています。
奈良時代、近江の長官であった藤原武智麻呂は、宇宙の明知だと呼んでいます、しかもその近江の中心に琵琶湖があるという事です。今は琵琶湖は陸上交通を妨げているという見方が多いですが、当時は水上交通が重要でしたので近江を一つに結びつける役割を果たしていたのです。と同時に京・大坂と北陸・東海を結びつける運河の役割も果たしていたのです。琵琶湖があった事も大きな役割を果たしていると私は思います。
皆さん“琵琶湖”なんて名前はどうして出来たのだと思いますか?私も分からないのですが「そりゃ、琵琶の形に似てるから、琵琶湖や」と思ってしまうのですが、ある本によるとこの名前が現れたのは14世紀頃だと言われています。
「14世紀に正確な地図なんかないだろうし、琵琶の形をしていたなんてそう簡単に言えないだろう」と未だに思っているのですが、その本によりますと「琵琶湖の中心にあるのが竹生島でここには弁財天を祀っていますこの弁財天が持っているのが琵琶で、それに似ているから琵琶湖という名前が付いた」と書かれていますが、どこまで本当にそうなんだろうか?疑問に思っています。
ただ17世紀の初め、オランダ商館付きのケンペルという人がオランダ商館と共に長崎から江戸まで旅をして、その記録によると「この湖には固有名詞が無く、ただ“大津の湖”と呼んでいる」と書かれています。ですから少なくとも17世紀の初め(1636年)にケンペルが近江を通過した頃には“琵琶湖”という名前は一般化してなかったのではなかろうか?と思います。

17世紀の末になりまして貝原益軒という有名な学者が旅が好きでたくさんの紀行文を書いていて、その中に「湖の形はよく琵琶に似ているので琵琶湖だ」とこのように書かれています。それで17世紀の末にはそういう意味で一般化してきたのではないか?と思います。

19世紀初め頃にオランダ商館付きの医者であるシーボルトが商館長と一緒に旅をしていて、琵琶湖の景色を見て「非常に綺麗だ」と言っています、その文章によりますと「近江の湖はこれを“琵琶湖”と呼ばれている」とはっきり琵琶湖と書かれています。ですから19世紀の初めには琵琶湖が一般化しているようですが14世紀に本当に琵琶湖という名前があったかどうかは疑問です。

“近江”の語源についても少しお話をしますと、これも琵琶湖に関わります。
京都のお公家さんが旅をする時に、まず近くに目にするのが琵琶湖で、ずっと行くと遠江の浜名湖です。「近くの湖=近つ淡海」の“近つ”が取れ“淡海(あわうみ)”が近江になったのではないかと言われています。
“近江”とかいて“おうみ”とはなかなか読めませんが、私は近江という言葉は好きでありまして。これは余談ですが明治になって廃藩置県となった時、昔の国の名前は付けていませんが今でも国の名前は大切にされておりまして滋賀県では近江という言葉がよく使われます。滋賀県の肉は旨いですが、これは“近江牛”で“滋賀牛”ではありません、米も旨いんですが“近江米”です“滋賀米”とはあまり言いません。
こん事を考えていたら、平成16年1月1日、長野の田中知事が「長野は信州の北の方だけだから良くない、“信州県”にしたい」と仰っておられました、これを見て「滋賀県も近江にならんかな」と思ったものですが、県の名前を変えるのはそう簡単にいくものではなく田中知事の提案は検討も充分されずに終わっています。

次に近江の歴史を考えると、西日本と東日本の接点になると言う事です。
ちょうど近江で東日本と西日本が分かれています。“関西”という言葉がありますが、これは「関所より西だ」という事です。近江の周りには“愛発の関(あらちのせき・越前)”“不破の関(ふわのせき・美濃)”“鈴鹿の関(すずかのせき・伊勢)”という奈良時代の関所がありました。近江というのはこれよりも西にありますから関西です。ところが平安時代になって愛発の関に代わって“逢坂の関(おおさかのせき・山城)”が出来ます。これが出来ますと近江は関所よりも東になり関東という事になります。
関所よりも東・西で関東・関西を分ける事はこの先もいたしておりますが、ここ(会場)を関内といいますね?
これをなぜかと思い聞いてみましたら、ここは外国人の居留地でそこから外に出るには関所があって、関所の中だから“関内”という答えで、なるほどと思いました。
このように近江は平安時代は関東でしたが、鎌倉時代になると鎌倉幕府は西日本38ヶ国を“西国”と制定したのですが、その時には近江は東国になっています。
江戸時代になると箱根の関よりも東が東国となり、厳密には江戸時代も近江は東国扱いを受けている事が多いのですが、しかしある時は西国に入りある時は東国に入る位置づけにあったのです。
このように近江は東日本と西日本の境目にあり、日本の中心にあったと言えます。

次に古代の行政区画ですが、古代は「五畿七道」と言われています。五畿は“山城・大和摂津・河内・和泉”今の奈良県と京都府と大阪府です。それ以外を幹線道路に沿って分けてこれを“七道”といいます。
近江の国は東山道に属します、これは一番西が近江で、一番東北が陸奥です。滋賀県と青森県が同じ行政区画にあったと言えるのです。しかし地理的にも歴史も全然違っています。
そして畿内を“近畿”と言います。今は近畿地方に近江も属していますが、これは畿内とその近くという事で近江が近畿に属している訳です。
このようにして近畿地方であり東山道に属していたという訳です。
陸奥国と同じ行政区画にありながら経済はどうなっていたかと言うと、『延喜式』では国をランクつけしまして、「大・上・中・下」に分けていますが、近江は「大国」でありました。
近江は有数の穀倉地帯で、戦国時代に全国で1800万石あったと言われていますが、近江は77万石くらいです。隣に岐阜県その隣に愛知県があり大きな濃尾平野が広がっていますが、その広大な美濃・尾張の当時の取れ高は50万石余りです。広い平野よりも真中に琵琶湖がある方が多く収穫できるのは、戦国時代までは大きな川を制御する能力が人間には無く、大きな川の流域はなかなか水田化しなかったのだろうと推測されます。その点、近江には中小河川しかありませんので開発が進んだのではないかと私は思っています。

交通上から見た近江ですが、東西を結ぶ幹線、北陸を結ぶ幹線道路が近江を通っています。
まさに幹線道路・鉄道は現在でも全て滋賀県を通っています。それで「近江は道の国だ」となり、今日の演題も“みちの国”になっていますが、これは戦後に生まれた言葉です。
古代においては七道の内で「北陸道・東海道・東山道」の三つの幹線道路が通っています。ところが古代のこの様な幹線道路は中世になると衰えてきまして、もっと便利な道を使う事が多くなります。
しかし近江では東山道(後の中山道)を使っていて、それから美濃・尾張で東海道へ移ってあとは東海道を通るので、“近江東海道”などとも言われます。そういう道が中世に使われています。
近世になりますと、古代からありました琵琶湖の西を通る北陸道が“北国街道(西近江路)”という形、古代の東山道は“中山道”と名前を変えています。
その他に北陸から関ヶ原を通って東海を結ぶ“北国脇往還”が非常によく使われました、北国脇往還も明治に付いた名前で、実際は参勤交代にも使われていたので決して脇道ではありません。私は「これは間違いだ」と盛んに言っています。ここは戦国時代でも関ヶ原の合戦・姉川の合戦・賤ヶ岳の合戦はすべてこの北陸脇往還沿線で行われていて、これは近江戦国の道だと主張しています。決して脇道ではなく北国街道よりも利用者は多かったくらいです。
さらに面白い名前では“朝鮮人街道”があります。これは朝鮮通信使が通ったのでこの名前が付いたのですが、徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利を得て初めて上洛する時にこの道を通ったので、幕府にとって縁起の良い道でした。
その後、国交回復した朝鮮から正式な使節が来るようになりこの道を通らしこの名前が付きました。
もう一つ“御代参街道”はお伊勢参りをした人が近江にある多賀大社へ、特に京都の公家が自分が行かずに代参をたて、東海道の土山宿から北上して中山道を入って多賀大社に参るので代参街道と呼ばれました。
この様に、通る人や物によって街道の名前が付くと言うのは全国的にもそう多くはないのではないかと勝手に思っています。もう一つ琵琶湖に西に“若狭街道”があります、最近では“鯖街道”として重要な観光資源になっています。鯖寿司の美味しい店もこの沿線にありますが、これも戦後できた名前でありまして古くからは言われておりません。
ただ若狭小浜で捕れた鯖に塩をかけて一昼夜かけて京に運ぶと新鮮な鯖がちょうど良い塩加減で京の人の口に入るのでこういう名前ができ観光資源になりました。

要は、日本列島の中心にあって多くの重要な道が通っていた、今も通っている「みちの国」であると言え、その為に古くから文化が発展したとも言え文化上の特色も挙げればキリがないのですが、端的な特色として人口10万人辺りの寺院の数という統計が出ておりますが10万人に対し270程のお寺があって全国一です。
最近は滋賀県の人口が増えて率が低くなり福井県の方が多くなりましたが、いずれにしてもお寺が多くそれだけ仏教文化が栄えました。それだけ仏教文化が栄えた事を表すように文化財も多いです。
平成20年の国宝も含めた重要文化財の都道府県別統計によりますと、滋賀県は東京・京都・奈良に次いで4番目です。京都や奈良に多いのは分かります、東京は明治以降に多くなりました。滋賀県はかつては京都・奈良に次いで多かったのです。
東京とのデータで比較すると、移動し易い絵画などは東京に多く移動しにくい彫刻や建造物は滋賀県の方が多いです。文化財が豊富だと言う事は交通が便利で、文化が発達し、そして文化財がたくさん残されたという事が言えるのではないかと思います。


以上簡単に近江の歴史をご説明しましたが、近江の歴史を紐解くキーワードは3つあると言われています。
ひとつは“道”、ひとつは“湖”もうひとつは“お寺・仏教”
今回は『近江みちの国講座』ですので、道について取り上げていきたいと思います。

「近江を制する者は天下を制す」とよく言われます。
特にこれは瀬田の唐橋を取った方が勝ちだと言う事で、歴史上確かにそういう事件は多く起こっています、壬申の乱・藤原仲麻呂の乱・承久の変・本能寺の変の時もそうでした。また武田信玄は上洛中に病気になって亡くなりますが、その遺言が「何とかして瀬田の唐橋に風林火山の旗を立てろ」と言って亡くなったといわれています。
このように、瀬田の唐橋の取り合いが天下を決めたという歴史はたくさんあります。
戦国時代、京都を抑えるにはまず近江を抑えないといけない、織田信長も豊臣秀吉も東海地方の出身で、「京都を抑えるためには近江を抑える」といつも頭にある訳です。そこで信長は可愛い妹を近江の浅井長政の嫁にするという事を行った訳です。このように近江は天下統一をする為にまず手に入れる必要があると織田信長は固く信じていたようですね。
ところがそう言いますと「だったら近江から戦国の覇者が出ても良いんじゃない?」と言われる訳ですが、実際出ていません。これはいろんな事が考えられますが、ひとつはやはり寺院の勢力が強いのです。戦国大名が大きな力を持つ事ができませんでした。
もうひとつは早くからの文化の発展で庶民の力も強かったのです。浅井長政が戦国大名として頑張ろうとしても武田信玄のようにはいかなかったのです。それほど庶民の力が強くこれを仲間に入れないことには、力を発揮しようとしても庶民と僧によって有力な戦国大名が出なかったのではなかろうかと思う次第です。

近江は大きな力を発揮してきましたが、明治以降はそれほど大きな力は発揮しておりません。それは江戸時代の反動だろうと思います。
井伊直弼に反対していた薩長が明治政府を作ります、ですから明治政府からは滋賀県は非常に冷遇されます。
例えば近江では「いくら能力があっても高級官僚にはなるな」もしくは「軍人にはなるな」「御用商人になろうと思ってもなれない」とよく言います。
ですから「いくら頑張っても出世できないので経済で活躍するのだ!」と近江商人の流れが活躍する事になろうかと思います。

近江商人は、何も近江の商人というのではなく、“近江から余所に出て商売をしている商人”です。全国各地で商業活動をしている近江出身の商人を近江商人という訳ですが、すぐに天秤棒を連想されると思います。
天秤棒一本で行商を行って大きな財を作ったのが近江商人のひとつの形だと言われていますが、私は天秤棒一本であんな巨万の富を蓄えられる筈がないとかねがね思っていました。
よく注意して見ると、天秤棒に商品見本か見回り品かお金を乗せているくらいで、イザトなれば多くの商品を馬や千石船を用意して集中的に上方から運ぶことをやっていて、天秤棒は象徴的な物でした。
その商法の特色は現在の商社のようなものでした。
日本列島は広く、経済の発達も違います。それで、産物回し“有る所の品物を無い所に運ぶ、更にそこに有る物をまた運ぶ”こうして利益を得るという大きな産物回しをして利益を上げたと言われています。更によく言われるのは“三方よし”である。
三方よしとは、商売をする上ではまず売り手が儲ける“売り手よし”買い手も喜ぶ“買い手よし”でもそれだけではなく世間が喜ぶような社会貢献をしないと商売は長続きしないという“世間よし”これがないと信用も得られないのです。ですから「世間よしの観点が近江商人にはあったから学ぶべきことが多いのだ」と私は盛んに言っていました。
藤野四郎兵衛という近江商人がいます。天保の大飢饉で皆んなが困っている時に立派な屋敷と広い庭を造りました。それを知った彦根藩主は四郎兵衛を強く叱りますが、実はそうではなくこれによって人を雇うという雇用の創出をやり逆に彦根藩主から褒められました。
現在は不景気ですから近江商人に学ぶべきところはあるのではないでしょうか?特に定額給付金でも貰えばこれはどんどんと使わないといけないですね、特に豊かな人が使わないといけないです。
お助け普請なんて物が行われたのも、世間よしの近江商人の特色でもあります。にもかかわらず「近江泥棒、伊勢乞食」という言葉があります。『広辞苑』で調べますと、“近江泥棒”は「近江商人が江戸に入って勤勉に働いて、多くの富を蓄えたのを、江戸っ子がやっかみ半分に言った言葉」と書いてあります。私は江戸の人がやっかみ半分だけではなく、近江商人の中にも悪徳商人が居て、天井の無い蚊帳を売り歩いたという話もあります。しかし大多数の近江商人は真面目に働いて信用を得て富を増やしたのです。
でも、あまり儲け過ぎるとこれは妬みを買ったりすることもあったでしょう、そして江戸時代は農業中心の自給自足の経済ですが近江商人はこれを真っ向から反対する事をしている訳です。
古着を仕入れて東北へ持って行ってこれを売る、東北では紅花を買って上方でこれを売るというのこぎり商法だったりした訳ですが、当時品物を売るのは掛け売りで年に2回くらい集金するのが多かったので、珍しい商品を農村へ持って行って売り、半年後くらいに近江商人がなけなしの金を持って行く、という事があったのではないかと思います。
気が付いたら近江泥棒と思われたのかもしれません、悪いことではなく正当な商売をしていたのですが、自給自足の経済を壊し普及経済を築いたという面では、近江商人は大きな役割を果たしたと同時に被害を受けた人もいたのでしょう。
ですが、新しい経済体制を作るために近江商人は大きな役割を果たし、また全国各地に支店を出して広げるためには地元の人の応援がなければできない事ですが、悪い言葉が残っている事も事実です。


最後に近江路を歩いた人々ですが、私は様々な旅日記を調べて、その人が近江でどんな物を見て何を感じたのかをいろいろ調べています。
例えば佐藤長右衛門という出羽国の人は200日余りで東北から長崎までの大旅行をしています。江戸時代に今で言えば世界一周旅行のような事をしている農民がいました。
私にとっては驚きでした。しかも近江で琵琶湖を見て「夢想の景だ」と言っています。やはり近江以外から来た人にとって琵琶湖は綺麗なんです。ですからぜひ琵琶湖に来ていただきたいと思います。
旅日記には琵琶湖を称えている記録はたくさんあります。朝鮮通信使には「琵琶湖は中国の洞庭湖と変わらないくらい綺麗だ」と称賛しています。旅人が近江で見たもので一番の中心はやはり琵琶湖です。
信州の農民が偶々近江で最新の脱穀機を見つけます、これは千歯扱です。これをわざわざ日記に書いて絵も残しています、これを村に持って帰って普及させたのでしょう。
旅日記を見ていますと面白い点がたくさんあります。
では、私の話はこれで終わります。
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2月15日、堺事件と切腹の作法について

2009年02月15日 | 何の日?
慶応4年(1868)2月15日、堺で土佐藩士がフランス水兵に斬りかかりフランス側に即死2名・溺死7名・負傷7名の犠牲が出るという事件が起こりました。
歴史上“堺事件”と呼ばれる騒動ですが彦根とは全く関係がありません。しかし、井伊直弼が「開国」という決断を行った後に日本が世界の中で生きる為にこういう結果をも生んだという意味で、『井伊直弼と開国150年祭』開催中の今だからこそ取り上げられる話の一つとしてご紹介します。

実は開国後には、これくらいの事件は日常茶飯事に起こっていた事なのですが、この後の経過が「日本人=ハラキリ」という図式を海外の人に示すことになります。
その紹介のついでに、日本史の中で度々行われる切腹について書いていこうと思います。


まずは堺事件の経過ですが・・・
翌日にフランス側から被害者の引渡しと、犯人の死刑要求が出されます。
当時は明治新政府が鳥羽伏見の戦いで勝利を収めてから1ヶ月しか経過しておらず、諸外国を怒らせる事を恐れた政府はこの要求をのむ事にしたのです。
実行犯は25名でしたがその内20名がくじ引きで選ばれ(おいおい・・・)士分の名誉を重んじてフランス人立会いの元で切腹する事となりました。

2月23日、堺・妙国寺で切腹が行われます。
まず1人目が「自分が死ぬのはおまえらのためではない、皇国のためである。日本男子の切腹を見よ」と叫び十文字に腹を切って内臓を引き出してフランス人に投げつけたのです。
その後も次々に行なわれるハラキリと、それを冷静に見つめる他の日本人に恐怖を覚えたフランス人の立会人は11人の切腹が終わった時点で席を退出してしまったのでした。
一人一人が黙々と腹を切って首が飛ばされるシーンは確かに恐ろしいものかもしれないですね。
こうして、切腹は海外でも「ハラキリ」として知られている日本の習慣(?)となります、腹を切る事に比べるともっと凄惨で壮絶な自殺方法は海外でも沢山あるのに、日本のハラキリだけが自殺の中でも特に有名な行為になったのはこの為なんです。



では、ここからが本題


○切腹は何故腹を切るのでしょうか?

死に易いからという事は絶対ありません。
例えば『壬生義士伝』の影響で新撰組隊士として急に有名になった吉村貫一郎は、大坂南部藩蔵屋敷で切腹した時、腹を切っただけでは死ねず目を突き喉も突いてなお苦しんで部屋のかなを七転八倒したと伝えられています(ただしこの話自体がフィクションとも言われてますが)。
江戸中期の高山彦九郎は夜の早い時間(多分6~9時頃)に腹を横一文字に切り、その後医者が来て腸を詰めて腹を縫い直す処置を施した事もあり、翌朝の9時まで生きていました。
その間、話をしたりできて脳の方はしっかり機能していたのですから何とも残酷な話ですよね。


○切腹はなかなか死ぬ事が出来ない方法なのに、なぜよく行われたのでしょうか?

これには幾つかの説があります。
1.腹黒いという言葉に対し、腹を切って見せる事で黒くない事を示す行為。
2.苦痛に耐える事で自己顕示欲を満たせるという思想。
3.腹には人間の霊魂・感情が宿ると信仰されていたから(新渡戸稲造説)
などが一般的に唱えられているのです。
幕末には特に2の要素が志士の間で強くなっていき、立ったまま腹を切る者や、わざと長く苦しむように工夫を凝らす者が増えたくらいでした。
その中で特に有名なのが土佐藩の武市半平太の例で、腹を左から右に3回斬り、それまで誰も出来なかったと言われている横三文字切腹を果たしたのです。
ちなみに普通切腹といわれる行為は横一文字が多い様に思われていますが、本当は十文字に切るのが普通だったのです。この事については後で書きます。


○最初に切腹をした人は誰?

平安時代中期、藤原保輔という有名な盗賊が居ました。
988年、保輔は逮捕されると腹を切って自殺を図りましたがすぐに死ねずに翌日に亡くなったのです、これが記録に残る最初の切腹と言われています。
そして1170年に保元の乱に敗れて伊豆大島に流された源為朝が狩野茂光に攻められた時に武士としての名誉を守るために切腹して果てました。これから切腹は武士の名誉ある死となったのです。
ちなみにそれまでの武士は首を括ったり、火の中に身を投じたり、谷や海に沈んだりするのも自害として行っていた形跡があります。


○切腹の作法

では、江戸時代の切腹の正しいやり方を書いてみましょう。
切腹をしたいと思っている方は参考にして下さい(嘘です)。

食事は朝にご飯1膳と漬物3切れ。この3切れは“身切れ”という意味があり、食事が少ないのは腹を切った後に食べ物が出てきたりしない為の礼儀だと言われています。
(余談ですが今では来客時に茶菓子などを出す時は2切れが常識となっていますが、これは1切れでは少なすぎて、3切れは“身切れ”になり、4切れは4が“死”を連想させて不吉だと言う理由で2切れになっているんです。)

着衣は麻で作った水浅黄色の無紋の着物と裃。
水浅黄色は新選組の隊服の色です。新選組の隊服の色は死装束を常に纏う事で、武士としての覚悟を示した物でした。
真っ白の装束は葬式の衣装でしたが死装束ではなかったのです。

場は白縁の畳2枚をT字に並べ、正面を北か西に向けます。

介錯人は3名、その中の1人が首を打ち後の2人は雑用係です。

切腹刀は九寸五分で柄や鍔を外し、切っ先五寸だけを出して奉書紙で巻いて使います。

切腹場に座ったら末期の水を2口飲み、その後に三方に乗せた切腹刀が介錯人の手で運ばれます。
着物は右肌・左腹の順で脱ぎ、三方から切腹刀を手に取ります。
この時、腹を切った後に体が前に倒れるように三方を尻の下に回す事もありますが、必ずする訳ではありませんでした。

では、いよいよハラキリです。
切腹人は手にした切腹刀を左腹部に突き立て、そのまま右に引きます。
これで終わると横一文字です。
次にみぞおちから心臓に向けて突き、そのまま臍の辺りまで切り下げます。
そして刀を腹から抜いて一気に喉を突き立てるのです。
これが十文字腹(腹十文字ともいいます)です。
先ほど例に挙げた武市半平太の横三文字の時は横一文字の後に、その上に一文字、またその上に一文字と切って行ったと伝えられています。
とにかく、これだけの流れが終った後に介錯人は首を切り落しますが、時代が進むとここまでの作法も無くなり、切腹人が腹に刀を刺すまでに首を切る事が多くなったそうです。
この介錯も上手な人がやらないと何度も斬り付ける事となって切腹人が苦しみます。
戦国時代の事、室町幕府13代将軍・足利義輝は松永久秀の謀反(永禄の大逆)で殺害されました、この時、義輝の側室・小侍従が斬首される事となったのです。
刑場に臨んだ小侍従は黒髪を自分の手で高々と持ち上げて首を差し出しました。
介錯人・中路勘之丞はその姿に躊躇ってしまい、首を斬らずに小侍従の左頬を斬ってしまったのです。
「あなたは武芸の達人を見込まれて、介錯人に選ばれたでしょうに…」
と冷やかに笑った小侍従は
「無様」
と決め付けたと、フロイスの『日本史』に記されています。
小侍従の首はニ太刀目で落ちたのです。
この場合は小侍従の潔さが表に出るエピソードですが、介錯人が一度失敗をする事で余計な痛みを与えてしまった事は無様と言われても仕方ないのです。
ちなみに三島由紀夫が切腹した時も介錯人が失敗して何度も首の辺りを斬っています。


どうですか、参考になりましたか?
今は介錯人を見つけるのが難しいので切腹では簡単に死ねませんがね。
女性の場合は着物の裾が乱れないように紐で足を縛って、心臓に刀を突き立てて下さい。
死後の美しさも要求されるので首は落せません(小侍従は斬首でしたので切腹とは別扱いです)。
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2月11日、井伊直孝誕生

2009年02月11日 | 何の日?
天正18年2月11日、井伊直孝が誕生しました。
つまり建国記念の日が井伊直孝の誕生日です。

井伊直政の次男
母は印具徳右衛門の娘

井伊直政が上野国(群馬県)箕輪城12万石の城主だった時、同じ年に2人の男児が誕生しました。
長男が、万千代(直継)
次男が、弁之助(直孝)と命名されました。

同じ年に生まれたこの兄弟の母親は別の人物で、万千代の母は正室・松平氏でしたが、弁之助の母・印具氏は、万千代の母の侍女だったのです。
怒った松平氏は印具氏と弁之助を城から追い出してしまったのです。

ちなみに直孝の産湯を汲んだ井戸が静岡県焼津市中里の若宮八幡宮に残っていますので、もしかしたら印具氏が追い出されたのは弁之助が生まれる前だったのかも知れません。

そんな風に、城から追い出された弁之助でしたが、6歳の時に母・印具氏に連れられて直政と親子の対面を果たし、その保護を受けるようになりましたがまだ城に入る事ができなかったのです。

11歳の時に弁之助の有能さを惜しみ手元で育てたいと望んだ直政は、迎え入れるのを拒む松平氏に対して「弁之助に母が居なくなれば我が手で育てねばなるまい」と言い、印具氏に刺客を向けて殺してしまったのです。
こうして母を失った弁之助は父・井伊直政の息子として迎えられたのでした。
この時、直政は近江国佐和山18万石の城主となっていましたが、翌年に亡くなってしまうのです。

しばらくして、徳川家康に拝謁、家康の後継・秀忠に仕え井伊家の別家として所領を得ました。
そして15歳で兄・万千代と共に元服し、直孝と名乗ったのです。

慶長19年(1614)に大坂冬の陣で初陣を飾りますが、この時に病弱な兄に代わって井伊家家臣を率いて出陣しました。
この戦いでは真田幸村の真田丸に攻撃を仕掛けて大敗を喫しますが、その勇猛振りを家康に評価されたのでした。
冬の陣和睦後、家康から井伊家宗家の家督を兄・直継から直孝に譲るようにとの命が下ります。

こうして直孝は彦根藩井伊家を相続したのです。
石高は15万石。3万石を直継に譲ったのでした。この時から井伊家は2家に分かれたのでした。


直孝が藩主になるまでを簡単に書きましたが、管理人は常々疑問に思っている事があります。
井伊直孝と兄の直継は同い年の兄弟だったと言われていますが、直孝が2月11日生まれなら、直継はそれより前と言う事になり1ヵ月くらいしかありません。

二人の父である直政は天正17年の頃小田原の陣の前で少し手隙の時期だったとはいうものの、怖い奥さんとその目を忍んでその侍女にまでを懐妊させる事が出来たのでしょうか…?
もしかしたら、直孝の方が兄で直継が後に生まれたのに、直孝が余所で生まれた侍女の子だったので敢えて次男と言う事になったのではないでしょうか?

あくまで予測の域を出ませんが、もしかしたら?と考えると面白そうです。
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福井県が再誕生

2009年02月07日 | 何の日?
明治14年(1881)2月7日、福井県が現在の形で再誕生しました。
「何で彦根で福井の話やねん!」と思われるでしょうが、最後までお付き合いくださいませ。


近畿地方から北陸地方に入る最初の県である福井県は、日本海に面する穏やかな土地ですが、木ノ芽峠を境に“嶺南”“嶺北”に分かれ、文化圏も“嶺南”は近畿、“嶺北”は北陸となっています。

明時代初期の廃藩置県以前は、嶺南は若狭国・嶺北は越前国と分かれていましたが廃藩置県後にいくつかの統合を繰り返し、敦賀県と足羽県(福井県)の2県に落ち着いた後に明治6年(1873)には現在の県と同じ地域が“福井県”として確定したのです。

しかしその3年後に福井県はまた嶺南と嶺北に分かれ、嶺南は滋賀県、嶺北は石川県に組み込まれたのでした。

山を隔てた若狭地方が滋賀県に組み込まれるのは不思議な感覚がありますが、実は琵琶湖を介して京・近江・若狭は一つの運輸ルートがあり、江戸時代はこの為に今津近くの木津に小浜藩(若狭国)の飛び地があったほどなのです。
ですので湖西北部の方々は若狭と同じ生活圏になっていたのでした。
滋賀県が嶺南と合併したことによって、小浜~今津間の街道は整備が急速に進みそれまで以上に物資の運搬が楽になったのですが、明治14年に石川県に組み込まれていた嶺北で地租改正反対運動が起こったことから石川県と嶺北を切り離さざるを得ず、嶺北だけではあまりにも小さかったので、順調に進んでいた滋賀県と嶺南を切り離して、元の福井県として再び誕生させたのです。
しかし、嶺南と嶺北では文化があまりにも違うために、嶺南では滋賀県に復県する運動が起こり「近江と若狭は歯唇相離るべからずの国」と主張したのでしたが復県には至らないまま現在に至ったのです。


ちなみに若狭と近江の運輸を運河で繋ごうとする壮大な計画が平安時代末期から何度も計画されていました。
最も古い計画は平清盛だったそうです。しかしこれは深坂山の地盤が固すぎて失敗しました、豊臣秀吉も同じ理由で失敗しています。
江戸時代に入っても何度か計画されては地元の運搬業者や農民の反対で頓挫し、ついには若狭から琵琶湖までの間に川を掘りを船を曳いて途中で陸路にする方法も採用されたのです。
安政年間にはより利用し易いように大改修を行う計画が立ちあがりましたが、この計画が遂行されると琵琶湖を管理している彦根藩の湖上での利権が衰退してしまい藩料の港の収益も激減される可能性が高かった事から、藩主・井伊直弼は猛反対します。
直弼の反対にも関わらず幕府よりの許可されますが結局完成を見ずに終ってしまったのです。
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福豆

2009年02月03日 | イベント
2月3日は節分。

元々とは季節が始まる前の日をいい(ですから年に4回ある)、2月の節分の次の日が立春になります。
その歴史は古く、平安時代にはその原型となる邪気払いの儀式があったといわれています。

そして室町時代以降は、節分の日に豆を撒いて、年の数だけ豆を食べると無病息災でいられるという習わしが一般化してきました。
この影響で節分には各地で豆に関する様々なイベントが行われます。

そんな中、彦根城でも節分にちなんで福豆の配布が行われました。
午前9時の予定を少し回った頃、彦根城天守に入口でひこにゃんのハンコが押された小袋に入った福豆が配られまはじめます。
受け取った方は、天守前広場で食べる、持って帰るなど様々でしたが、節分の一行事を体験する瞬間になった筈です。
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大名カルチャー講座『井伊直弼の毎日~大老編~』

2009年02月02日 | 講演
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