御雛様の時期に合わせて彦根城周辺で『城下町の雛と雛道具展』と題した様々な企画が行われています。
その中で、善利組足軽屋敷では江戸時代の建物の中で江戸時代の雛人形が展示されるという催しが3月3日まであるのです。
写真は、井伊直弼が彦根藩主に就任した嘉永3年(1850)に作られた古今雛です。
2009年2月28日、そんな足軽屋敷の中の雛飾りの前で『ひな人形の歴史』と題された講演が行われました。
『ひな人形の歴史』について
彦根市教育委員会文化財課課長:谷口 徹 さん
井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのは3月3日、雛の節句で登城する途中で暗殺されていますので、どこまで本当かはわかりませんが家臣たちの中では雛の節句を控えるようになったとも言われていますが、実際に探してみると江戸時代に遡る雛人形が出てきますので、少なくとも町屋の方ではそういう事はなかったのだろうと思われます。
人形の歴史を最初にお話ししますと、私たち人間が人形を作ったり描いたりするのは長い歴史があります。
人間が人間として地球上に生活するようになってから、おそらく随分早い時期からあったのだろうと考えられます。
猿が人間になったと言われていますが、猿が手を使って森林を移動し、色んな状況に中で森林が無くなり猿が平原に移動すると手の利用法が無くなってしまいます。そこで道具を作り出し二足直立歩行を行い人間の元となります。
二足直立歩行になって四つん這いよりも頭脳の重量が支えられ脳が発達し、二本の手を使って色んな道具を編み出して人間が人間としてどんどん発達しました。
その一番古い時代は旧石器(先土器)時代。つまり古いタイプの石の道具を使っていた時代が随分長く続きます、これは日本の場合で5万年くらい前まで、世界史で言うと300万年くらい前まで人間の痕跡が遡ります。旧石器時代でも、石にもっと硬い石で妊娠した女性を描いたり、あるいは洞窟に絵を描いたりそんな物が日本ではまだ見つかっていないのですが各地で見つかっています。
今から大体1万年くらい前(縄文時代)になりますと日本でも見つかってきます。その典型的なのが“土偶”という土でできた人形です。多いのは妊娠した女性の形をしています、精巧な物はお腹が膨らんでいて中に土の人形をちゃんと入れている物もあります。
妊娠した状態の女性というのは、縄文時代は米作りを知らず自然界にある動物や木の実を食べる「自然が生み出した物でそのまま人間が恩恵を受ける」時だったのです。ですから自然の状態によって人間が食べる物が減る場合もあるのです。そんな自然に頼った生活の中では人間が子どもを産むのも自然に頼った事と同じ意味があったのです。ですから人形を使って「自然の恵みが豊かでありますように」とお祈りをする意味を込めて、女性の妊娠した状態を人形に託しているんです。しかし土偶にはほとんどまともな形が無く壊して埋めているのです。ですからそういう物を意図的に毀し地面に埋める事によって、生まれるという事の何がしかが祈られたと言われています。
弥生時代になると、土の人形もあるのですが木を削って人形が作られます。この頃になると鉄製品が中国や朝鮮から入ってきて今で言う小刀のような木を削る道具も生まれますので、道具に発達から木でできる人形も生まれたのです。滋賀県では大中の湖遺跡で木の人形が埋められていました。やはり木の人形も「生み出す」という事に対するお祈りだっただろうと思われています。今でも大きな男性と女性の人形をお祀りするという習慣が滋賀県にも残っています。
弥生時代の大きな特徴は米作りが始まった事です。それまでは自然に頼っていた物が意識的に生産する事ができるようになりました。そうすると単純な数字で考えると10人の人が居て8人が米作りに携わると2人の余りが生じます。米作りに従事しなくてもいい人物は村長やお祈りをする人であったりするのです。そんな村長が集落の中心で村の平和を保つように尽力するのですが、だんだん権力に芽生え、いつの間にか村人の為という内向きの顔が村の外に向くようになりそして権力者になり、誤解を始めて村人が作ったお米を自分の物にするという図式ができあがります。
その権力者が、自分の権力を誇示する分かり易い物として作ったのが古墳でした、こうして古墳時代になります。近々国の史跡にする準備をしている荒神山古墳は、全長124mという非常に巨大な山の上の前方後円墳ですが、下から見上げるような形で作り死んでもなお自分の権力を誇示しようとする象徴(葬送儀礼)だったのです。
しかし古墳は権力誇示だけではなく、次の権力者に引き継ぐ儀式(継承儀礼)もやったのです。ですから前方後円墳は、前の四角い場所でお葬式や権力者継承の儀式を行い、後ろの丸い方に遺体を葬ったのです。
荒神山古墳ではなかなか見つかりませんが、古墳には埴輪が多く出土します。埴輪には“円筒埴輪”と“形象埴輪”があり“円筒埴輪”はたくさん作られました。高さは70~80cmくらい高さは大体30cm位の物が出てきます、それは古墳の外側をずっと廻ります、古墳はお墓(聖域)ですからそれを示すラインだと考えられています。
“形象埴輪”は遺体の側や、儀式を行ったと思われる場所に置かれています、ですから家の形や人の形をした物もあります。その中には武人(墓を守る)や巫女(儀礼)の形をした物もあり正確な形をした物もあります。巫女は米原市(旧近江町)でも出てきています。
奈良時代以降になると中国の文化がどんどん入りながらも、日本のオリジナルの文化も残ります。そういう中で“人形”と書いて“ひとがた”と呼ぶ物が出てきます。今でも人型は習慣としてやっています。この時期(晩冬頃)にお伊勢さんやお多賀さんで紙の人型の物に息を吹きかけて名前を書いて回収し、それを祈祷していますが。息を吹きかける事で自分の体内にある物を人型に移します。寒い時期になると人はあまり動かなくなり身体の中に邪気が溜まると言う考え方があり、その溜まった物を紙に移すという考え方なのです。
そして移した紙を全部燃やして消すのです。そうして自らは綺麗にリフレッシュして春からに臨むという儀式として奈良時代からの伝統だったのです。
それが上巳という3月最初の巳の日に穢れを人形に託そうという考え方から生まれ、それが雛人形へと変わっていったのです。ですから3月3日に歴史的に繋がってくるのです。
最初は“天児(あまがつ)”や“這子(ほうこ)”という人形が平安時代に生まれます。天児は井伊直弼の四女・真千代の物が彦根城博物館残っています。どちらも子どもを写した人形で赤ちゃんの枕元に置いて赤ちゃんが病気になったら人形にうつす事で赤ちゃんは健康でいられるという思いが作られました。天児や這子はとてもシンプルな形だったのですが、どんどん精巧で飾るようになってくるのです。
それに『源氏物語』にも登場する“ひいな遊び(お人形さんごっこ)”が引っ付き今の雛人形になったと考えられます。
雛人形として非常に発達するのは江戸時代になってからです。そこにお人形に合わせたミニチュアである雛道具が加わります。彦根ではこの時期に直弼の次女・弥千代の雛道具が展示されますが、あれは実際に婚礼道具として高松に持って行った物のミニチュアなのです。人形と雛道具が引っ付いて段飾りになっていくのです。ですから人形と道具が一緒に飾られますがこれは全部江戸時代になってからなのです。
江戸時代にはいろんな人形が生まれましたが天児に繋がる一番シンプルな物は“立雛(たちびな)”です、紙で出来ていることも多いので“紙雛”とも言いますが、博物館でも弥千代の雛として展示される時もあります。形はシンプルで古い物ですが、ずっと踏襲されますので直弼の娘の時も作られたのです。
寛永時代(1624~1643)に作られたと言われているのは“寛永雛”です。ここではようやく座っている人形となり、男性の頭と飾りが一体になっていて髪の毛は描かれています、また女性は手を着物に隠して作らないと言う非常に古い形です。
元禄年間(1688~1704)に“元禄雛”が作られました。形が大きくなり、衣装に金の糸が使われたりして派手になってきます。女性にも手が作られるようになり綿入りになって少しふっくらしています、しかし男性の冠はまだ顔と一体化していてその辺りはまだ古い事です。
享保年間(1716~1735)になると“享保雛”という人形が登場します。要は時代が豊になったのに合わせて、どんどん豪華に大きくなっていくという傾向が生まれてきますので「8寸以上の人形は作るな」という規制が生まれたりもしたのです。頭の飾りに女性は冠が付いたりもしました。
次に“次郎左衛門雛”が生まれます。京都の人形師・岡田次郎左衛門が作ったのでこう呼ばれていますが江戸でも作られるようになります。一番の特徴は顔が引目鈎鼻(目は一線引いて、鼻はくの字)という平安の特徴を表していています。
そして“有職雛”というお公家さんの有職故事という言葉がありますが、つまり公家のきちっとした装束を真似て作るお公家さんの姿をそのまま踏襲した物が生まれます。
衣冠束帯の“束帯雛”や“直衣雛”そして“狩衣雛”という有職故事にのっとったお雛様が流行るようになります。
最後に現在に繋がる“古今雛”です。これは江戸の原舟月というお人形の世界では有名な方ですが、この人が生み出した物で、顔立ちが人間にそっくりになり特に女性は金糸・色糸を使う豪華な物になるのです。それが明治以降現在までずっと繋がります。
古今雛より古い物はなかなか見つからず、探して出てくる物は精々古今雛です。こう言った形でお雛様がたくさん作られます。
大きく分けますと“江戸雛”“京雛”とよく言われます。
“京雛”の特徴は一対だけを非常に大きく作るという傾向があります、そして雛道具をたくさん並べます。あるいは明治以降では御殿雛という御殿を作ってお雛様を飾る物で、あまり段になりません。
それに対し“江戸雛(関東雛)”は段飾りになり、三人官女や五人囃といった形で人形が増えていきます。そういった大きな特徴がありますが現在は混然としていて、東西を問わずどんどん入り乱れています。
またお内裏様とお雛様の置き方をどちらに置くか?が問題になりますが、結果としてどちらでも間違いではありません。江戸時代はお内裏様を向かって右側に飾る形しかありませんでしたが、明治以降に逆転したやり方が西洋から入ってきました。
なぜ江戸時代は置き方が決まっていたのか?と言えば身分制によって決まっているからです。江戸時代は左と右では左の方が位が高かったのです。ですから見る位置では左右が逆転しちゃいますが、座っている位置から言うと左が位が上で男尊女卑の考えが現れていたのでした。ところが明治以降のヨーロッパの結婚の位置などが逆だったので混然としたのです。そして今はどちらでもよくなったのでした。
お人形の飾り方は、今はインターネットという便利な物がありますのでこちらで調べるといいですよね。
雛道具は、嫁入りに持って行く婚礼調度の雛型で、一番典型的なのは弥千代の雛道具です。これらを博物館で飾っているのは箪笥や長持ちなどワンセットですが本来ならもっとあります。ですから物凄い数があるのです。
婚礼調度は江戸時代の終わりがピークですが、物凄く増えています、その典型が大名の婚礼調度です。そのお披露目が雛道具のセットでした、そこに人形が付きますので弥千代の場合は人形が一対であとは全部雛道具ということです。
≪質疑応答≫
(管理人)
雛人形の飾り方はそれぞれの藩によって特徴はあったのですか?
(谷口さん)
藩はあまり関係ないと思います、むしろそれを買われたのが江戸であったか?京都であったか?で違うと思います。
(管理人)
江戸では、武家は平飾りで商家は段飾りと聞いた事があるのですが、彦根藩はどうですか?
(谷口さん)
もともとスペースの問題です。
彦根藩では段飾りは無いと思います、少なくとも井伊家では伝わっていませんね。
(管理人)
最初の方の人形の歴史に関わる事ですが、南川瀬町では女性が妊娠するとお地蔵さんを作り、死産だと畑に埋めて、産まれると奉納する習慣を聞いた事がありますが?
(谷口さん)
それは古くからの歴史です。(死んだ)胎児を竪穴住居の入り口に埋める習慣は結構あるので、その古い歴史が残っていると考えられます。
その中で、善利組足軽屋敷では江戸時代の建物の中で江戸時代の雛人形が展示されるという催しが3月3日まであるのです。
写真は、井伊直弼が彦根藩主に就任した嘉永3年(1850)に作られた古今雛です。
2009年2月28日、そんな足軽屋敷の中の雛飾りの前で『ひな人形の歴史』と題された講演が行われました。
『ひな人形の歴史』について
彦根市教育委員会文化財課課長:谷口 徹 さん
井伊直弼が桜田門外で暗殺されたのは3月3日、雛の節句で登城する途中で暗殺されていますので、どこまで本当かはわかりませんが家臣たちの中では雛の節句を控えるようになったとも言われていますが、実際に探してみると江戸時代に遡る雛人形が出てきますので、少なくとも町屋の方ではそういう事はなかったのだろうと思われます。
人形の歴史を最初にお話ししますと、私たち人間が人形を作ったり描いたりするのは長い歴史があります。
人間が人間として地球上に生活するようになってから、おそらく随分早い時期からあったのだろうと考えられます。
猿が人間になったと言われていますが、猿が手を使って森林を移動し、色んな状況に中で森林が無くなり猿が平原に移動すると手の利用法が無くなってしまいます。そこで道具を作り出し二足直立歩行を行い人間の元となります。
二足直立歩行になって四つん這いよりも頭脳の重量が支えられ脳が発達し、二本の手を使って色んな道具を編み出して人間が人間としてどんどん発達しました。
その一番古い時代は旧石器(先土器)時代。つまり古いタイプの石の道具を使っていた時代が随分長く続きます、これは日本の場合で5万年くらい前まで、世界史で言うと300万年くらい前まで人間の痕跡が遡ります。旧石器時代でも、石にもっと硬い石で妊娠した女性を描いたり、あるいは洞窟に絵を描いたりそんな物が日本ではまだ見つかっていないのですが各地で見つかっています。
今から大体1万年くらい前(縄文時代)になりますと日本でも見つかってきます。その典型的なのが“土偶”という土でできた人形です。多いのは妊娠した女性の形をしています、精巧な物はお腹が膨らんでいて中に土の人形をちゃんと入れている物もあります。
妊娠した状態の女性というのは、縄文時代は米作りを知らず自然界にある動物や木の実を食べる「自然が生み出した物でそのまま人間が恩恵を受ける」時だったのです。ですから自然の状態によって人間が食べる物が減る場合もあるのです。そんな自然に頼った生活の中では人間が子どもを産むのも自然に頼った事と同じ意味があったのです。ですから人形を使って「自然の恵みが豊かでありますように」とお祈りをする意味を込めて、女性の妊娠した状態を人形に託しているんです。しかし土偶にはほとんどまともな形が無く壊して埋めているのです。ですからそういう物を意図的に毀し地面に埋める事によって、生まれるという事の何がしかが祈られたと言われています。
弥生時代になると、土の人形もあるのですが木を削って人形が作られます。この頃になると鉄製品が中国や朝鮮から入ってきて今で言う小刀のような木を削る道具も生まれますので、道具に発達から木でできる人形も生まれたのです。滋賀県では大中の湖遺跡で木の人形が埋められていました。やはり木の人形も「生み出す」という事に対するお祈りだっただろうと思われています。今でも大きな男性と女性の人形をお祀りするという習慣が滋賀県にも残っています。
弥生時代の大きな特徴は米作りが始まった事です。それまでは自然に頼っていた物が意識的に生産する事ができるようになりました。そうすると単純な数字で考えると10人の人が居て8人が米作りに携わると2人の余りが生じます。米作りに従事しなくてもいい人物は村長やお祈りをする人であったりするのです。そんな村長が集落の中心で村の平和を保つように尽力するのですが、だんだん権力に芽生え、いつの間にか村人の為という内向きの顔が村の外に向くようになりそして権力者になり、誤解を始めて村人が作ったお米を自分の物にするという図式ができあがります。
その権力者が、自分の権力を誇示する分かり易い物として作ったのが古墳でした、こうして古墳時代になります。近々国の史跡にする準備をしている荒神山古墳は、全長124mという非常に巨大な山の上の前方後円墳ですが、下から見上げるような形で作り死んでもなお自分の権力を誇示しようとする象徴(葬送儀礼)だったのです。
しかし古墳は権力誇示だけではなく、次の権力者に引き継ぐ儀式(継承儀礼)もやったのです。ですから前方後円墳は、前の四角い場所でお葬式や権力者継承の儀式を行い、後ろの丸い方に遺体を葬ったのです。
荒神山古墳ではなかなか見つかりませんが、古墳には埴輪が多く出土します。埴輪には“円筒埴輪”と“形象埴輪”があり“円筒埴輪”はたくさん作られました。高さは70~80cmくらい高さは大体30cm位の物が出てきます、それは古墳の外側をずっと廻ります、古墳はお墓(聖域)ですからそれを示すラインだと考えられています。
“形象埴輪”は遺体の側や、儀式を行ったと思われる場所に置かれています、ですから家の形や人の形をした物もあります。その中には武人(墓を守る)や巫女(儀礼)の形をした物もあり正確な形をした物もあります。巫女は米原市(旧近江町)でも出てきています。
奈良時代以降になると中国の文化がどんどん入りながらも、日本のオリジナルの文化も残ります。そういう中で“人形”と書いて“ひとがた”と呼ぶ物が出てきます。今でも人型は習慣としてやっています。この時期(晩冬頃)にお伊勢さんやお多賀さんで紙の人型の物に息を吹きかけて名前を書いて回収し、それを祈祷していますが。息を吹きかける事で自分の体内にある物を人型に移します。寒い時期になると人はあまり動かなくなり身体の中に邪気が溜まると言う考え方があり、その溜まった物を紙に移すという考え方なのです。
そして移した紙を全部燃やして消すのです。そうして自らは綺麗にリフレッシュして春からに臨むという儀式として奈良時代からの伝統だったのです。
それが上巳という3月最初の巳の日に穢れを人形に託そうという考え方から生まれ、それが雛人形へと変わっていったのです。ですから3月3日に歴史的に繋がってくるのです。
最初は“天児(あまがつ)”や“這子(ほうこ)”という人形が平安時代に生まれます。天児は井伊直弼の四女・真千代の物が彦根城博物館残っています。どちらも子どもを写した人形で赤ちゃんの枕元に置いて赤ちゃんが病気になったら人形にうつす事で赤ちゃんは健康でいられるという思いが作られました。天児や這子はとてもシンプルな形だったのですが、どんどん精巧で飾るようになってくるのです。
それに『源氏物語』にも登場する“ひいな遊び(お人形さんごっこ)”が引っ付き今の雛人形になったと考えられます。
雛人形として非常に発達するのは江戸時代になってからです。そこにお人形に合わせたミニチュアである雛道具が加わります。彦根ではこの時期に直弼の次女・弥千代の雛道具が展示されますが、あれは実際に婚礼道具として高松に持って行った物のミニチュアなのです。人形と雛道具が引っ付いて段飾りになっていくのです。ですから人形と道具が一緒に飾られますがこれは全部江戸時代になってからなのです。
江戸時代にはいろんな人形が生まれましたが天児に繋がる一番シンプルな物は“立雛(たちびな)”です、紙で出来ていることも多いので“紙雛”とも言いますが、博物館でも弥千代の雛として展示される時もあります。形はシンプルで古い物ですが、ずっと踏襲されますので直弼の娘の時も作られたのです。
寛永時代(1624~1643)に作られたと言われているのは“寛永雛”です。ここではようやく座っている人形となり、男性の頭と飾りが一体になっていて髪の毛は描かれています、また女性は手を着物に隠して作らないと言う非常に古い形です。
元禄年間(1688~1704)に“元禄雛”が作られました。形が大きくなり、衣装に金の糸が使われたりして派手になってきます。女性にも手が作られるようになり綿入りになって少しふっくらしています、しかし男性の冠はまだ顔と一体化していてその辺りはまだ古い事です。
享保年間(1716~1735)になると“享保雛”という人形が登場します。要は時代が豊になったのに合わせて、どんどん豪華に大きくなっていくという傾向が生まれてきますので「8寸以上の人形は作るな」という規制が生まれたりもしたのです。頭の飾りに女性は冠が付いたりもしました。
次に“次郎左衛門雛”が生まれます。京都の人形師・岡田次郎左衛門が作ったのでこう呼ばれていますが江戸でも作られるようになります。一番の特徴は顔が引目鈎鼻(目は一線引いて、鼻はくの字)という平安の特徴を表していています。
そして“有職雛”というお公家さんの有職故事という言葉がありますが、つまり公家のきちっとした装束を真似て作るお公家さんの姿をそのまま踏襲した物が生まれます。
衣冠束帯の“束帯雛”や“直衣雛”そして“狩衣雛”という有職故事にのっとったお雛様が流行るようになります。
最後に現在に繋がる“古今雛”です。これは江戸の原舟月というお人形の世界では有名な方ですが、この人が生み出した物で、顔立ちが人間にそっくりになり特に女性は金糸・色糸を使う豪華な物になるのです。それが明治以降現在までずっと繋がります。
古今雛より古い物はなかなか見つからず、探して出てくる物は精々古今雛です。こう言った形でお雛様がたくさん作られます。
大きく分けますと“江戸雛”“京雛”とよく言われます。
“京雛”の特徴は一対だけを非常に大きく作るという傾向があります、そして雛道具をたくさん並べます。あるいは明治以降では御殿雛という御殿を作ってお雛様を飾る物で、あまり段になりません。
それに対し“江戸雛(関東雛)”は段飾りになり、三人官女や五人囃といった形で人形が増えていきます。そういった大きな特徴がありますが現在は混然としていて、東西を問わずどんどん入り乱れています。
またお内裏様とお雛様の置き方をどちらに置くか?が問題になりますが、結果としてどちらでも間違いではありません。江戸時代はお内裏様を向かって右側に飾る形しかありませんでしたが、明治以降に逆転したやり方が西洋から入ってきました。
なぜ江戸時代は置き方が決まっていたのか?と言えば身分制によって決まっているからです。江戸時代は左と右では左の方が位が高かったのです。ですから見る位置では左右が逆転しちゃいますが、座っている位置から言うと左が位が上で男尊女卑の考えが現れていたのでした。ところが明治以降のヨーロッパの結婚の位置などが逆だったので混然としたのです。そして今はどちらでもよくなったのでした。
お人形の飾り方は、今はインターネットという便利な物がありますのでこちらで調べるといいですよね。
雛道具は、嫁入りに持って行く婚礼調度の雛型で、一番典型的なのは弥千代の雛道具です。これらを博物館で飾っているのは箪笥や長持ちなどワンセットですが本来ならもっとあります。ですから物凄い数があるのです。
婚礼調度は江戸時代の終わりがピークですが、物凄く増えています、その典型が大名の婚礼調度です。そのお披露目が雛道具のセットでした、そこに人形が付きますので弥千代の場合は人形が一対であとは全部雛道具ということです。
≪質疑応答≫
(管理人)
雛人形の飾り方はそれぞれの藩によって特徴はあったのですか?
(谷口さん)
藩はあまり関係ないと思います、むしろそれを買われたのが江戸であったか?京都であったか?で違うと思います。
(管理人)
江戸では、武家は平飾りで商家は段飾りと聞いた事があるのですが、彦根藩はどうですか?
(谷口さん)
もともとスペースの問題です。
彦根藩では段飾りは無いと思います、少なくとも井伊家では伝わっていませんね。
(管理人)
最初の方の人形の歴史に関わる事ですが、南川瀬町では女性が妊娠するとお地蔵さんを作り、死産だと畑に埋めて、産まれると奉納する習慣を聞いた事がありますが?
(谷口さん)
それは古くからの歴史です。(死んだ)胎児を竪穴住居の入り口に埋める習慣は結構あるので、その古い歴史が残っていると考えられます。