文久2年(1862)12月29日、坂本龍馬が勝海舟に面会しました。
二人の対面については、勝海舟が『追賛一話』で“坂本氏かつて剣客千葉周太郎と伴ひ、余を氷川の僑居に訪へり。時に半夜、余のために我邦海軍の興起せざる可からざる所以を談じ、媚々止まず。氏大いに会する所あるが如く、余に語りて曰く「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては敢て公を刺さんと決したり。今や公の説を聴き大いに余の固陋を恥づ。請ふ、これよりして公の門下生とならん」と。”と記しています。
つまりは坂本龍馬と千葉重太郎(周太郎と記している)が、氷川の海舟の家にやってきて、海舟と話したことで龍馬が「あなたを刺そうと思ってきましたが、勝先生の説を聞いて恥ずかしくなりました、弟子にしてください」と言ったと書いているのです。
そして翌年3月20日に龍馬が姉の乙女に書いた手紙には、“今にてハ日本第一の人物勝燐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候”と書いていますし、5月17日の手紙には“此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのようなものになり申候”と書いています。
3月20日に勝麟太郎(勝海舟)の弟子になり、日々兼而思付所とは海舟が描いていた海軍設立の件でありこの夢に精を出して頑張っていると言っているのです。そして5月17日には、勝麟太郎に可愛がられて弟子から客分になっていることを報告しています。この手紙は後に龍馬が海舟の元でどのように過ごしているかが述べられていて、そんな海舟に対し“達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれもこれあり”と言いながらも、そんな海舟に認められている自分を“猶ヱヘンヱへン”と自慢しています。
つまり坂本龍馬は文久3年3月20日には勝海舟の弟子になっていて5月17日には客分扱いだったことが分かるので、12月辺りに海舟に初めて出会っていてもおかしくはないのですがこの出会いの日と状況が謎なのです。
時代考証学会の佐藤宏之先生(『龍馬伝』資料提供)は『時代考証にみる新江戸意識』のなかで
“(『追賛一話』と『坂本龍馬海援隊始末』)この二つの記述によって、文久二年に勝の弟子になったことが、一般的に広められました。ただし『海舟日記』を見てみますと、龍馬の名が初めて記されるのは文久二年一二月二九日です。ここでは「坂本氏」と記されていますが「氏」と付くのは、優れた人物として評価しているわけです。坂本龍馬が優れた人物だと評するためには、それ以前にどこかで会っていなければなりません。
ではいつ、どこで会っているのか?という疑問が湧いてきます。『海舟日記』には一二月九日に三人の来訪があったと書かれてあり、この三人のなかに龍馬がいたのではないか?と考えられています”
と述べていて、12月29日に龍馬が海舟を斬りに来たわけではなく、この時はすでに顔見知りであり、しかも海舟は龍馬を優れた人物として評価していたと考えておられるのです。
そして、その初めての出会いの日は12月9日とされています。この時に海舟を訪れた3人とは坂本龍馬・近藤長次郎・間崎哲馬であろうとのことです。この三人は12月5日に福井藩前藩主松平春嶽に面会していて、その縁から海舟を紹介されて会いに行ったのではないかとも考えられえるそうです。
坂本龍馬と勝海舟の出会いは、仲介人の紹介があったものであり、龍馬は海舟を斬りに行ったわけではないとなると、ドラマチックな二人の出会いは少しイメージが変わるのかもしれませんね。
二人の対面については、勝海舟が『追賛一話』で“坂本氏かつて剣客千葉周太郎と伴ひ、余を氷川の僑居に訪へり。時に半夜、余のために我邦海軍の興起せざる可からざる所以を談じ、媚々止まず。氏大いに会する所あるが如く、余に語りて曰く「今宵の事ひそかに期する所あり。もし公の説明如何によりては敢て公を刺さんと決したり。今や公の説を聴き大いに余の固陋を恥づ。請ふ、これよりして公の門下生とならん」と。”と記しています。
つまりは坂本龍馬と千葉重太郎(周太郎と記している)が、氷川の海舟の家にやってきて、海舟と話したことで龍馬が「あなたを刺そうと思ってきましたが、勝先生の説を聞いて恥ずかしくなりました、弟子にしてください」と言ったと書いているのです。
そして翌年3月20日に龍馬が姉の乙女に書いた手紙には、“今にてハ日本第一の人物勝燐(麟)太郎殿という人にでしになり、日々兼而思付所をせいといたしおり申候”と書いていますし、5月17日の手紙には“此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのようなものになり申候”と書いています。
3月20日に勝麟太郎(勝海舟)の弟子になり、日々兼而思付所とは海舟が描いていた海軍設立の件でありこの夢に精を出して頑張っていると言っているのです。そして5月17日には、勝麟太郎に可愛がられて弟子から客分になっていることを報告しています。この手紙は後に龍馬が海舟の元でどのように過ごしているかが述べられていて、そんな海舟に対し“達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれもこれあり”と言いながらも、そんな海舟に認められている自分を“猶ヱヘンヱへン”と自慢しています。
つまり坂本龍馬は文久3年3月20日には勝海舟の弟子になっていて5月17日には客分扱いだったことが分かるので、12月辺りに海舟に初めて出会っていてもおかしくはないのですがこの出会いの日と状況が謎なのです。
時代考証学会の佐藤宏之先生(『龍馬伝』資料提供)は『時代考証にみる新江戸意識』のなかで
“(『追賛一話』と『坂本龍馬海援隊始末』)この二つの記述によって、文久二年に勝の弟子になったことが、一般的に広められました。ただし『海舟日記』を見てみますと、龍馬の名が初めて記されるのは文久二年一二月二九日です。ここでは「坂本氏」と記されていますが「氏」と付くのは、優れた人物として評価しているわけです。坂本龍馬が優れた人物だと評するためには、それ以前にどこかで会っていなければなりません。
ではいつ、どこで会っているのか?という疑問が湧いてきます。『海舟日記』には一二月九日に三人の来訪があったと書かれてあり、この三人のなかに龍馬がいたのではないか?と考えられています”
と述べていて、12月29日に龍馬が海舟を斬りに来たわけではなく、この時はすでに顔見知りであり、しかも海舟は龍馬を優れた人物として評価していたと考えておられるのです。
そして、その初めての出会いの日は12月9日とされています。この時に海舟を訪れた3人とは坂本龍馬・近藤長次郎・間崎哲馬であろうとのことです。この三人は12月5日に福井藩前藩主松平春嶽に面会していて、その縁から海舟を紹介されて会いに行ったのではないかとも考えられえるそうです。
坂本龍馬と勝海舟の出会いは、仲介人の紹介があったものであり、龍馬は海舟を斬りに行ったわけではないとなると、ドラマチックな二人の出会いは少しイメージが変わるのかもしれませんね。