彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

竹ヶ鼻廃寺遺跡発掘

2008年12月26日 | 史跡
2008年12月、都恵神社の裏側で発掘が行われていました。
ここの発掘に関わるのは“竹ヶ鼻廃寺”です。

資料を見ると、この辺りには「恒河寺」という寺があり、その寺は白鳳時代に建てられたものだった事などが解っていますので、この恒河寺の遺跡ではないかと思われていますが、便宜上この地名を使って竹ヶ鼻廃寺と呼ばれているのです。


発掘調査は既に何度も行われていて、土器や瓦などの遺物と共に井戸や建物の跡も発見されています。
その規模の大きさから古代の郡家(ぐうけ・役場の事)も併用されていたと推測されてるのです。

竹ヶ鼻廃寺は、犬上郡では最も古い大型寺院だといわれています。
その歴史にはこの辺りを治めていた犬上氏も関わると思われていて、また近くには壬申の乱の関係もあることから、古代ロマンをどこまでも描かせてくれる貴重な場所でもあるのです。
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12月21日、南北朝時代始まる

2008年12月21日 | 井伊家千年紀
建武3年・延元元年(1336)12月21日、後醍醐天皇が幽閉先から逃走し吉野に朝廷を起こして南北朝時代が始まります。

鎌倉幕府を武士の協力で滅ぼした後醍醐天皇は、自らが政治を行う建武の新政を始めますが、これは一部の武士以外を軽視した貴族優先の政治だった為に、武士たちから反発を受け、その反発は足利尊氏の元で大きな反新政組織となったのです。

一旦は破れて九州に落ち延びた尊氏でしたが、やがて大軍を率いて京を目指し、その途中の湊川で楠木正成を破る戦果を挙げ上洛を果たしたのでした。
後醍醐天皇は延暦寺に逃れて戦いを続けますが、尊氏の講和に応じて天皇の証である三種の神器を光明天皇に譲り、花山院に幽閉されてしまったのです。


しかし、後醍醐天皇は花山院から脱出し吉野金峰山に入り光明天皇に渡した三種の神器が偽物であることを宣言してここに正当と称する朝廷を興し、京の北朝・吉野の南朝が両立する南北朝時代が始まったのでした。


この頃、井伊家は遠江国の井伊谷に誕生してから300年近くが過ぎていて大きな勢力になりつつありました。
それは当時の国守の中で特に全国に知られた八家の中に「井伊介」として井伊家が入っていたことでもうかがい知ることができます。
この時の当主は井伊道政という名前だったとも言われています。
そんな井伊谷は、南朝の皇室領に含まれていたので自然と南朝方に味方するようになったのです。
当時の記録などでは井伊家の武将で「井(伊)八郎」という人物が居たことから、これが道政とも言われているのですよ。

延元2年(1337)7月、当初は出家していた後醍醐天皇の第二皇子・宗良親王(南朝の初代征夷大将軍)は還俗して弟の義良親王(後村上天皇)と共に伊勢から陸奥に向かう途中で船が座礁し、宗良親王は井伊谷に逃れてここで挙兵したのです。
この時に、道政の娘・重子と宗良親王の間に尹良親王が生まれたとの伝承があり、この尹良親王は後に南朝から源姓を与えられて父に引き続き第二代征夷大将軍に任命されますが戦に敗れて自害することとなります。

もし尹良親王が後継ぎを残して南朝がこの争乱に勝っていたなら、天皇家に井伊家の血が入っていたかもしれないのです、そう考えると壮大な話ですよね。


さて時間を宗良親王挙兵の頃に戻しますと…
井伊道政は、南朝方として息子の高顕と共に奮戦しますが敗れてしまい、宗良親王は井伊谷を逃れて北陸を中心に関東・甲信越まで転戦します。が、北朝方は強く再び井伊谷に籠り3年間井伊谷で過ごした後の元中2年(1385)8月に亡くなったといわれています(諸説があり確定していません)


時代は流れ明治元年11月29日
第十四代彦根藩主の井伊直憲は、明治政府に対し井伊谷の宗良親王の墳墓を修繕し新たに社殿を建立することを願います。
これは明治政府から許され、明治5年2月に井伊谷宮が創建されたのでした。
こうして、井伊家は南北朝以来の勤皇の精神を伝え続けたのです。
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『新収蔵の資料』 慶雲院屋敷図

2008年12月14日 | 博物館展示
今回も『新収蔵の資料』からご紹介します。

「慶雲院屋敷図」
今回の展示で管理人が一番興味を持ったのはこの屋敷図かもしれません。
慶雲院は彦根藩四代藩主井伊直興の娘で鉄姫(かねひめ)という名でした。


鉄姫は4歳の時に井伊家筆頭家老木俣家の男子と婚約するのですが、その婚約者が早世したために婚約者の従兄弟でだった守嘉に嫁ぐこととなったのです。
木俣守嘉は現在「旧近江高校跡地」として彦根城内で臨時の駐車場として使われている大手門前の空き地の半分を屋敷として与えられ、木俣家とは別の千石の知行を与えられて家を興しました。
木俣家の記録によると、この家は「井伊」姓を称し、家紋は井伊橘のアレンジ版、守嘉が鉄姫の婿として井伊家一門に列した形になったと記されているそうです。
こうして井伊家一門の待遇を与えられた姫は、この鉄姫しかいませんでした。それは当時の井伊家では男子の早世が多く、いざという時に井伊家を継げる一族を残すための緊急処置だったとの考え方もあるようです。(『広報ひこね』2008年12月1日号6ページより)


夫の井伊(木俣)守嘉よりも慶雲院の屋敷図との命名をされただけでも、この屋敷の主を示していそうな気もしますが、決してそれだけで付けられた名前ではありません。
絵図は2色に分けられて描かれていますが、向って右下を中心に描かれた狭い方が木俣家の屋敷で残りの広い方が慶雲院の屋敷だったのです。
慶雲院の死後、この屋敷は2つに仕切られ、木俣家の屋敷はそのまま木俣家所有となり慶雲院の屋敷は彦根藩に戻された後に他の藩士の屋敷として下げ渡されたのでした。

ちなみに井伊家を残すための処置として井伊家一門に組み込まれた鉄姫と守嘉には嘉久治守次(後に鉄之助・直寛)という名の男の子が誕生しました。
この子は享保17年に井伊家分家の与板藩主で従兄弟になる井伊直陽の養子として迎えられ、直員と名を改めて与板井伊家を継いだのですが2年半弱の在位で20歳で没してしまったのです。
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『新収蔵の資料』 岡見太郎右衛門・太郎介袖標

2008年12月08日 | 博物館展示
今回も『新収蔵の資料』から展示をご紹介します。

「岡見太郎右衛門・太郎介袖標」
(管理人の私見)
前回書きました青木秀好の写真と同じように戊辰戦争の頃の彦根藩士資料となります。
慶応4年(1868)2月21日、太政官代は討幕の為に従軍している士卒へ錦の肩印を下賜することを決め、これを官軍の合印としたのです。

岡見太郎右衛門・太郎介袖標にはそれぞれこの錦の肩印がありました。
展示では、太郎介の方は表の錦模様を見せ、太郎右衛門の方は裏に「彦藩士 岡見太郎右衛門正弘」と名前が書かれた部分を展示しています。
これは、盗難されないようにする為の処置ではないか?とのお話でした。
ちなみに官軍の間ではこの肩印を「錦の御旗の布れ」にちなみ「錦裂(きんぎれ)」と呼ばれ、江戸に入った後は徳川びいきの人々が官軍からこれを奪う「錦裂取り」が流行ったそうです。

さて、この錦の肩印の他に自分の名前を示した名札のようなものと、朱の角印を押印した布もあります。
この角印は「御印鑑」と呼ばれていて、錦の肩印と共に付ける事が義務付けられていました。これは、偽の錦の肩印を付ける偽官軍が現れたためにその対策として作られたもので、御印鑑の偽物を作ったことが発覚すればその場で処刑される決まりまであったのです。
この「御印鑑」には官軍の総督府によって違う物が用いられていました。

岡見家の例では、
太郎右衛門が「東山道総督印」
太郎介が「大総督府印」
を身に付けていますので、この二人は別の総督の管轄にあったことが示されますが、奥州の三春城攻略(無血開城)に彦根藩が参戦した時にこの二人は同じ軍にいましたので、もしかしたら官軍に中でも統括が混合していたのかもしれませんね。

ちなみに岡見太郎右衛門と太郎介は親子で、太郎右衛門が父親です。


また、太郎右衛門の方にもう一つ白い布が付いていますが、これはメモを一緒に纏めていたようです。
必ず使う大切な物にメモを付けておく…現代人も幕末維新の人も考える事は一緒のようですね。
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『新収蔵の資料』 青木秀好写真

2008年12月06日 | 博物館展示
まずは、管理人宅のPC不良によりしばらく更新があまりできなかったことをお詫びいたします。

さて2008年12月6日に彦根城博物館ではテーマ展『新収蔵の資料』にちなんだギャラリートークが行われました。
今回は平成13年から今までの間に彦根城博物館に新たに収蔵された資料が展示されています。

本来なら一度にご紹介するのですが、今回は面白い資料も多くいくつかを分けてご紹介します。

まず1つ目は「青木秀好写真」
(以降、管理人の感想)
これは2008年11月11日に中日新聞で紹介され、一部の歴史ファンから注目された写真です。
この青木秀好という人物は、幕末の彦根藩士で銃隊の小隊長だった人物でした。
人物としては彦根藩藩士の一人というだけなのですが問題は見つかった写真です。

彦根藩が鳥羽伏見の戦いでいち早く官軍に味方して、東北まで官軍として旧幕府軍と戦ったことはあまり知られていませんが、その理由の一つとしては戊辰戦争に関わる軍編成の資料の中に彦根藩士の装備に関した資料が一切現れていないことも考えらえます。

今までは「資料が無い」とも思われていたのですが、青木秀好の写真が日の目を見るようになり新たな期待も生まれたのです。


写真を見ると、江戸幕府では外様の地位にあった大名家で官軍にいた隊が装備するような雰囲気の洋装で、しかし他の藩は左腕に付けていた合印を右腕に付けています。
帽子はシルクハットに似ているように思うのですが、手元の資料にはこの帽子で戦いの加わった他藩の隊の記載が見つからず、洋装に合わせたのか、それとも戊辰戦争で使用したのかが謎です。
胴乱は写真を見る限りでは当時もっとも使われた「米式胴乱」ではないでしょうか?胴乱とは弾薬携帯用の鞄の事で、銃隊の小隊長ならば必須アイテムだったように思われます。

手には日本刀を持っていますが、下緒(刀が落ちないように鞘元に巻いた紐)がしっかりあることから背負った物ではなく腰に差していたと考えた方が良いと思います。


維新前夜を知る事ができる珍しい資料ですよ。
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