彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『五僧越え! 戦国の道ウォーク&バスツアー』

2010年10月31日 | イベント
『五僧越え! 戦国の道ウォーク&バスツアー』が行われました。

彦根からバスで関ヶ原に向かい、時山から五僧峠までバスで進んだあとに、五僧峠から保月、杉坂峠を徒歩で越えて島津義弘の関ヶ原から退却したルートを体感するとのイベントでした。
台風の影響で直前まで踏破には不安がありましたが、昨日の天気は悪くなく、今朝も天気に恵まれましたので踏破コースを一部変更して行われることになりました。

70人近い参加者さんが彦根駅に集まり、3台のバスに分乗して出発です。

管理人は、この段階でいきなりスタッフ札を渡され「ガイドよろしく」と言われてしまい、1台のバスの中で無茶ぶりガイドがスタートしました。

まずは彦根から関ヶ原まで、関ヶ原の合戦の話をしました。
関ヶ原民族資料館であとで聞いた話と随分違うでしょうね(笑)

家康が首実験を行った場所の近くには、田中吉政の陣跡がありました。




笹尾山や島津陣跡も訪問





この時点で管理人の体力にはちょっと衰えが…

歩くとしゃべるの両方攻撃です(笑)
そして、時山では皆さんを前に島津豊久の討ち死についてお話させて貰いました。キンチョーしましたね…


そして時山から、車で少し道を登ると五僧峠に到着です。



今年の春に道が開通して車で行けるようになったもののなかなか細い道でした。

五僧峠で食事を済ませてから徒歩で下山開始。
この頃から雨が振り出しました。
また、下り道では、あっちこっちに岩が転がっています。落石注意!どころではありません(汗)

以前に同じイベントをした時には、下の道を踏破したそうです。

そしてここに出て来たとか…

凄いイベントだった事でしょうね。管理人が参加していたらたぶん途中でダウンしていた事でしょう…
今回は「下りだけだから…」と聞いて参加したのですが、結構登りがあっただけでへばってました。

途中で保月の集落で休憩もありました。


道中では70代のご婦人が語る思い出話や世間話で楽しんだり、男性参加者さんと歴史話に興じたりと充実した時間を過ごしましたが、三時間近い時間を雨が激しくなる中の坂道を登ったり降ったりしました。
「こんな経験は、島津退き口か七卿都落ちくらいしかしないんしゃないか?」と言いながら、雨の中をみなさんよく歩かれました。
島津の五僧越えでも雨だったことを考えると、本当の意味で歴史体験ですね。


最後に一円という在所の一円屋敷を訪問して、今回のイベントは終了しました。

今日は、よくしゃべりよく歩きました。明日の筋肉痛が怖いですね。
そして、管理人の歴史話をバスの中で延々と聞かされた皆さんはお疲れでしたでしょう。たぶん終わった後に「あいつ誰やったねん」という感想がほとんどでしょうね(笑)
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150年前:嘉納治五郎誕生(10月28日)

2010年10月28日 | 何の日?
万延元年(1860)10月28日、後に柔道を提唱する嘉納治五郎が摂津国御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区)で誕生しました。

柔道という武道家のイメージが強い嘉納治五郎ですが、その生家は武士の家ではなく商人の家でした。
父の治朗作は廻船業を行っていた人で、勝海舟が設計を行った和田岬砲台(神戸市兵庫区・三菱重工業敷地内の史跡)の請負を行った人物でもありました。

この功績で治朗作は明治6年(1873)に明治政府に招聘され、治五郎は父に従って上京し東京開成学校(東京大学)に入学したのです。
この頃は身体が弱かった治五郎は柔術を学ぶ事を志し、明治15年に講道館で講道館柔道を創始したのです。

武術であった柔術に対して、肉体と精神の鍛練と教育を目的とした柔道は世界中で愛されるようになり、オリンピック競技としても定着したのです。
このオリンピックに日本が参加できるように尽くしたのも嘉納治五郎でしたので、「柔道の父」や「日本の体育の父」とも呼ばれるようになったのです。

ちなみに、柔術と柔道の違いを仏教的に著わした言葉があります。
「小乗的な柔術から、大乗的な柔道への転換」
もし、そのままの意味で解釈するならば、個人の技術を極める事が柔術であり、多くの人が楽しめる競技が柔道とも言い換えられるのかもしれませんね。


こんな生き方は多くの人の記憶に残り、弟子の西郷四郎と共に富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルともなったのです。
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『ゆるキャラまつりin彦根~キグるミサミっと2010~』戦国キャラ編

2010年10月24日 | イベント
『ゆるキャラまつりin彦根~キグるミサミっと2010~』第二日目。

まずは、ひこにゃんたち彦根のキャラのご挨拶から始まりました。


今日、管理人が見たかったキャラは「あっ!官兵衛」
昨日は居ませんでしたので、今日は期待大です。

ゆ、ゆるい…

動けないのに一生懸命足上げてます

ほんわか気分で、メイン会場をウロウロしているとさまざまなキャラたちに遭遇












そんななか人だかりを発見!

「何だろう?」と思って近寄ると、林家ペーさん降臨

携帯電話までピンクとは、さすがです。

さて、今日のメインは、花しょうぶ通り商店街で行われる、戦国武将ゆるキャラの『ユルイアスロン彦根秋の陣!』でした。

トライアスロンの水泳・マラソン・自転車に見立てて、ソーダ一気飲み・缶馬・三輪車の三つの競技を一人で行いそれを三人のチームの総合タイムで競うというものでした。
「名前はユルイけど、競技はゆるくないレース」なのだそうです。

…という訳で、花しょうぶ通りに移動すると、戦国キャラたちが集まっていました。


のぶさま


義の三将


おせんちゃん


かねたん


かげっちさま



そしてレースは大盛り上がり。
○ソーダ一気飲み


○缶馬

頑張れ―!!って声援も大きくなります。

優勝チームの彼は勇者だった(笑)


○三輪車


優勝は、景勝くんチーム

体力とキャラクターが大いに発揮された戦いでした。

そして今日はこんな物を手に入れて、見学終わり。






二日間のおまつりも、これで終了しましたが、 彦根の秋のイベントはまだまだ続きますので、大いに楽しみたいですね。


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『ゆるキャラまつりin彦根~キグるミサミっと2010~』

2010年10月23日 | イベント
今年で3回目となる『ゆるキャラまつりin彦根~キグるミサミっと2010~』の一日目が行われました。
今年の出場キャラは160体以上とか…しかし、正式に登録されていないアピールキャラもいますので、もっとたくさんなんでしょうね。

9時の開会前にはお客さんが集まっていました、そしてひこにゃんや彦根のキャラたちによって開会が宣言されます。



今までは、様々なイベントと、キャラのステージアピールが同時進行で行われるイベントでしたが、今回はイベントが少なめでキャラたちは自由に動き回ったりアピールをしていて、ふれあいの場が増えていました。

あっちこっちで可愛いキャラが多く登場します。













北海道の名付親・松浦武四郎をモデルにした『たけちゃん』






このキャラのイメージは倶利伽羅峠の戦いの火牛の計なんだそうです。








管理人が1回目の時に凄く気に入った「わたるくん」も登場!


このナメクジは、なんだか『ウルトラQ』に出てきそうですね(笑)


ネギ好きの管理人のために居るような「ねぎっちょ」

この事をつぶやくと「近くに鴨キャラはいない?」って問われました。探した時は居なかったのですが、後から登場しました「たみまる」マガモのオスだそうです。

こんなふうに、個々で様々な楽しみを見つけるのもゆるキャラの面白さです。

このキャラは昔話『鉢かぶり姫』がモデルの「はちかつぎちゃん」

実はもう20年以上のベテランキャラだそうです。


前回管理人のお気に入りだった「シロモチくん」(左)発見


そして今回管理人の興味を引いたのは「ブットンくん」でした

そんなブットンくんはお寺のキャラですが、同じようにお寺のキャラが「あかほんくん」です。

なんと、あかほんくんは本が開くギミックが付いています。


同じようにギミックが付いているのが「玄さん」

眉毛に注目!!


可愛いキャラたちにまぎれてこんなキャラも・・・



可愛さだけがゆるキャラじゃない!!(笑)

またこんなシーンも…

運ばれてる(笑)面白いシーンにも遭遇しましたね。

そして今回は海外からも参加しています。
サイパンの「サイパンだ!」


フィンランドの「ヘルッピ」



ゆるキャラではありませんが、ちょっと面白かった「三田のヨンさま」

「メインはゆるキャラですから・・・」と仰っておられましたが、充分キャラが際立っていたと思いますよ(笑)似てるんですこの方。
二日目に行かれる方、会って来て下さい♪

ちなみに管理人の二日目は、「あ!官兵衛」を楽しみにしたいと思います。

このイベントでは各ブースでの観光案内や物販も楽しいです。
いろいろ、買ったり貰ったりしました。




キャラの特別住民票があるブースもありました。

管理人は、特別住民票を全国で作って、それを集めるような全国規模の観光戦略があってもいいと思う。と、ずっと企画していますので、彦根以外にも特別住民票が増えるのは嬉しいですね。
日本100名城のように収集できる全国の長期イベントになるといいですよね。


また、先日発売になった『ひこにゃん切手第三弾』も売ってましたよ。今回は5000部の発行だそうですのでお早めに!
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10月23日、シャクシャインの乱終結

2010年10月23日 | 何の日?
寛文9年(1669)年10月23日、シャクシャインの乱が終わります。


松前で蝦夷地(北海道)を支配していた松前藩の横暴に対して、総酋長シャクシャインが呼びかけて、これに応じた全蝦夷のアイヌ民族が一斉に反乱を起こしました。
本来なら松前の小さな地域にしか住んでいない藩士達だけで広大な土地の点在するアイヌ民族を支配するのは不可能なのですが、アイヌ民族の戦い方の欠点がこれを可能にしてしまったのです。
アイヌ民族は戦うという事が少なく、一度の戦いで勝利して相手が逃げるとその時点で戦争の勝利が決まり、後追いする事も止めを刺す事も無かったのです。
これを知った松前藩では、戦が起きた時に一旦引き、アイヌ民族が満足してそれぞれの村に分散した所で一つ一つの村をつぶして行く方法を使い蝦夷地の支配を強大なものにしたのでした。
こうして尊大な態度に出た松前藩はアイヌ民族を苦しめ、騙し、それに耐えられなくなったために反乱を招く事になったのです。



そもそも、松前藩は日本で唯一石高が無い大名。
日本人にとって米はとても貴い物で、全国でそれが作られていたために日本では食料は飽和状態にあり、そのためにこの狭い島国の割には人口密度が無茶苦茶高いくらいでした。
そんな中、日本人は米を神聖化して土地の単位にまで米の取れ高である“石”を使っているのですが、米が収穫できなかった松前藩は石高ゼロという変わった藩となるのです。
しかし、石高なしの大名というのはあまりにも肩身が狭い為に江戸初期に幕府から“1万石並”という変わった石高を認められていたのでした。
そんな、松前藩の主な収入はアイヌ民族からの産物を江戸などの都会で高値で売る事でしたが、江戸時代という平和な時代では産業や交易が発達し、松前藩を通さなくてもその産物が他の地域から安く都会に入って売られる様になっていたのです。
こうして松前藩は財政危機の陥ってしまったのでした。



財政危機に陥った藩が藩政改革として最終的に目を着けるのが民衆からの摂取。
松前藩と薩摩藩では属国から搾り取る事が出来たのです。

薩摩藩が財政危機に陥った時、いつも苦しめられるのは属国の琉球の民衆で、特産のさとうきびから穫れた砂糖を一口嘗めた子供が極刑に処せられたという記録も残っています。

同じ様に松前藩のアイヌ民族に対する締め付けも酷かったのでした。
しかし、琉球に比べて蝦夷地は、土地が広く人数も多く、そして支配藩と地続きだった事、そして民族の性格がこの両極の藩の運命を分ける事になるのです。
明治維新から戦中まで、大きな抵抗も無く支配下に置かれた琉球と違い、アイヌ民族は大きな反乱を何度か起しました。


特に大きく、歴史に残るシャクシャインの乱もそうやって起されたのです。
ちなみに、この乱が起こった頃の酷さは、アイヌ民族が熊一頭を仕留めて持って行くと松前藩は米一合と交換したとか、アワビ山盛りで木綿針一本と交換したという感じだったそうですよ。





シャクシャインの起した反乱は、それまでの日本人に対する恨みが籠ったもので、アイヌ民族は自分たちの民族の歴史がここで終わっても良いくらいの覚悟で蜂起したのです。


松前藩単独ではこれを抑えきれず、津軽藩を始めとする東北北部の藩が援軍に駆けつけたくらいでした。
松前藩は自藩だけで反乱が抑えられなかった事を問題視し、シャクシャインに和睦の話を持ち出したのです。
純朴で人を疑う事をあまり行なわないアイヌ民族の代表であるシャクシャインは、和睦の話に乗って停戦の宴席に着いたのです。


寛文9年(1669)年10月23日、宴席の最中に武装した松前藩士に囲まれたシャクシャインはそのまま謀殺されてしまうのです。
この後、アイヌ民族への大掛かりな処刑が行われ、松前藩の蝦夷地支配をまた強固なものにしてしまいます。
しかし、松前藩も少し懲りたようで、交換レートの酷さを半分にまで改めたのでした。
まぁそれでもメチャクチャ高いですがね。

こうした支配は、田沼意次が蝦夷地探索団を派遣した時に発覚し、松前領は幕府に没収されてしまいます。
やがて、許されて戻った松前藩でしたが、以前のようにはいかず、幕末には幕府によって五稜郭の建造もされるのです。

この田沼時代からの蝦夷地調査が北海道に多くの収穫の場を見出すものとして当時の知識人に知られ、その後は民間レベルにまで広がるのです。
その知識の中でいち早く動いたのは近江商人でした。松前藩が幕府から取り潰され、再び再興した時、松前藩主は近江商人の用意した船に乗って松前に入り、以降は松前藩の取引のほとんどを近江商人がになうようになったのです。これが鰊を近江に運ぶ要因となり、海の無い近江や京でニシンそばを食べる習慣も近江商人が持ち込んだものでした。

また、幕末に水戸藩や坂本龍馬が蝦夷地開拓を計画したり、榎本武揚らが五稜郭に入って蝦夷共和国を建国したのも、蝦夷地の可能性に賭けた為とも言えるのです。
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10月18日、小早川秀秋死去

2010年10月18日 | 何の日?
慶長7年(1602)10月18日、備前岡山藩主小早川秀秋が亡くなりました。享年21歳

小早川秀秋といえば、関ヶ原の戦いで西軍を裏切って東軍に味方し、東軍を勝利に導いた人物として、昨今の判官贔屓的な歴史ブームの中では特に嫌われた人物として描かれています。


しかし、数年前の9月15日、関ヶ原の戦いの記事にも書いた通り、小早川秀秋は石田三成からも徳川家康からも「動かないでほしい」との依頼を受けていただけで、軍を動かしたのは秀秋の英断であり、決して裏切りではありませんでした。

ましてや、秀秋が松尾山に陣を築くのも、三成の命ではなく秀秋が家老の稲葉正成と相談し、勝手に松尾山に向かい、大垣城主の伊藤盛正(稲葉家の記録では“伊藤長門守某”)が石田三成の命で古城を改修した物をそのまま奪い立て籠もったのです。


これが関ヶ原の戦いの前日の9月14日の出来事でしたから、この時点で石田三成と小早川秀秋は同じ命令系統の元にある軍勢ではありませんでした。

その為に、大谷吉継は松尾山の麓に赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治の軍を置いて小早川勢に備える構えを見せたのです(結局この四将は秀秋と行動を共にする事になりますが…)


ですから、関ヶ原の戦いの後で小早川秀秋が裏切り者として他の大名からの交流も断られ、肩身の狭い想いをして、そのストレスから酒乱となり家臣や腰元・領民などを斬って半狂乱の末に亡くなったとか、大谷吉継が秀秋が居る方を見ながら「三年のうちに祟りをなさん」と言いながら腹を切ったなどの話が残っていますが、お芝居やドラマ・小説などの話としては因縁話も含めて面白いですが、本気で歴史を語る上ではあり得ない話としか言わざるを得ません。

大谷吉継は、最近では“義”の武将なんて騒がれている人物です。この人物が事前に小早川秀秋に備えて四人の武将を配置しているのですから、攻めてくるための準備はあり、もし祟りをなすなら秀秋に便乗して裏切った四将に対してです。

しかも、これらの四将は
・赤座直保は、朝倉義景から織田信長に
・小川祐忠は、浅井長政から織田信長に
・朽木元綱は、浅井長政から織田信長に
・脇坂安治は、東軍にいる加藤清正や福島正則らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人
と、寝返りを既に経験したり東軍に強いパイプがある武将ばかりで、裏切らないと思うのが変なくらいでした。

吉継の祟り説は、とくに吉継を義の人として評価している方が、「吉継にそこまで言わせるくらい秀秋は大変な事をした」と主張する為に使われますが、これは暗に「大谷吉継は、策略もろくに立てられない勘違いした策士だったから、自分の失敗を秀秋になすりつけた」と主張しているのと同じなのです。

秀秋だけでなく、吉継の名誉回復のためにも、正しい目でこの状況を分析して欲しいと、いつも切に願っています。



そして、小早川秀秋は岡山城下では善政を敷いたと言われています。

秀秋が関ヶ原での行為に負い目を感じて、半狂乱の上に亡くなる可能性は極めて低いとしか言いようがなく、何らかの策略か、秀秋自身に病があったとしか考えられません。
とにかく、慶長7年10月18日に秀秋は亡くなり、小早川家は徳川政権下初の改易大名となったのです。

秀秋の家老だった稲葉正成の妻・春日局は徳川家光の乳母となり、稲葉家は老中や若年寄を輩出する大名になります。また家臣である堀田正吉の子孫も譜代大名となり大老・堀田正俊を輩出する大老四家の一家になります。もしかしたらこの辺りに秀秋の死との関わりがあるのかもしれませんね。


小早川秀秋の死と。御家断絶により、後の記録では死人に口なしと言わんばかりに秀秋を関ヶ原の裏切り者であり、弱い人物として過剰に描かれてきた感があります。
そろそろ、新しい評価が広がっても良い頃かもしれません。


ちなみに関ヶ原の戦いののちに秀秋は“秀詮”と改名しているので、本来ならばこの名前で書かねばいけませんが、便宜上改名前の名前を使っています。
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『関ケ原合戦410年祭』

2010年10月17日 | イベント
2010年は関ケ原の戦いから410年の記念年です。
そこで関ケ原では10月16日17日の二日間で『関ケ原合戦410年祭』が開催されました。

残念ながら管理人は16日には行けませんでしたので、今回は17日の一部をご紹介します。


鉄砲演武で始まり、石田三成の陣址からはのろしをあげて、どのように見えるかなどの歴史的な試みを中心に、物産展やライブなども行われました。

関ケ原の戦いといえば、彦根では石田三成と井伊直政がそれぞれの軍の重要な位置を占めて戦うという不思議な運命を背負った戦いでもありますね。
小日向えりさんと坂本雅夫さんのトークでは、関ケ原合戦での漢を決めるディスカッションが行われました。

候補者は
・徳川家康、井伊直政、黒田長政
・石田三成、大谷吉継、島津義弘
・鳥居元忠、立花宗茂
でした。
管理人は「小早川秀秋だろう!(明日の歴史話参照)」と主張したい気分でいましたが、この候補の中にないので井伊直政を押しました。
直政は東軍代表になるまで健闘したのですが、結果は大谷吉継が多くの票を集めていました。
関ケ原でも今は西軍人気が強いと感じましたね。

メインになる『関ケ原合戦絵巻』では200人規模の鎧武者たちによるお芝居が行われ圧巻でした。
日本の運命を左右した事は確実な、日本で一番有名とも言える戦国様式の戦いを、どのような角度で見たり感じるのか?
このイベントには、関係者の方の真剣さと情熱がヒシヒシと伝わってきました。
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映画『桜田門外ノ変』

2010年10月17日 | その他
以前、佐藤純彌監督による歴史講演会「映画『桜田門外ノ変』を語る!」が行われたという記事を書きましたが、この講演会で語られた映画『桜田門外ノ変』が2010年10月16日より全国で上映となりました。

さっそく管理人も観に行きました。
吉村昭さんの原作のイメージや、大沢たかおさんが演じられていた主人公・関鉄之介が水戸浪士の襲撃現場指揮者だった事から、水戸義士と称える映画だというイメージが先行してインプットされていましたが、作品を観てみると、確かに襲撃者である水戸浪士たちのその後などを描いていて水戸藩が中心の作品ではありましたが、刻々と経過が綴られていくような内容で、決して水戸浪士を義士として称える作品ではありませんでした。
この物語の全ては関鉄之介が言う一言に集約されています。
「我らは井伊直弼の首一つを奪うために、どれだけ多くの命を道連れにしたのでしょうか」
これは、水戸の関係者だけではなく、彦根藩士の犠牲者やその後切腹になった彦根藩士を含んでの言葉でした。

盛り上がる部分は、最初の方で行われる桜田門外での襲撃で終わってしまいますが、この事件が関係者にどのような運命を持たせているのかを、じっくり考えながら観て欲しい作品です。


ちなみに、曲がりなりにも歴史を齧った人間として管理人がお勧めしたいのは、やはり桜田門外の変のシーンです。
まだモノクロ時代の映画(三船敏郎の『侍』など)などでは時々描かれているのですが、彦根藩邸から登城する藩士たちが駆け足です。これって、ほとんど描かれないシーンです。桜田門外の変の映像として最近では特に人気が高い大河ドラマ『篤姫』でも彦根藩の行列はゆっくり歩いていました。
また、襲撃のシーンがしつこい時間ではなく、実際にこのくらいだったのではないか? と思われる(タバコを2.3服する時間)時間ですし、彦根藩士の河西忠左衛門や小河原秀乃丞もちゃんと描かれていました。
これは、びっくりでした。
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10月10日、大仏殿炎上

2010年10月10日 | 何の日?
永禄10年(1567)10月10日、松永久秀が東大寺を焼きました。
そして10年後の天正5年(1577)10月10日、信貴山城の戦いで爆死します。


松永久秀は、戦国を代表する梟雄の一人として戦国史に名前を残しています。

戦国の三梟雄と言えば、斎藤道三・宇喜多直家・松永久秀を指します。この内、斎藤道三と宇喜多直家は、謀略を用いて主君を倒し、一国を己の力でもぎ取った下剋上の代表のような人物ですが、他にも北条早雲や毛利元就もそれに近い事をしていますし、強いて言えば織田信長や羽柴秀吉はもっと大きな規模で下剋上を成し遂げたとも言えるので、戦国時代では当たり前の事だったとも言えます。


松永久秀が、これらの大名たちと違うところを挙げるなら、織田信長が徳川家康に久秀を紹介した時の言葉に要約されると思います。

「この男(久秀)は、常人ならばやらないであろう三つの悪行を行った。主君である三好長慶を殺したこと、将軍足利義輝を殺したこと、そして東大寺の大仏を焼いたことである」
主君を殺すぐらいは上記の人物のほとんどが行っていますが、将軍を殺したのは数えるほどしかいませんし、東大寺大仏殿はまだ2度目の炎上でしかありませんでした。そのうちの一度は6月にご紹介している平重衡斬首を参照してください。

信長の紹介を、久秀から言わせれば、「お前(信長)だって、尾張守護を追って、将軍足利義昭を追放し、延暦寺を焼いたじゃないか」と言いたかったところでしょうね。



そんな久秀三悪行の一つである永禄10年の東大寺大仏殿の炎上は、久秀のみを責めるのは疑問視があります。

この時期、三好家の宿老だった久秀は、同じく三好家家臣の三好三人衆との間に権力争いが生じ、また久秀の居城である多聞山城があった大和国の覇権を巡って筒井順慶とも戦が絶えませんでした。

こうして、永禄10年に三好三人衆と筒井順慶が東大寺に布陣して多聞山城での戦いとなります。

多聞山城から東大寺を見ると、目と鼻の先です。

久秀が焼いた大仏殿の模型


久秀自身は、東大寺を戦場とする事にためらいはあった様子ですが、戦に使われた以上は仕方がない部分もあり、10月10日深夜に三好軍に夜襲を強行します。

この時に松永軍の不手際なのか、三好軍が行ったのかは不明ですが、大仏殿を始めとする建物に火が付き、丑刻には大仏殿が消失しました。
この結果、大仏殿の頭部が落ちてしまうのです。現在の奈良の大仏はその後頭部が再び造られた物ですので、しっかり見ると首の部分で違っているのがわかります。

以前は久秀の故意による大仏殿炎上と思われていましたが、最近では失火との説が取られるようになり、久秀の三悪行の一つは名誉挽回されつつあります。


しかし、当時の人々はこの事件にショックを受けました。
この10年後、信貴山城で古天明平蜘蛛という茶釜に火薬を詰めて久秀が爆死した時、その日が10月10日であったことから後々まで因縁を語られるようになるのです。

実は、管理人としては、この最後の瞬間をもって久秀を良い評価で見ていません。

この世の中には権力者で文化遺産を収集した人物は多くいます。そのほとんどは不意な攻撃による死でない限り芸術品の保存に勤め、場合によっては攻撃側にそれらの品を引き渡した後に亡くなりました。
ヒトラーですら洞窟に隠しはしたものの、芸術品に危害が及ぶのを極力避けています。しかし久秀は信長に渡したくない一心で平蜘蛛に火薬をいれたのです。

茶人としても名高い久秀ですが、文化人としての評価については考え直す必要があると思います。

ただ、この話にも色々な伝説が付いてきます。
一つには、久秀は事前に平蜘蛛を交流の深かった柳生石舟斎に密かに預け、柳生家はそれを隠し持ち続けたが明治維新後に紛失した。
もう一つは、信貴山城落城後に城跡から掘り出され信長が愛用した。
と…
ちなみに掘り出されたという伝説がある茶釜は浜名湖館山美術博物館にあるそうです。


さて、このように悪名と壮絶な最期で戦国史に名前を残した松永久秀。その人生において、近江が関わった出来事があります。
信長の越前朝倉氏攻めで、小谷城の浅井長政が信長の元を離れて朝倉義景に味方した時、報せを受けた信長は、金ヶ崎から湖西を抜けて京へ戻る道を選びます。この時に信長の先駆けとして退却ルートに居る豪族を説得したのが久秀でした。
特に朽木越えの時に、浅井方に属していた朽木元綱がどのような対応をとるのかが信長の生死に関わる重大事だったのです。この時、元綱を説得したのが久秀でした。
朽木元綱が信長を招き入れ、京までの先導をしたことで、北近江の歴史が大きく変わってしまい、浅井家の滅亡となるのです。

ちなみに、朽木元綱は慶長5年には関ヶ原の戦いで小早川秀秋に呼応する形で西軍を裏切ります。戦国最大の梟雄がどのような説得を行ったのかはわかりませんが、元綱にとって30年経っても裏切りが正当化されるような言葉を含んでいたのではないか?と思うと興味深い瞬間です。
そう考えるなら、久秀の行動が、おのれ自身の悪行だけではなく、織田信長の命や関ヶ原の戦いの運命にも繋がってたと考えると面白いのかもしれませんね。
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第3回とりいもと宿場まつり

2010年10月03日 | イベント
今回で3回目となる『とりいもと宿場まつり』が、中山道鳥居本宿周辺で行われました。

佐和山城址を見学するイベントや、鳥居本宿の様々な建物を使った展示・販売、そして中井均先生による講演『知っとこ!佐和山城』などが行われました。

中山道の宿場町として栄えた鳥居本には、古い商家・民家も残っていて当時の風情を伝えています。
その中で、管理人がまず訪れたのは、旧庄屋住長新家でした。

独特の佇まいを残すお家で、二階への階段も今は見かけなくなってしまった空間を上手に利用した物でした。

二階には、不思議に少し高くなっている場所があり、家の方に後で訊ねると、その下がちょうど玄関だった事が判明。

空間の使い方が本当に上手いと思いました。

そして、登録有形文化財に指定された百々家住宅も訪問。

家の街道側に溝のようなモノがあり、そこを使って土戸(漆喰の雨戸のような物)が閉められるようになっていました。防火のためとの事ですが、戦に備えての防備とも考えられるそうです。
街道沿いに幾つかのお家でこの跡が見られるそうですが、とても興味深い歴史遺産ですね。
家の中にお邪魔すると、仏壇があり、その横に小さな床の間がありました。床の間が小さいのは武士に遠慮する為だったそうですが、蔵の中には大きな床の間があり、大切なお客さんはその中にお迎えしたそうです。これを“蔵ざしき”というそうです。
百々家住宅にも立派な蔵がありました。

お家の中の物はあまりネット上にはアップしませんが、本当に志向を凝らした住宅でした。公開の機会がありましたら見学に行かれる事をお勧めします。

そんな百々家住宅では「戦国石窯ピザ」の販売がありました。

石窯で焼いたピザにはイチジクが乗っています。じっくり焼き上がったピザは予想外に生地が柔らかくてとても食べやすかったです。

食べ物の話を続けるなら、今年も出ました三成汁。

そして三成にぎり。

宿場の方が一体となって作っていかれる様子が目に浮かぶようです。自家製のお漬物もいいですね。

また、佐和山城の発掘で出て来た遺物の展示も行われていました。



さいわいな事に、過去二年の発掘調査の現地説明会は立ち会って聴く事ができましたので、これらの遺物には見覚えがありますが、もし立ち会えて居なかったら、こういう機会で見れるのは本当に助かります。


お昼過ぎからは、中井均先生による『知っとこ!佐和山城』という講演が行われました。
佐和山城は、
・境目の城の時代
・織田信長政権下の時代
・豊臣秀吉政権下の時代
・井伊家居城としての時代
に分かれ、それぞれがはっきりとしている稀有の城であり、また破城の実態も解る城としても興味深いとの事でした。
井伊家にとって石田三成の城として敬遠するのではなく、彦根城に移った後も『徳川実紀』や『当代記』では彦根城の事を佐和山城と表現していて、家康から貰ったお目出度い城としていたとの事でした。
講演の内容は、文章にまとめて後日ご紹介します。


鳥居本と佐和山城をメインにしたイベント。
一度に全てを見学できないくらいに色々ありました。観る歩く食べる聴く学ぶなどなど…
贅沢な一日ですね。
コメント
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