彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

難転厄割石(井伊谷宮)

2021年08月30日 | 史跡

井伊直虎命日法要のときに、井伊谷宮もお参りします。



そこでふっと目に入ったのが「難転厄割石」という案内。

昨年は気が付かなかったのですが、いつからあるのでしょうか?


調べてみると、南天の庭にある石に「厄」と書いたかわらけ(素焼きの盃)を投げて割り、厄を転じるとのことでした。



さっそく挑戦

かわらけを一枚入手して、


「厄」と渾身の一字で書く。

あとは、難転厄割石に思いっきり投げ付けました。

割れないときは何度も挑戦して良いそうなのですが、一度で割りたくて力一杯投げ付けると、一回で割れましたが跳ね返った小さな破片が体に当たりました。

もしかしたら、厄は転じるけど小さな難はあるのでしょうかね?

それも含めてお告げだと考えたいと思います。



そして、今回受けた御朱印




最近は刀剣の御朱印も増えてきましたね。


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名勝 左富士

2021年08月29日 | 史跡

富士市の左富士に寄りました。




東海道を江戸から京に向かっていると、本来は道の右に富士山が見える筈なのですが水害により吉原宿が二度移転になりました。

それにより一部の行程で左に富士山が見える場所ができたのです。


それが歌川広重の浮世絵にも描かれる吉原宿の名勝になりました。






広重の絵では松並木の間の狭い道と左手に富士山が見えますが、今は松は1本しか残っておらず周囲もずいぶん変わっていますが、この松が江戸時代から残っていることだけでも歴史を感じる場所でした。


近くには左富士神社があり、境内に一里塚もありました。














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平家越え

2021年08月28日 | 史跡

平家越えは、富士川の戦いで平家軍が陣を置いた場所ともいわれています。






源頼朝が挙兵し鎌倉に入ると、反乱の芽を摘む為に平家が東に向けて軍を発しました。

富士川の戦いで平家軍の大将を務めたのは平維盛。

平清盛の嫡男として期待されながら若くして亡くなった平重盛の嫡男です。

本来なら清盛の嫡孫として中央政界で育つ立場なのですが、重盛死後は平家の中でも微妙な立場になっていたのです。


そんな維盛でも容易に勝てるであろう軍勢を引き連れての東進でした。

治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで対峙した維盛と源頼朝。

大軍を率いていた筈の維盛でしたが、平家軍の補給不備と源氏軍の勢いの強さで兵力が逆転していて平家軍の士気が下がっていました。

翌朝からの決戦と思われていたのですが、20日夜のうちに平家軍が陣から消えていたのです。


一説には、水鳥の羽音を源氏軍の夜襲と勘違いして平家軍が逃げたと言われています。

ちなみに当時の鎧の音を「ビビ」と表していて、水鳥の羽音を鎧の音に勘違いして逃げた平家の武士たちを揶揄した言葉として、小心者のことを「ビビり」と言うようになったとの説があります。


ビビりは、平安時代からの言葉と言うことですね。

そんなビビり語源の地とも言えるのが富士川の戦い古戦場なのです。

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井伊直孝産湯の井

2021年08月27日 | 井伊家関連

焼津市中里には、彦根藩二代藩主井伊直孝の産湯の井があります。






伝承として井伊直政が東海道岡部宿の本陣で宿泊したときに、中里の女性が夜の相手を務めてその女性が故郷で産んだ男子が直孝であり、その産湯に使われたのがこの井戸の水とのことです。


直孝の出生でよく知られている話は、直政の正室唐梅院(花)の侍女だった印具徳右衛門の娘養賢院(阿古)に直政が手を付けてしまい、阿古は怒った花に追い出されて在野で直孝を産んだというものです。

もちろん、花が実家を頼ったと考えるのが普通ですが、印具氏は相模国内に地縁があるため、焼津市のある駿河国との縁が濃いとは思えず実際にはどうだったのかはまだわかりません。


ただし中里が井伊直孝と無縁だった訳ではなく、寛永6年(1529)に産湯の西にある若宮八幡宮を直孝が再建していることからも直孝と中里に深い繋がりがあったことは注目すべき点だと感じています。









ちなみに、若宮八幡宮と直孝の繋がりは棟札に書かれています。その内容は境内の案内板で読めます。

また、若宮八幡宮の石橋も価値がある文化財とのことでした。



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井伊直虎命日法要

2021年08月26日 | イベント

今年も8月26日に井伊直虎命日法要が井伊谷龍潭寺で行われました。

直虎が亡くなったのは天正10年(1582)8月26日なので今年は439年、440回忌となります。


静岡県は緊急事態宣言下ですし、27日からは滋賀県や愛知県を含めた他県でも緊急事態宣言が追加されるようなコロナ禍ですので参加者も限られ縮小された法要となりました。


ですので、普段は本堂で行われる法要は場所を変えて御霊屋となりました。






御霊屋の正面、直盛公木像の前に直虎とご両親のお位牌が置かれご住職のお経に合わせて参列者が順番にご焼香させていただきました。







その後、墓所に移動して再びご焼香させていただきました。



短い時間でしたが今年も手を合わせることができたことに感謝しています。


個人的なことではありますが、今回はコロナウイルスのワクチン接種ができていたので県を跨いでの移動と参加をいたしましたが、他の方との密を避けるように注意しながらの生活は気を使います。

来年こそは落ち着いていますように願うばかりです。


いつものことですが、今年も直虎命日法要に合わせて小野但馬守供養塔にも手を合わせるに行きました。


碁石

蟹淵



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『人生を豊かにするお城の楽しみ方』

2021年08月25日 | 書籍紹介

Facebookでお友達になって下さっている“お城カタリスト”の野口紀美さんがお城の本『人生を豊かにするお城の楽しみ方』を出版されました。


お城の本と言っても、難しい専門書でも各城の訪れ方でもなく、お城を楽しむことをきっかけに人生も楽しくする内容でした。

ですので、難しいことは書かれていません、どこまでもお城に興味を持ってもらえることに重点が置かれていると思います。


だからだと思いますが、各節の最後に野口さんの主観があることも研究書ではない柔らかさを感じる一冊でした。


いろんなお城を扱っているのに、表紙が国宝五城ではなく丸岡城という点にも、この本の控えめさが現れている気もします。

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彦根城総構え400年(4)

2021年08月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 《道》は不思議である。「すべての道はローマに通ず」との有名な言葉があるように日本が記録に残る歴史を有する前から人類史の中で道は重視されていた。では道が人類の英知なのかと言えば、それは否と答えざるを得ない。動物が動く場所には目に見える形で獣道ができる。また植物が繁殖するルートも道である。極端な言い方をすれば単細胞生物が移動する行程も道と解釈できる。
 単細胞レベルでも確認できる《道》だが、一方で人類の経済活動にとって重要かつ不可欠な存在でもあるのだ。
 有史以来、人々の生活にまず道ができた。小さな村単位での生活では村の中に通る道で充分であり、生活圏が外へ広がるに比例して道も延びていく。そして近くの村の道と結ばれることとなる。今から四半世紀ほど前には史家から「江戸幕府はオランダや朝鮮などの使者に国土を広く感じさせるために街道を曲げて造らせた」との説明をよく聞いたが、実は先に個々の村々の道がありその道を無理やり繋げたことで道が無理に曲がる原因となった。地方分権であったため幕府といえども道を統一させるのは不可能だったのである。それでも五街道の制定などの国家事業を遂行させた功績は大きい。
 さて、長々と《道》の話を書いたが、戦国時代後期辺りから大名たちも道の重要性に気付くようになる。軍事道路を整備した武田信玄や楽市楽座により道を使い易くした六角定頼・今川氏真・織田信長などである。特に信長は東山道(中山道)から離れた安土に城を築くことで脇街道である下街道(現在は主に県道二号線)を現代でも使用される主要道路へと発展させた。
 城は必ずしも主要な街道沿いに建てなくても良いと信長が示した。この城下町造りは彦根城築城において発展を遂げる。安土では既存の下街道を利用したが、彦根城下町では新たな道を作っていく。第一期工事で彦根山周辺の村々を強制的に移転させ善利川の流れすら変えて生まれた広大な平地。中山道から離れたこの平地に町を造るには中山道から城下を通る道を考えなければならない。幸いにも信長の下街道が摺針峠から琵琶湖方面に結ばれているためこれを利用することとなる。鳥居本宿南端から佐和山の切通しを越えて彦根城下町に入る「彦根道」である。彦根道は下街道へ繋がり野洲宿から中山道に合流する道と、芹川の浅瀬を渡って高宮宿に入る道が考えられているがどちらにしても中山道を旅する人々が譜代大名筆頭井伊家の城下町に寄るためには中山道から外れることになる。現在の彦根市域で考えても彦根城下・高宮・鳥居本はそれぞれに経済効果があったのだ。その上で街道に大型兵器などを通させない軍事的観点から幕府は悪路を推奨した。このため旅人の殆どが徒歩である。城下町を中山道から離すだけで、彦根藩領を抜けるために数日の宿泊を行う旅行客が見込めたのである。私は彦根城完成後の町造りは、まず彦根道から始まったと考えている。

鳥居本宿南端・彦根道への石柱
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