永禄6年(1563)9月18日、井伊直平が亡くなりました。
75歳とも85歳とも言われていますが、75歳だとその後の子や孫たちとの年齢に支障がありますので85歳説を押す本をよく見かけます。
さて、井伊直平という人物を一言で表すならば、井伊家のどん底を味わった人物ともいうべきでしょうか?
井伊家は代々今川家と対立していましたが、明応7年(1498)の大地震で浜名湖が外洋と繋がると東海道が海沿いの道から浜名湖を回り込む道を使うようになり、井伊谷近くの経済的価値が上がってしまうのです。
これにより、今川家は拠点としての井伊領の価値を認め、井伊家と今川家の対立はより激しいものになりました。
永正5年(1508)、父の直氏死去。直平が井伊家の運命を握りますが、その直後に今川家の猛攻に耐えられず降伏し、詰めの城である三岳城を明け渡すことになるのです。
この後、20年近くを井伊谷近くの伊平で過ごしたとも言われています。
井伊谷に戻れたきっかけは、今川家の家督争い(花倉の乱)で今川義元に味方したためと言われていて、義元に娘を人質として差し出しますが、この娘が義元のお手付きとなった後に、妹として関口義広(瀬名親永)に嫁ぎ築山御前(徳川家康の正室)を生みました。
さて、井伊谷に戻ったあとからの井伊家には今川家に絡む不幸が続きます。
息子の直宗は今川軍の先発として出陣した田原城(または今橋城など諸説あり)で討死、直満と直義は謀反の疑いで駿府城にて斬殺。
娘は、桶狭間の戦いの後に家康が今川家から独立したために夫と共に自害。
孫の直盛(直宗の子)は桶狭間の戦いで義元近くに居て自害、直親(直満の子)も謀反を疑われ今川氏真の命で懸川(掛川)で殺害されたのです。
こうして、息子と娘、そして孫たちにも先立たれ、井伊家に残った最後の男子である虎松(後の直政。直親の子)に家を繋げるために再び井伊家を差配したのです。死の一年半前の事でした。
井伊家当主として、今川氏真からの無理な出陣要請にも応えなければならなかった直平。
氏真の三河攻めに際して、直平は三河との国境の遠江白須賀に陣を置きました。
この時に不運があり、陣から火が出て白須賀の建物が幾つか焼ける事態にもなったのです。氏真は井伊家の裏切りと勘違いして兵を懸川城まで撤退。火を出した直平に社山城の天野氏を攻めるように命じたのでした。
この出陣の途中で引馬城主飯尾連龍と妻のお田鶴の方が陣中見舞に訪れ、すでに氏真を裏切る決意をしていた連龍は妻に毒入りの茶を点てさせて直平に飲ませたとされています。
そして、徐々に毒に犯された直平は馬上から落ち、驚いた家臣の大石作左衛門が遺体を川名まで運んで埋めたとも、死を悟った直平が三岳城を守る存在となるべく川名まで最後の力を振り絞って馬を翔け鎧橋で命を落としたとも言われているのです。
大石はその後、直平を追って自害しました。
(鎧橋)
現在の墓は井伊直弼の命で作られたものと言われています。
関連地:浜松市北区引佐町川名