少し前に書きましたが、掛川には青木権之丞という藩士を調べるために寄りましたが、史跡も幾つか周りました。
掛川駅からも見える掛川城は、平成最初の木造で再建された天守が建つ城としても城郭ファンの注目を集めた場所です。
戦後の築城ブームとは異なり平成期からの再建では資料を基とした歴史的価値を求める城が再建されるようになっていて、掛川城はそのモデルケールでもあり、その後の城の再建計画には必ず「裏付けができる資料の存在」が重要視されるようになります。 これは逆説的に言えば城の再建には足枷ができた状態でもあるので、例えば戦時中まで残っていた名古屋城天守は明細な調査資料があるために木造再建は可能ですが、明治前期の西南戦争で焼けた熊本城の資料は現段階で発見されていないため現状のコンクリート天守を修繕しながら維持することが求められるのです。
…話が大きく反れてしまいましたので元に戻します。
掛川は、浜松と同じように東海道の要所になる宿場町を城下町に組み込んだお城で、譜代大名が何度も入れ替わって掛川藩主を務めました。
また戦国時代には徳川家康の遠江侵攻に対して最後まで抵抗した場所でもあり、今川氏真(義元の息子)が家康に降伏するまで籠った城でもあります。ですので戦国大名今川家終焉の地でもあるのです。
また、今川家全盛期には氏真に召喚された井伊直親(直虎の許嫁で直政の実父)は掛川城下に入る手前で掛川城主・朝比奈泰朝に暗殺されています。
江戸時代に入り、彦根藩から分かれた直勝系井伊家が掛川藩主を務めた時期がありましたが、井伊直武という人物が病による疾患のために参勤交代をボイコットして藩が取り潰しになります。
今川家にも井伊家にも因縁の地になるのが掛川城ということになります。
豊臣秀吉が天下統一を果たしたのち、掛川城には山内一豊が入ります。
今の天守の原型を作ったのは一豊なのですが、関ケ原の戦いののちに高知城に入った一豊は、高知城天守を掛川城天守に模して造らせました。 この二城はその後もお互いを模し続けたため、平成の再建の際にも掛川城の外観のモデルは江戸時代から残る高知城天守を参考に作られているのです。
余談ですが、掛川城は朝比奈泰朝の祖父泰煕が近くの丘から拠点を移した城ですが、本丸の辺りは築城前に墓地だったことが再建前の発掘調査でわかっています。
日本人は、様々な地域で遺体を神聖化する事があり、その極端な例は人柱などにもなるのですが、死を神に捧げながら、地鎮祭をして地の神を鎮める儀式も行うこともあります。
と、するならば、墓地であった場所に城を築くことも、人柱を捧げることも、石垣に墓石や石仏を使うことも宗教的観点からは同じ思想に基づくのではないか?
と、考えています。