彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの話(7)冷やかす

2025年02月16日 | 史跡

『べらぼう』7話の紀行では山谷堀についての案内がありました


昔は細長い堀で、それに沿って堤防が築かれていてこれを「日本堤」と言いました。

現在では山谷堀は埋め立てられて公園になっていますが、浅草から吉原に行く時にここを歩くと当時の気分に浸れるかも?


吉原に行くにはこの日本堤を歩くか、山谷堀を猪牙舟に乗って行くことになります、猪牙舟はスピードが早かったみたいですが、お金がある人の移動手段だったみたいですね。



さて、山谷堀が水路であったということは、所々に橋が架かっていることになります。

今も橋柱を見ることができますが、その中でも注目したいのが「紙洗橋」です。


当時、浅草紙という物がありました。

これは古紙を回収して熱して溶かして冷やして砕いて漉き直す、いわゆる安価なリサイクルの紙でした。

この浅草紙を作っていた職人がたくさん働いているのが紙洗橋の辺りでしたが、吉原にも近い場所だったのです。

このため、職人たちは紙を溶かしてから冷めるまでの空いた時間に吉原見物に行っていたのです。


見物だけで、客になる訳ではないので、買う気持ちがないのに見に行くだけの行為を「冷やかす」と言うようになりました。

紙洗橋は、「冷やかす」語源の地なのです。

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べらぼうの話(6)佐野政言

2025年02月09日 | 史跡
『べらぼう』6話では、旗本の佐野善左衛門政言が、田沼意知に系図を贈っていたので、佐野家の話

佐野家は、名家として知られた家でした。 

その由来は、鎌倉時代の事。 
六代執権・北条時経(元寇時の執権・北条時宗の父)は、早くに執権職を引退して出家し諸国を巡る旅をしていたのです。 
同じ頃、上野国佐野での事。一人の旅の僧が雪の中で往生していた… 
近くに一軒の家があったので泊めてもらう事になったのですが、そこには貧しい夫婦しか住んでいなかったのです。
外の雪が激しくなるのですが囲炉裏の火は消えかかっていたのです。主人は秘蔵の鉢の梅・松・桜の木を囲炉裏にくべて僧を凍えさせないように精一杯もてなしたのでした。 
やがて貧しい主人は自分の事を語り始めます。主人の名は佐野源左衛門常世。 
「叔父に所領を奪われ貧乏暮らしをしているが、合戦が起こりいざ鎌倉という時には一番にはせ参じる」と僧に語ったのです。 
やがて、鎌倉から召集が来た時佐野常世は一番に駆けつけました。そこで雪の日の僧が北条時頼だった事を知たのです、そして時頼から鉢の木の礼に梅田・桜井・松井田の領地を与えられたのでした。 
この話は創作なのですが謡曲『鉢木』や『いざ鎌倉』と言う話を生んで武士道の見本となったのです。 

佐野善左衛門は、佐野源左衛門の子孫と称していてこれが名門の所以となったのです。
佐野家は藤原秀郷の子孫基綱が源頼朝の御家人として下野国佐野荘地頭に任ぜられて佐野姓を称しました。その孫の実綱には多くの子がいて所領を子らに分割相続させます。その中の1人重綱が田沼の地を得て田沼姓を称し佐野家の家臣となったのです。
佐野善左衛門が田沼家が家来筋であったことを主張するのはここに起因します。

このままでしたら田沼意次は、姓名を「藤原意次」と記さねばなりませんが、史料では「源意次」と書いています。これは田沼重綱の五代後の田沼光房に男子がいなかったため娘の嫁ぎ先から孫を養子として迎えて家を継がせました、この養子は田沼重綱(初代と同じでややこしい)と名乗りますがその父は高瀬忠重という人物で清和源氏新田家の末だったのです。この時から田沼意次の田沼家は源姓を使うことになります。
余談ですが、田沼光房は田沼家傍流であり田沼本家は戦国時代に佐野家家臣として後北条家に仕えています。

佐野善左衛門自身佐野家本家ではありませんし、田沼意次の田沼家は忍城成田氏に仕えたあと武田氏そして紀州藩へと主を変えます。
つまり、厳密に両家に主従関係を求めるなら鎌倉時代の短い期間と考えねばなりません。

佐野善左衛門が名家佐野家の系図を田沼意知に渡したのは、当時の武士が出世の足掛かりに家格を重視した風潮から「名門佐野家を利用していいぞ」との意味を含めたとされています。
しかし、すでに将軍の側用人であり老中まで出世していた田沼意次には何の意味もない物だったのです。

佐野善左衛門屋敷跡




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『べらぼう』の話(4)地本問屋

2025年01月26日 | 史跡

蔦屋重三郎が苦い想いをしたのは、当時の出版事情だったかもしれません


江戸時代前期は上方で続いていた文化を引き継いで行く形で、上方が出版の中心地でした

そのような上方で発生したものが関東などの地方に行くことを「下る」といい、本も「下り本」と呼ばれました

余談ですが、品質が悪くて下ることもできないものが語源として「くだらない」との言葉が生まれます


しかし、江戸でも上方に頼らない文化が起こります

このように江戸を地元として生まれた本が「地本」と呼ばれ、赤本、青本、黄表紙などがこの中に入ります(学術書などは地本に含まれない)

地本を作り販売したのが「地本問屋」ですが、これは株仲間を組織していて株を手に入れないと江戸市中での出版販売が許可されなかったのです

また、地本以外の本は書物問屋が存在しました


蔦屋重三郎は、通油町に店を構えた丸屋から地本問屋の株を買い、丸屋の店舗を居抜き改装して耕書堂のメインを吉原大門から通油町に移転したのです

これにより、耕書堂にも書肆としての肩書が使えるようになります


通油町の耕堂堂跡


蔦屋重三郎はのちに書物問屋株も手に入れています
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『べらぼう』の話(2)三貨制度

2025年01月12日 | 史跡
田沼意次が考案した「南鐐二朱銀」が登場したので今回は当時の貨幣制度の話

江戸時代が始まる少し前の慶長5年(1600)から明治4年(1871)まで270年に渡り日本の貨幣制度は
・江戸…金本位制
・上方…銀本位制
・共通…銭
という3つの貨幣を用いた「三貨制度」が使われていました

金本位制は
1両=4分=16朱 の四進法
銀本位制は
1貫=1000匁=10000分 の変則的な十進法
銭は
1貫文=1000文

でした
金の分と銀の分が同じ単位に見えますが、実は金は「ぶ」銀は「ふん」と呼び全く違う単位だったのです
しかも金貨(小判)から銀貨への交換には間に丁銀や豆板銀と呼ばれる銀の塊が介入し、この銀の重さが金貨や銀貨の価値がどれくらいか?という価値が毎日変動したのです
現代でいえば、円とドルの為替が金の価値で決まるのと同じ仕組みです

つまり、同じ日本でありながら為替相場が存在したのでした
そして、金と銀を混合して使うことができないため貨幣を両替する「両替商」が発展
場合によっては3割近い交換手数料を取ったために両替商が潤って行き近代の財閥へと発展したのでした

田沼意次は、この捻れた貨幣制度の不備に気付き、銀貨でありながら金貨の単位である朱を使った「南鐐二朱銀」を鋳造しました
最初は商人から無視されましたが、南鐐二朱銀を無利息で貸出すなどの政策により世に広がりました
田沼意次失脚後に松平定信は鋳造を中止
しかし、その利便性が認められていたために後に新しく鋳造されて再び鋳造されたのです

ちなみに銭は今で言う小銭の様な扱いですし、6世紀には日本に伝わり、鎌倉時代などでは宋銭を輸入するなどして少ないながら使用例もあることから全国で統一されていたようです
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『べらぼう』の話(1)吉原

2025年01月05日 | 史跡
調子に乗って、ちょっと『べらぼう』の話

今回は吉原

明和九年(1772)、目黒行人坂大火は放火によって大災害となりました、これは江戸三大大火(残りは明暦と丙寅)のひとつに数えられています
この時、火付盗賊改だった長谷川宣雄は犯人を逮捕処刑した功績で京都西町奉行に出世しますが、現地で病死します

(京都華光院の長谷川宣雄の墓石は無縁仏の中に混ざっているそうです)


宣雄の息子が長谷川宣以、長谷川家は代々「平蔵」の通名を使うので「鬼平」として知られるようになりますが、宣以は若い頃に放蕩息子でした
(長谷川宣以が育った地)

(長谷川平蔵供養碑、新宿区戒行寺)


ちなみに、当時から「明和九年」は「迷惑年」と野次られ11月16日に「安永」に改元されます


さて、吉原は普段は堀で囲まれ大門しか出入口がない場所ですが火事などで焼き出されると復旧までは他の場所での営業が許され仮場での代金は安くなり面倒なしきたりも簡略化されるため客が増えることになり、場末の女性にも客が付きやすくなります
ドラマで火付をしようとした河岸見世の女性がいたのは、火事になれば客が来て満足な食事ができるようになるためでした

そして、吉原の年季が明けなかったり借金が残ったりして廓から出られずに亡くなった女性の遺体は近くの寺に運ばれて埋葬されます
吉原は浄閑寺というお寺でした
亡くなって寺に運ぶ時は襦袢姿ですが、埋葬の時に穴掘り人足が裸にして襦袢は古着屋に売りました。これが手間賃のような形だったのです

蔦屋重三郎は、吉原大門近くで養父の店を間借りして吉原を中心に回る貸本屋を行っていました
貸本屋の段階では自ら本を作って江戸市中で販売する版元の仕事はできません(株が居る)
そんなスタートだったのです

ちなみに、養家の苗字は「喜多川」
親類には初代中村仲蔵もいると言われていますが、この関係はあまりわかりません
(見返り柳)

(道から大門が見えないように曲がっている五十間道)

(吉原大門跡)

(大門と耕書堂の案内板)

(お歯黒溝の痕跡と言われる石垣)


(吉原神社)

(幕末の吉原を描いたとされる葛飾応為(北斎の娘)の『吉原格子先之図』(ポストカードを撮影))



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本居宣長宅跡と鈴屋

2024年09月16日 | 史跡

寛政7年(1795)3月25日、蔦屋重三郎が伊勢国松阪の国学者・本居宣長と面会しました。


宣長の随筆『雅事要案』には

「同廿五日来ル 一 江戸油通町蔦屋重三郎来ル 右ハ蔭春海ナトコンイノ書林也」

と記しています。

春海はたぶん宣長と同じ国学者の村田春海ではなでしょうか?

近年では、春海の隣に住んでいた斉藤十郎兵衛が東洲斎写楽だとも言われていますし、春海は若い頃に吉原に通っていたようですので、蔦屋重三郎と本居宣長は村田春海を仲介して面会を果たしたと考えて間違いないでしょう。


田沼時代に様々なアイデアで流行を作り続けた蔦屋重三郎でしたが、寛政の改革で罰を受けながらも喜多川歌麿や写楽をプロデュースして行くのです。

しかし、その一方で初期の頃から版元として着実な仕事も続けていて、その版元としての正当な仕事として世間の話題になりつつあった国学書の版権を得るために伊勢まで出向いて本居宣長に面会したのでしょう。


面会の記録はほとんど残っておらず、蔦屋重三郎も旅行記などを残していないために細かい内容はわかりませんが、商売の話がメインだったように思います。


2人が会った場所は本居宣長宅でしょうから、現在「本居宣長宅跡」になっている場所でしょう









そして、2人が出会った建物は松坂城跡に移築された「本居宣長旧宅 鈴屋」です。







本居宣長像(鈴屋内)


2人の面会から2年後(寛政9年5月6日)蔦屋重三郎はこの世を去る

蔦屋にとって最晩年ともなる旅行の記録をもっと知りたかったと残念にも思えてしまう。



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寿福院逆修塔(妙本寺) 訪問

2022年08月19日 | 史跡
寿福院逆修塔(鎌倉市大町1-15-1 妙本寺)

一幡の袖塚の後ろに一際目立つ大きな五輪塔があり、見に行くと「加賀太守宰相卿之御母公壽福院殿日榮逆修」とか「元和第十甲子六月十二日」と言った文字が読めたので写真だけ撮っておきました。


で、調べてみると、加賀太守宰相卿は、加賀藩二代藩主前田利常のことでありその母は寿福院こと千代保の方だったのです。


千代保の方は、朝倉家の家臣の出身ですが、芳春院(まつ)の侍女として前田利家に仕えて、利家のお手付きとなり側室になるのです。
日蓮宗に深く帰依していて加賀藩領に日蓮宗の寺を創建します。妙な縁から息子利常が加賀藩主になったため、芳春院に替わり人質として江戸に行きました。
その頃に、妙本寺に逆修塔(生前に建立する自らの墓)を建立したのです。

寿福院は、逆修塔建立の五年後(寛永8年3月6日)に加賀藩江戸藩邸で亡くなり遺灰は金沢に住まう時に帰依していた能登の妙成寺に納められ、この逆修塔は供養塔となりました。
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源媄子之墓(妙本寺) 訪問

2022年08月14日 | 史跡

現在の説では、源頼家には四男一女の子どもがいたと言われています。

男子(一幡、公暁、栄実、禅暁)はすべて北条義時の絡む事件で非業の死を遂げました。残された一女は妙本寺の記録では媄子(よしこ)という名前で記されていますが、歴史的にはその住まいである「竹御所」と呼ばれています。


比企能員の乱の前年である建仁2年(1202)に誕生。

比企一族滅亡と父頼家の死により、北条政子に保護され15歳の時に三代将軍で叔父の源実朝の御台所・坊門信子の猶子となったのです。

この後に、栄実が泉親衡の乱に巻き込まれ、出家し栄西の弟子になるが殺害され、実朝が公暁に暗殺され、頼朝の血を受け継いだ唯一の男子となった禅暁も暗殺されてしまい、媄子は頼朝の血を残す唯一の生き残りとして御家人たちの拠り所となり、北条政子の後を明確な血筋で引き継いだのです。


実朝亡き後、本来なら京都から天皇の子を将軍(鎌倉殿)に迎える予定でしたが叶わず、鎌倉で預かっていた九条道家の子三寅を元服させて藤原頼経と名乗らせ、その正当性を維持する為に媄子が嫁いだのでした。

頼経13歳、媄子29歳だったのです。


四年後、媄子33歳で懐妊。

今でも30代の妊娠は慎重に進められますが、登場では超高齢の初産ということになり、媄子は男児を死産して自身も亡くなってしまったのです。

こうして、頼朝の血を残す者は歴史から消滅したのです(庶子はいると思います)。


媄子の母については諸説語られますが、竹御所は比企谷にあり、墓も比企一族が眠る妙本寺にあることから、母は比企能員の娘・若狭局ではないか?とも言われています。


源媄子之墓







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比企一族の墓(妙本寺) 訪問

2022年08月13日 | 史跡
比企谷と呼ばれいる、比企能員屋敷跡に建立された妙本寺





ここに比企能員一族の墓があります。



源頼朝の乳母に比企尼という人物がいて、比企尼は頼朝が蛭ヶ小島に流されたあとには自らが20年に渡って援助し、長女・丹後内侍の夫である安達盛長を頼朝に従わせるなどの貢献をしました。
(丹後内侍の前夫との子が島津忠久とも言われています。また盛長との間の娘が源範頼に嫁いでいます)

この功績から、比企尼の甥を比企尼の養子にして比企氏を頼朝の重臣とします。これが比企能員です。
能員自身も頼朝に従って活躍し、頼朝の嫡男頼家の乳母夫にも選ばれたのです。
やがて、能員の娘・若狭局が頼家の側室となり長男・一幡が誕生します。

頼朝の死後、頼家補佐のための十三人の合議制が形成されますが内情は、比企能員と北条時政の権力争いだったのです。

この時点で、北条時政は頼朝の正室の父に過ぎず、比企尼をバックに控えた比企能員の方が実力者であったと考えられます。

やがて頼家が病に倒れ、その隙をついて時政が能員を暗殺しました。
『吾妻鏡』では、仏事の相談に時政の屋敷に呼ばれた能員は、平服で時政邸に入り、武装した天野遠景と仁田忠常に殺害されたとされています。
この話がどこまで本当かはわかりませんが、史実に近いならば、能員にとっては時政は自分より遥か下の存在だったと見ていたのではないでしょうか?

こうして、主を失った比企一族は北条軍に攻められ、一幡の住む小御所に籠って戦いましたが小御所に火を放って自害したのです。この時に若狭局と一幡(数え6歳)もその場で焼死したと言われています、建仁3年(1203)9月2日のことでした。
遺体は発見されず、焼け跡に残った小袖の切れ端を乳母が確認したために、墓代わりの供養塔として後に妙本寺に袖塚が作られました。




しかし『愚管抄』では若狭局と一幡は小御所から逃げていて北条義時に捕まり11月3日に刺し殺されたとも記されています。


妙本寺の御朱印




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水無瀬神宮 訪問

2022年05月07日 | 史跡

承久の乱で北条義時追討の院宣を出し敗れて隠岐に流された後鳥羽院が離宮としていたのが、水無瀬でした。


隠岐で生涯を終えることになった後鳥羽院は、崩御の14日前に水無瀬信成と親成親子に自らの手型を押した置文(国宝『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』)を書き、水無瀬離宮跡で後生を弔うように願ったのです。

これを受けた水無瀬親子は藤原信実が描いた後鳥羽院の御影を祀った水無瀬御影堂を離宮跡に建立したのが水無瀬神宮の始まりとされています。



本殿は、明正天皇の内侍所を移築した物

客殿は、豊臣秀吉献納、福島正則造営




神門は、安土桃山時代の建築

茶室「燈心席」は、御水尾上皇の遺構


神宮の周囲は土塁や堀



そして、手水舎の水は大阪府下唯一の名水「離宮の水」

という、見所に恵まれた場所です。


御朱印は、自ら装飾を加える事も可能です。



また、最寄り駅であるJR島本駅前の島本町立歴史文化資料館では、後鳥羽天皇宸翰御手印置文の複製が展示されていて、手の大きさを比べることもできました。


これで、大きさを比べられます。



同館に展示されている後鳥羽院御影の複製



時代は少し変わりますが、同館に展示されていた戊辰戦争で樟葉台場から放たれた砲弾は興味深い物でした。




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