彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会

2016年03月27日 | 史跡
佐和山城伝本丸跡で、破城の形跡が見つかったとのニュースが流れたので現地説明会を聴きに行きました。


場所は、伝本丸の北東側、東山道や大手側から見えたであろう場所。
こちら側には石垣と伝わる遺構も多少残っていたので、その近くを掘ってみたとのことです。
その結果、石垣が二段構成で造られた高石垣だったことがわかったのです。

そして、埋められた石は栗石しかなく、鏡石は全く見つからなかったこと、伝本丸を崩す時、曲輪面を削るだけではなく岩盤の硬い面まで削っていたことがわかったとのことです。
石垣の根石も発見されませんでした。

破城は短時間に一気に行われていたのですが、よく伝えられるような石田三成憎しで政権交代を象徴するような破城ではなく、一気に崩しながらも丁寧さがあるのではないか?
とのことでした。
なぜ、丁寧な破城なのか?との謎解きを楽しんで下さいとのことです。

◯石垣上部側面

◯石垣上部崩れた栗石



○上部曲輪掘削部分


◯石垣下部を上から覗く

◯石垣下部、北東より見る
この平坦面より伝本丸の上まで高石垣があった。
二段石垣の下はこれより下部にある

◯崩れた栗石

◯瓦も見つかった

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井伊家千年の歴史(5)

2016年03月13日 | ふることふみ(DADAjournal)
 鎌倉時代になると井伊家は一族の中から他の姓を称する人物も登場する。そのような人々が血の繋がりによる団結と場合によっては権力を争うこともありながら遠江国に井伊家の血縁が広がって行った。既に井伊家と血縁関係があるかもしれない遠江武士として横地氏と勝俣(勝間田)氏を記しているが、他の家についても紹介したいと思う。

赤佐氏は、井伊家から早く分かれた家だとされている。保元の乱の頃に井伊家は六代盛直が当主だったと伝えられていて三人の男子が井伊良直・赤佐俊直・貫名政直と名乗り井伊家を含む三家に分かれたのだった。赤佐氏は後に奥山氏を名乗り、井伊直虎の人生に大きく関わる家でもある。
渋川氏は、十代直行の息子の上野直助から始まる家だとされていて渋川村を拠点にしていたことから渋川井伊家とも記されている。室町時代中頃に渋川村で藤原姓を称して神仏への寄進を多く行っていて井伊谷井伊家よりも渋川家が本流だったのではないかとも説もあるが、遠江守護の斯波氏に味方していたため今川氏親が斯波義達に勝利した後に甲斐国(山梨県)へ逃れている。
中野氏は、井伊谷では比較的新しい一族で室町時代後期に十八代忠直の息子中野直房から始まる。中野家から井伊直政の母が再嫁した松下清景(豊臣秀吉が最初に仕えた松下嘉兵衛の一門)に養子に入る人物が出て、その子孫は江戸期を通じて直勝系井伊家の家老を務める。
井平氏は、八代彌直の息子の井平直時から始まるとされている。井平安直・直郷の娘はそれぞれ井伊直平・直宗に嫁していて井伊家との結びつきも強い。そして元亀三年(一五七二)の三方ヶ原の戦いへと続く武田信玄の遠江侵攻の一つ仏坂の戦いで山県昌景と対峙し井平直成討死。井伊直平の息子の直種が井平家を継ぐが、その子弥三郎が井伊直政に従って小田原の陣に参戦し討死。家は断絶する。
貫名氏は、赤佐氏と共に井伊家から分かれた貫名政直の家系。政直の曾孫(孫?)である貫名重忠の頃に承久の乱が勃発し、重忠は反幕府に内通する(それ以前の三日平氏の乱との説もある)。その責を問われて安房国(千葉県)に流され、配所で誕生した男子が日蓮上人だった。日蓮宗の宗派紋が井桁に橘となっているのは井伊家との繋がりがあるからとも考えられている。
 彦根藩に詳しい方々にとっては、彦根藩士の姓として見覚えがある名もあったのではないだろうか? 
 彦根藩では四代藩主井伊直興や十三代藩主井伊直弼など歴代藩主がそれぞれに井伊家の歴史を調査させている。特に直弼は井伊谷などで先祖などの墓の建立などをさせているが、同時に古い時代の井伊家に連なる名家の姓を身内に与えて家を再興させたのだった。それらの家は彦根藩主一門であり重臣として戊辰戦争で指揮を執り、武士が終わる時代にも井伊家の武士として恥ずかしくない活躍を見せたのだ。

鎌倉・日蓮上人辻説法跡
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