彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家千年の歴史(4)

2016年02月14日 | ふることふみ(DADAjournal)
 保元の乱の時に少しだけ名前が登場する井八郎が、源義朝に従いその後も井伊家が源氏に味方していただろうとの可能性を前稿で記した。今稿からは鎌倉時代の井伊家を紹介して行こうと思う。
 鎌倉幕府は公式記録として『吾妻鏡』を記し、当時の情勢を現在に伝えている。『吾妻鏡』の中に井伊家に関わるであろう記録が登場するのは建久2年(1191)4月30日になる。記録された人物は井伊六郎直綱、しかも近江で起こった事件に関わっているのだ。
 直綱の名前が登場する前の月に近江国佐々木庄で事件は起こった。佐々木庄は延暦寺の所領の一部が入っているが前年に水害が遭った為に領主の佐々木定重とその父の定綱、そして領民たちも比叡山に年貢を納められなかった。そこで衆徒が日吉社の宮仕法師たちを派遣すると、宮仕法師らは神鏡を奉じて佐々木庄の定綱屋敷に押し入って門や城壁を破壊し屋敷内の人々に大層な屈辱を与えたのだった。定重がこれに怒り、宮仕法師の一、二人を家臣に命じて斬らせて殺害、誤って神鏡を破損させたのだ。この事件を受けて、比叡山の山徒が蜂起し佐々木定重の身柄を渡すように求める訴状を鎌倉に送る。この訴状が鎌倉に届いたの4四月30日であり、書状の中で佐々木定綱・定重親子の以外に宮仕法師刃傷事件の中心人物として井伊直綱ら五名を挙げている。
 源頼朝は、この事件に対し佐々木一族四名に流罪、井伊直綱ら五名に禁獄(入牢)の沙汰を下したが、佐々木定重が逃亡しすぐに捕えられて唐崎で首を刎ねられ晒されたのだった。他の佐々木一族や五人の禁獄者は後に許されて元の地位に復帰している。
 さて、この話に登場する井伊直綱が何者であるのかも井伊家系図では教えてくれない。しかし佐々木定綱は前項で登場した保元の乱で源義朝の下に参じた近江武士佐々木秀義の息子であることを考えると、秀義と共に戦った井八郎の関係者(場合によっては息子)ではないかと考えてもおかしくないのではないだろうか? 記録には残らない憶測でしかないが、佐々木秀義と井八郎は戦の中で意気投合しやがてその交流は息子たちに引き継がれるようになった、だから佐々木定綱と井伊直綱は共に同じ「綱」の字を名前に使ったのではないか? とも考えてしまう。そこまでの深い交流が考え過ぎとしても、佐々木家に井伊家が仕え近江に居たことは間違いないのだ。
 続いて、日吉社宮仕法師刃傷事件が起こった場所がどこであったのかを考えてみる。事件の前年に源頼朝が小脇宿で一泊した記録があり、その半世紀後に小脇に佐々木家の館が登場することから、小脇館が事件現場である可能性もある。小脇館は太郎坊の麓にあったとされているが、井伊家が直政より400年も前に近江に関わったのであれば、興味深い事例ではないだろうか?

六角氏居館・小脇館跡
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150年前:河合耆三郎切腹(2月12日)

2016年02月12日 | 何の日?
慶応2年(1866)2月12日、新選組会計方の河合耆三郎が切腹しました。

播州(兵庫県)高砂の米問屋の息子・河合耆三郎は、新選組がまだ壬生浪士隊と名乗っていた頃に参加した古株の一人です。商人の息子なので愛嬌もよく、時には隊士にポケットマネーからお金を貸し出したりもしていて、新選組の中でも人望があったと言われています。
芹沢鴨が暗殺されて、新選組の全権を握った土方歳三は、河合の人柄と商人出身らしいそろばん勘定の巧みさを信頼して新選組の金を直接扱う会計方第二席に任命し、幾度かの隊務変更改革の時も河合の仕事だけは絶対に変えなかったくらいだったのです。
耆三郎の父・信兵衛はそんな息子の出世に喜び、時々京都まで様子を見に来ていたといわれています。


慶応2年2月2日朝、河合が隊の金を数えてみると50両の金がなくなっている事に気がつきます。
この時、近藤勇は広島に出張していて、隊の事は土方がみているので、この事が発覚すれば只では済まないことは目に見えています。河合は、実家の信兵衛のもとへ早飛脚を出し50両の補填をしようと考えたのです。


タイミングが悪い時はあるモノで、河合耆三郎が父に宛てて早飛脚を出した日に、土方歳三が河合を呼び出し、隊の金が500両必要となったので金を出すように指示したのです。
この金が、なぜ必要な金だったのかは判っていません。一説には近藤勇が深雪太夫を身請けする為に必要だったとも言われているのですが、この時、近藤は広島に出張中なのでそれは考え難く、もしかしたら土方が河合に対して何らかの黒い疑惑を持っていたのかもしれません。

とにかく、隊の金は50両が無かった為に500両より足りなかったのです。


土方は会計方が金の管理を怠った事の責任を問い、河合に切腹の沙汰を下したのです。
河合は「5.6日の内には実家から50両が届く」と話し、金を補填する事で切腹を取り消して貰う特約を受けます。
土方としても河合を殺す気は無かったらしく(試しただけか?)、10日間の余裕を持たせたといわれています。
しかし、10日が過ぎた2月12日になっても金は届かず、同日、河合は切腹したのでした。
切腹の直前、河合は自分が切腹になるのか斬首になるのかを気にしていたとも伝わっています。



河合耆三郎が切腹して3日後、河合が待ち焦がれた飛脚が到着。
父・信兵衛が商いの為に他所へ出かけていたために手紙を読むのが遅た為だったらしい。
この辺りの予測が出来なかった事は河合の見識の甘さだったとも言えなくは無いですね。。
息子の切腹を知った信兵衛は親族を引き連れて京に上り近藤や土方に会いに西本願寺の屯所を何度も訪れたのだとか。
その度に門前で追い出されたのです。そして度々騒がれてどうにもならないのできつく脅すと来なくなったそうです。
しかし、屯所の周りには怪しい浪人がウロウロしたり、ボーと屯所の方を覗く信兵衛の姿が何度も目撃されたらしい(らしいとしか言えませんが)。
ちなみに、河合切腹の3日後に届いた金を土方歳三が受け取ったのか否かは調査不足で解からりませんが、土方の事だから受け取ったと思っています。
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