彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:中島名左衛門暗殺(5月29日)

2013年05月29日 | 何の日?
文久3年(1863)5月29日、長州藩砲術指南・中島名左衛門が暗殺されました。

中島は長崎生まれで、西洋砲術の祖でもある高島秋帆に砲術を学んだ人物でした。長州藩はそんな中島を安政6年(1859)に砲術指南として招いたのです。
関門海峡の砲台を築き、下関事件の舞台を造った人物こそが中島名左衛門でした。

3度の砲撃に勝利して浮き足立っている長州藩士(特に光明寺党)は中島に砲台の素晴らしさを讃えるのですが、中島は「急ごしらえであり、砲撃も未熟である」との意見を口にしたのです。
これを聞いた藩士たちは怒り、その日のうちに惨殺されてしまったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:長州藩、メデューサ号砲撃(5月26日)

2013年05月26日 | 何の日?
文久3年(1863)5月26日、長州藩がオランダ軍艦メデューサ号を砲撃しました。

長州藩の攘夷決行は一度ではなく、何度も行われていたのです。この日は関門海峡を渡るオランダ軍艦メデューサ号を、庚申丸と癸亥丸に乗って砲撃したのです。
メデューサ号も応戦し、長州藩の2隻は損傷し、陸の民家4棟にも被害が出たのです。

しかし真剣に戦う意思がなかったメデューサ号は1時間ほどで戦線を離脱し、長州藩は勝利に沸いたのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:土佐勤王党解散命令(5月24日)

2013年05月24日 | 何の日?
文久3年(1863)5月24日、山内容堂が土佐勤王等へ自粛を求めました。

前年より京都を中心に活動していた土佐勤王党でしたが、文久3年に入ってすぐの頃から容堂は危険視していました。それは上洛した容堂が直接京都で感じたことであり、これが原因で1月29日に平井収二郎らに帰国を命じて土佐で投獄していたのです。

そして5月24日には藩校致道館で土佐勤王党の自粛を命じたのです。これにより土佐勤王党は実質的に土佐藩によって解散命令が出たことになったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:長州藩、キェンシャン号砲撃(5月23日)

2013年05月23日 | 何の日?
文久3年(1863)5月23日、長州藩がフランス軍艦キェンシャン号を砲撃しました。

5月10日の攘夷決行に続き、長州藩は関門海峡を渡る外国船を砲撃したのです。5月10日の砲撃について列強諸国は幕府が攘夷を行う気がないことを確認していました。
このため、キェンシャン号は最初の砲撃では被害がなかったにも関わらず、砲撃の真意を探るためにボートを下して確認に向かわせたのです。
このボートが砲撃の対象となり水兵4人が死亡。書記官1名が怪我を負う事態となりました。

キェンシャン号は、軽い応戦をしながら関門海峡を脱出したのです。
長州藩士はこの勝利を喜んだのですが、200発近い砲弾を撃って、命中したのは7発という現実と向き合うことはなかったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:猿ヶ辻の変(5月20日)

2013年05月20日 | 何の日?
文久3年(1863)5月20日、姉小路公知が、京都御所の猿ヶ辻で暗殺されました。享年26歳。

当時の朝廷は、開国を進める幕府に寄った開国派と、長州藩に寄った攘夷派の公家が争っていた時期でしたが、公知は攘夷派の急先鋒とも目されていた人物でした。
この頃の京都では、安政の大獄に関与した人物や、幕府に近い人物を中心に暗殺される天誅事件があちらこちらで起こっていましたが、その被害者のほとんどは洛中といえども人目につきにくい場所や、被害者の屋敷などだったのですが、姉小路公知は右近衛少将で国事参政という身分を持った公家であり、しかも事件が起こった場所が禁裏の朔平門外という天皇の住まいのお膝元だったことも、この事件の大きさを世に示しているのです。

世に言う猿ヶ辻の変(朔平門外の変)が起こった猿ヶ辻とは、御所の北東に位置しています。ここが鬼門に当たるために、わざと内側に折り曲げるようにして塀が作られました。
そしてこの屋根裏に御幣を持って烏帽子を被った猿の木像が置かれたのです。これは鬼門の守りとして日吉山王神社より勧進された猿だったのですが、この猿の像が夜になるといたずらをするためにウロウロしたことから、金網が張られたとの説がある不思議な場所なのです。


文久3年5月20日、この日も公家たちの議論は激しく続き、公知が御所を出たのは夜の10時頃でした。姉小路家の屋敷がある東側から退出するのではなく、家格の規定に従って西側中央付近の宜秋門から出ると、御所の塀に沿って北に歩き始めたのです。
公知には4人の供が従っていました。一人は提灯持ち、一人は靴持ち、あとの二人は金輪勇と吉村左京(中条右京か?)という警護の侍でした。
姉小路邸まであと20歩も進まないほどに近づいた時、猿ヶ辻の折れた物陰から覆面をした三人の浪士風の男たちが現れたのです。
一人目は提灯を切り落とし、提灯は転げ倒れた蝋燭の火が引火して提灯が激しく燃えました。二人目が公知に切りつけますが、公知は手に持った扇で払おうとして、逆に扇が切られそのまま左に浅く袈裟切りを受けたのです。前月に公家ながら徳川家茂と共に軍艦に乗ったくらいに気丈な公知は。腰に差した杓を左手で抜き、右手は金輪勇の方に伸ばして「刀!」と叫んだのです。
しかし金輪は公知の太刀を持ったまま逃走、提灯と靴持ちも逃げ出しました。場に残ったのは吉村左京のみで、左京は公知の扇を切った男に反撃し軽傷を負わせました。男が逃げだしたので吉村はこれを追ってしまいます。
こうして現場には公知と二人の刺客が残ってしまうのです。

二人の刺客は同時に公知を襲いました。一人は公知の頭部を四寸(約12センチ)ほどの深さまで斬ります。そしてもう一人は公知の鼻の下を二寸五分(約7.5センチ)ほど斬ったのです。頭部の傷は致命傷になるものでした。
この勢いで止めを刺そうとする刺客に、公知が襲いかかり刀を取り上げようとしたのです。揉み合っていてもう一人も公知が狙えない状態であることに気が付いた刺客は、自らの刀を手放してさっと後ろに引き、それを見て公知に止めを刺そうとしたところに左京が戻ってきたのです。
刺客二人はそのまま逃げだしたのでした。


惨劇の後、公知は奪った刀を杖のようにして立ち、左京に支えられながら20歩にも満たない道中をゆっくり進み、玄関に辿りついたところで式台に向かって倒れ込みました、この時「まくら」と言ったのが最後の言葉となったのです。
こうして、公知が奪った刀が証拠として残ります。

公知は、攘夷派の急先鋒でしたが、前月に徳川家茂と共に蒸気船に乗り、そこで勝海舟に海外交易の大切さを教えられ、後日には海舟の弟子の坂本龍馬も姉小路邸を訪れて公知を説得したのです。
そのようなことから、攘夷派と言われながらもその主張が揺るぎつつあることが周囲にも知れるほどでした。
当時の天誅事件のほとんどは、幕府に近い者に対する尊王攘夷派志士の起こすテロでした。公知の心変わりに気が付いた尊王攘夷派がある程度の組織ぐるみで暗殺が計画され実行されたのです。
この犯人は、残して行った刀から薩摩藩の田中新兵衛とされましたが、新兵衛は取り調べの途中で自害し真相は闇になかになっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:一橋慶喜辞表提出(5月14日)

2013年05月14日 | 何の日?
文久3年(1863)5月14日、一橋慶喜が将軍後見職を辞すると朝廷に上奏しました。

長い上洛から江戸に戻るために、朝廷が出した条件は攘夷決行期限を決めることでした。
これに対し慶喜は5月10日を期限とすることを発表したのです。朝廷はこの返事を聞いて慶喜の東帰と将軍家茂の大坂行きを認めるのです。
しかし慶喜は攘夷を行うつもりは毛頭ありませんでした。ですので攘夷決行はあくまで方便でしかなかったのです。これを決めた瞬間から策士でもある慶喜の行動は決まっていました。

5月8日に江戸に戻り、その翌日には生麦事件の賠償金を支払った幕府の行動をもって、「攘夷を行う覚悟で江戸に戻りましたが、幕閣の賛同を得られなかったので、責任を取って将軍後見職を辞するしかありません」との辞表を関白近衛輔熙に送りました。


これを受け取った朝廷は辞表を受理せず引き伸ばされたのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:長州ファイブ密航(5月12日)

2013年05月12日 | 何の日?
文久3年(1863)5月12日、長州藩士の伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助がイギリス船に乗って密航しました。
この五人は明治維新後にそれぞれの分野で活躍したために「長州ファイブ」と言われています。

たった2日前に下関事件を起こしたばかりの長州藩が、その一方で藩士を異国に密航させるような行動をとっていたのです。
この中でも特に伊藤や井上馨は根っからの攘夷派なので、密航することすら不思議なことでした。しかし両者は外国を学んだうえでの攘夷論であり、外国を学ぶ機会があることを聞きつけて無理やり密航の計画に入り込んだのです。

この計画を実質的に指揮したのは周布政之助という長州藩重臣で攘夷派をまとめている人物でした。
海外に行く計画を攘夷派が行っているのが不思議な感覚ですが、攘夷には異人を斬るだけの小攘夷と、外国を知って外国を超えて行こうとする大攘夷があり、周布は大攘夷派だったと考えられます。


五人の密航は藩内でも秘密裏に行われ、5月12日未明に横浜港からイギリス商船チェルスウィック号に乗り込んだのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:下関事件(5月10日)

2013年05月10日 | 何の日?
文久3年(1863)5月10日、下関事件が起こりました。
これは、幕府が定めた攘夷期限となる5月10日に合わせて長州藩が下関でアメリカ商船ペムブローク号を砲撃した事件です。

そもそも、攘夷実行は不可能でありあくまで空手形でした。
幕府としても攘夷期限だけを決めてしまえば朝廷が納得するというだけのものであり、これを以て攘夷を実行する藩などないとの見方だったのです。
しかし長州藩では、幕府が攘夷期限を決める前から藩兵を下関に派遣していたのです。下関には大砲57門砲兵500人歩兵2500人が配置されました。
これとは別に久坂玄瑞が光明寺に50人ほどで入りました(光明寺党)。


5月10日夕方(16時頃)、アメリカ商船ペムブローグ号が下関近くて待機しているのを長州兵が発見し、藩兵を預かっている毛利元美が使者を派遣すると、長崎奉行宛の手紙を神奈川奉行から預かっていて、潮の流れを待って進むために投錨中との返答だったのです。
5月10日になっても周囲の藩から攘夷が行われたとの連絡もなく焦っていた光明寺党の面々に対して、攘夷決行を控えるように元美が伝えたのですが、久坂玄瑞はこれを良しとせず、近くに停めていた藩の軍艦である庚申丸と癸亥丸に兵を乗せて待機し、日が変わった2時頃にペムブローク号に一斉射撃を行ったのです。
相手に気付かれずに船を近付け、軍艦2隻が商船1席を狙って12発発射したのですが、当たったのは3発(1発説もある)で、しかも相手を逃がすという結果になったのですが、久坂は攘夷決行を藩主毛利敬親に伝え、同時にこの決行を止めた毛利元美を失脚に追い込んだのです。


冷静に考えれば、武装した武士が丸腰で眠っている町人に対して真夜中に乗り込んで切ろうとしたのに、失敗して逃げられたという恥ずかしいことだったのですが、それを自慢して大きな問題となるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

150年前:生麦事件の賠償を支払う(5月9日)

2013年05月09日 | 何の日?
文久3年(1863)5月9日、江戸幕府はイギリスに11万ポンド(33万両)の賠償金を支払いました。
内訳は、生麦事件が10万ポンド、第二次東禅寺事件が1万ポンドです。

この支払の責任は老中格の小笠原長行が行ったのですが、事件解決のために江戸に変えると孝明天皇に宣言して京都を離れた一橋慶喜が前日に江戸に入ったために、慶喜の江戸入りを待ったうえでの賠償金支払いと考えられているのです。
これによって、イギリスと江戸幕府との賠償問題は解決しましたが、イギリスは薩摩藩にも犯人の引き渡しと2万5千ポンドの賠償を請求していて、この解決について注目されるようになるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする