彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

プレイベント『元禄の大老 井伊直興』

2006年10月29日 | 博物館展示
彦根城博物館が発行していた図録


400年祭の開催中、彦根城博物館では『百花繚乱―彦根歴史絵巻―』と題して、井伊家伝来の名宝が展示されます。
そんな彦根城博物館で平成18年10月27日から11月28日まで開催されている400年祭のプレイベントが『元禄の大老 井伊直興』です。
今までずっと読んで下さっている方の中には、井伊直興という名前に聞き覚えがある方も居られるのではないでしょうか?
実は以前、大洞弁財天と玄宮園のお話を書いた時に、この二ヶ所を作らせた藩主としてご紹介していますよね。

今回はそんな、直興の人生を簡単に紹介してみましょう。

直興は、井伊直孝が二代藩主として藩政に就いていた時に、直孝の四男・直時の嫡男として誕生しました。この時、三代藩主になるのは、直孝の嫡男・直滋だと思われていたので、本当なら直興が藩主になる可能性は薄かった筈なのです。
しかし、直滋は直孝が亡くなる前の年に急に百済寺で出家してしまいます、後継者を失った直孝は、五男・直澄を三代藩主に指名して「直澄が縁談をする事は無用、跡目を直興に譲るように」との遺言を残したのです。

直澄の死後、祖父・直孝によって作られた道に乗って、四代藩主に就いた直興は、今は楽々園と呼ばれている下屋敷・槻御殿や先ほどもお話した大洞弁財天と玄宮園、そして松原港などの建造に力を注ぎ、彦根藩の文化推進と経済発展に力を注いだのです。
そして、後に井伊家の重要な資料の一つとなる『侍中由緒帳』によって家臣の管理体制も確立しました。

また幕府に中でも、『生類憐れみの令』で有名な五代将軍・徳川綱吉の治世に大老に就任しています。
この大老就任については、綱吉の寵愛を受けた側近として有名な・柳沢吉保(後に大老格まで出世)との間に政治的なやり取りがあったとも思われていますが、詳細は調べきれていません。

藩内でも幕閣でも活躍した直興ですが、やがて、八男・直通に家督を譲って、何処にでもある藩主としての一生を終えるはずだったのです。
しかし、五代藩主・直通と六代藩主・直恒(十男)が早死にしてしまった為に、再び藩主に就任し、そして六代将軍・家宣と七代将軍・家継の治世にかけて大老となっているのです。

生涯において2度も藩主と大老を経験した忙しい人生を送るという稀な人生を送った直興は、直政・直孝に続く名君と謳われています。
そんな、直興の多くの痕跡が観れるのが、今回のプレイベント『元禄の大老 井伊直興』です。綱吉の描いた絵や書なども展示してありますので、覗かれてみてはいかがですか?

この展示を観に行った時に、市内の方と思われるご夫婦が「この人って直弼とは別の人?」「さぁ、でも同じじゃないかな・・・」
という会話をされて居るのを耳にしました。
井伊家は、直政と直弼が有名で、直政が戦国時代の人、直弼が江戸時代のお殿様という漠然とした思いがあるようですね。
でも、井伊家は直弼以外にも名君が居る事をここで知って下さると嬉しいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

廊下橋

2006年10月25日 | 彦根城
彦根城を表門から天守に向かうと、最初に迎えてくれる櫓が天秤櫓です。

天秤櫓の話は後日に紹介しますが、その天秤櫓と手前の鐘の丸と呼ばれる広場を結んでいる橋が廊下橋です。
築城当時は、屋根や壁が付いた橋だったので、廊下橋と命名されたそうですが、いつの間にか屋根や壁は取り払われてしまたのです。

何度も改修工事を繰り返す内に予算や戦略上の都合(彦根城はこの橋を落とす事で本丸部分に対する堅城度が上がる為、設計者の早川幸豊が「例えどれ程の軍勢で攻められても何重もの備えで敵が撃退できる天下無双の要害」後々まで自慢していたという話も残っています、ですから落とし易い橋の方が良かった)から、屋根が無くなったのだと云われていますが、一つ興味深い伝説が残っています。

彦根城の築城に関わった人物に、徳川家康の次男・結城秀康が居ました。
秀康は次男という立場でありながら、家康に嫌われて、早くから豊臣家に人質に出され結城家に養子に入った人物だったのです。
このため、徳川家の家督は三男・秀忠に譲られます(長男・信康は織田信長の命令で早い内に切腹させられている)。
これに納得できない秀康は、家康に反発する態度をとります。また、豊臣家に居た事から豊臣贔屓に大名の一人だったのです。

1607年、彦根城の第一期工事が終わり、完成を祝う祝宴が井伊家の主催で開かれ、秀康を始めとする諸大名が招かれました。

これより前に、家康に呼び出された井伊家当主・井伊直継は、家康から秀康に毒を盛るように命令されます。
しかし、直継はこれを拒否しました。
横でこのやり取りを見ていた直継の弟・直孝は、兄を制止して家康の命を拝命したのです。

祝宴の当日、直孝は秀康の酒に毒を盛りました。

毒を呑まされた事に気付いた秀康は、祝宴場を離れ、廊下橋まで辿り着いた時に血を吐きます。
その血を掌で受け止めた秀康は、廊下橋の羽目板に叩き付けたのです。
秀康はこの後すぐに亡くなってしまいます。

秀康の血の跡は何度拭いても羽目板から消える事はありませんでした。
人々は秀康の祟りと噂したのです。

この後、井伊家では奇怪な現象が多く起こります。
まずは当主だった直継が、家康の命で突然当主の座を追われ、直孝が彦根藩の藩主となります。
しかし、直孝が期待をかけていた嫡男・直滋は直孝が亡くなる前の年に急に出家して藩主になる事を拒みます。
また直孝の後を継いだ直澄に対し、直孝は正室を持つ事を禁じて、後継ぎを勝手に決めるという不思議な行動に出たのです。

直孝の言い付けに従った直澄は直興に跡を譲りますが、直興の子が次々に若死にした為に調査すると、亡くなった子は全員廊下橋を渡っていた事が解かり、この時に橋の屋根が外され、羽目板は焼かれたそうです。

しかし、これだけでは終らず、元禄年間には廊下橋の上で2名の家臣が斬り合って亡くなり、その斬り合いに巻き困れた11名が怪我をするという事件も起こったのでした。

秀康の祟りは桜田門外の変にも影響を与えたという話もあるくらいで、彦根城内では密かに恐れられていたのかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根生糸

2006年10月21日 | 井伊家以外の人物伝
江戸時代には、一生涯お金を目にしないで過ごした武士達も沢山居ました。よく時代劇で目にするような、
「山吹色のお菓子ですお代官様」
「越後屋、そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様には叶いません」
なんて会話は殆んど無かったのです。そもそも、代官は能力に合った人物が選ばれてい多た為に清廉潔白な人物が多く、悪代官や悪郡代と言うのは数える程しか居なかったそうです。

幕末の会津藩にはこんな回顧録も残っています。
「お祭り音に誘われて、藩士の子どもが母親にお祭りに行く事を告げると、母親は幾らかのお金を財布に入れて子どもに渡したのです。その子は、夜店を覗くと、好きな商品を手にとって財布をそのまま夜店の主人に渡します。すると主人は必要な分のお金を取って子どもに財布を返したのです」武士の子はお金を目にしないままで済んだのでした。

実は武士達にとっては、お金は穢れている物だったのです。

しかし、多くの藩では江戸中期辺りから借金に追われる藩が多く彦根藩もその例外ではありませんでした。江戸末期には藩が経営する商売も始まったのです、特に高宮上布が有名ですし、12代藩主・井伊直亮と13代藩主・直弼が力を注いだのは湖東焼でした。
湖東焼は桜田門外の変の後に衰退しますが、高宮上布で培った商売法を、藩の勢力を盛り返す為に長浜縮緬に着目して応用したのでした。

家老・木俣清左衛門、重臣・長野主膳、町人・中村長平が中心となって松原町の木俣別邸で事業が始まりますが、文久二年の政変で、木俣が失脚し長野が斬首されて頓挫します。

明治に入り、武士の世の中が終わり、お金すら見た事がない藩士の救済のために宇津木家下屋敷跡に“彦根製糸工場”が建てられました。
製糸工場といえば、群馬県の富岡製糸工場が日本初の官営模範工場として有名ですが、そこに勤める女工の3割が彦根出身だったのです。こうして富岡製糸工場の技術を持った人々によって彦根製糸工場での指導が行われたのです。
近くを流れていた平田川は水が澄んでいて場所にも恵まれていたそうですよ。

ここで生産された生糸は「彦根生糸」と呼ばれ、滋賀県だけではなく近畿一円からも人々が働きに来る大規模な工場へと発展し、彦根だけではなく日本を支えた製糸産業の一角を担ったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城周辺史跡スポット:「摺針峠」

2006年10月16日 | 史跡
中山道を馬場宿から鳥居本宿に向かう時、琵琶湖を望む絶景となっているのが摺針峠です。
江戸時代には中山道の道として当たり前の様に旅人が往来しましたが、戦国時代以前の中山道は岐阜から琵琶湖に突き当たって南に向かう道が使われていたのです、しかしこれでは回り道になるために織田信長が軍事用道路として整備を行ったのです、つまり、それ以前は人通りの少ない道だったのでした。

そんな摺針峠は何故そんな不思議な名前なのでしょうか? そこには一つの昔話が残っています。

“一人の修行中の若い僧が自分の修行に行き詰まっていました。そんな時に重い足を引き摺りながら登った峠の上で老婆と知り合います。
老婆は、一生懸命に斧を石に擦りつけていました。

僧は不思議そうに「何をしているのですか?」と訪ねると、老婆は「実はたった1本しかない針をなくしてしまい、孫に着物が縫えません、だからこうして斧を削って針にしようと思っています」と答えました。
僧は「そんな大きな斧すぐには針になりませんよ」と言うと「どうしても針が欲しいので」と老婆は答えたのです。

僧はそんな老婆の姿に胸を熱くして、言葉を詰まらせながら「私はどうしても立派な僧になりたい」とこぼしました。
すると老婆は「なれば宜しい」と微笑むとフッと消えたのです。

その僧は修行に行き詰まっていた自分の考えを改め、ついに「弘法大師」と呼ばれる立派な僧となり、この地を「摺針峠」と呼ぶようになったのです。
後年、この地を訪れた弘法大師は、そこにあったお宮さまの境内に杉の木を植え、「道はなほ 学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし 人もこそあれ」と詠んだのです”

さぁ、あなたはこのお話をどう感じましたか?

弘法大師手植えの杉は、ご神木として大切にされ、この木の下に建てられた茶店が望湖堂でした。旅人は杉と琵琶湖を楽しみながら疲れを癒したのです。しかし、昭和56年12月15日明け方、大雪に覆われた杉の木は、その重さに耐え切れずに轟音と共に倒れてしまったのです。

とても残念ですが、今は切り株が残っていますよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城周辺史跡スポット:「虎徹の井戸」

2006年10月11日 | 史跡
剣・剣・サーベル・刀など、我々人類が有史以来一番ポピュラーに携帯してきた武器である刀剣類には、色々な呼び方があり、その分だけ意味合いも少しずつですが違ってきます。
そんな中、刀剣類で実用性・美しさ共に最高の評価を受けているのが私たちが知っている日本刀なのです。

中世ヨーロッパでは日本刀の事を“サムライソード”と呼び恐れました。

では、日本刀は諸外国の刀剣類とどう違うのか? といえば、斬る事ができるのです。
「何、言ってんの~、刀なんだから斬れて当たり前じゃん!」と思う方も多いかもしれませんが、それは私達が日本刀を見慣れているからなんです。
例えば中国の歴史物語によく登場する青龍刀。これは、金属を剣の形をした型に流して作っただけの武器で、その用法は重さに任せて相手を叩き潰す物でした、また、西洋のサーベルは突く物で、どちらも斬った事にはならないのです。
日本刀の切れ味を目の当たりにしたヨーロッパ人の驚きが“サムライソード”という言葉の全てに込められているとは思いませんか?

それに、日本刀はどの金属よりも硬い人工の鋼とも言われています。
これは江戸時代中期の話ですが、林子平という仙台藩士の学者が長崎で事件に巻き込まれた時、中国人の振り回す青龍刀や門の閂を一刀両断。その噂を聞いて興味を持ったオランダの長崎商館長ヘイトの前でサーベル7振の束を難なく斬ったりもしています。

では何故、日本刀はその様に強いのか? といえば、やはりその構造でしょうか?

材料は砂鉄で、他の刀剣とそれ程違いはありません。

スタジオジブリの作品『もののけ姫』に、タタラと呼ばれる集団が大きな炉を使って何かを作っていたのを目にした方もおられると思います。あれは砂鉄や隕鉄(鉄を含んだ隕石)を高度の熱で燃やして純度の高い鋼を作る作業を作る作業で、その作業で完成する純度の高い鋼を“玉鋼(たまがね)”と言います。
この玉鋼は日本刀にするしか使い道がありません。そして刀鍛冶の手に渡った玉鋼は再び炉に入れられて、一度細かく砕かれます。
砕いた物をバラバラに組み立てて打ち馴らす事によって繊維の方向が違う鋼が出来上がります。
後はこれを炉で柔らかくし、半分に折って重ね打ち延ばす。
1回目に1枚が2枚重ねに、2回目に4枚に…と繰り返し、5回ずつ3日で15回打つと32,768枚重ねの硬い鋼が出来上がります。
これがどれほど凄いかは、手元にある新聞紙を重ねていってみてください。6回か7回目ぐらいには凄く折り難くなると思うのですが、これを鋼でやるとなれば相当ですよね。

しかし、この硬い鋼をそのまま刀にすると、硬すぎて使うとすぐ折れてしまうので、芯に少し柔らかい鉄を使い、その周りを硬い鋼で重ねる事によって強度もあり折れ難い日本刀が出来上がるのです。
あの独特の反りも切れ易さを求めた結果です。
そこまで手の込んだ作品だからこそ、強くそして美しい物が出来上がるのです。

ちなみに、そこまで工夫された日本刀ですが、戦いの主流として使われるようになったのは明治時代になってからでした。
戦国時代やそれ以前にも戦いに参戦する兵や武将は全員が刀を差しているドラマを目にしますが、これは史実です、しかし刀を使った斬り合いは殆んど皆無に近かったのです。
江戸時代以前の武器は弓や槍でしたが、江戸時代には刀以外の武器の携帯が禁止された為に刀の文化が発展し、大名達によって収集されたのです。

こうして、大名家に残った名刀は彦根城博物館でも目にする事ができます。
展示室の中でライトの光を受けながら輝く日本刀には、冷たい静寂のイメージが良く似合います。その形の見事さや刃紋の美しさも大切ですが、中に籠もった刀匠たちの魂をその美しさから感じ取って貰えたら幸いです。

最後彦根にも有名な刀匠が居ました。その名は長曽根虎徹。
新撰組局長の近藤勇が愛用したのも虎徹と言われていて、歴史に残る有名な刀匠の一人です。
虎徹はこの名の示す通り今の長曽根町で学び、55歳で一念発起して江戸に出て名を上げました。
その虎徹の使った井戸が湖周道路の白山神社近くにある長曽根町民会館前にあります。
今は小さな井戸と、碑が残されているだけですが、日本史の1ページに確実に影響を残した郷土の刀匠が伝えた息吹を感じてみてはいかがですか?
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彦根城周辺史跡スポット:「亀山」

2006年10月08日 | 史跡
今回は、彦根昔話の中からこんなお話をご紹介しましょう。

『金のニワトリ』

JR河瀬駅のすぐ近くに大きな工場があります。その工場敷地の一番南側、亀山小学校の裏に小さな小さな山があるのを彦根近辺にお住まいの方は知っておられるでしょうか?
茂賀岡(いかしがおか)や茂賀山(もがやま)・金鶏山(きんけいざん)とも呼ばれているこの山は、工場を作る時に削り取られて今は小さな山ですが、昔は亀の形をした大きな山で、“亀山”と呼ばれていたそうです。
その亀山のお話。

昔々、この国の歴史がまだ神話でしか語られないくらいに古い昔の事、天の国はアマテラスよって支配され、地上は『因幡の白ウサギ』で有名な大国主命によって平和な時代を迎えていました。
ある時、アマテラスは自分の孫に地上の支配を任そうと考え、視察のために天若日子(アマノワカヒコ)を派遣します。
この時、天若日子は金のニワトリに乗って亀山に降り立ちました、そして、山に金のニワトリを隠して大国主命の元へ向かいました。
大国主命に会った天若日子はその人柄に惹かれ、その娘・シタテルヒメと結婚してしまい、本当の仕事を忘れてしまいます。
そして8年が経ち、天若日子が戻らない事を不思議に思った天の国では使者を派遣しますが、その使者は天若日子に矢で射られ、息も絶え絶えに天に戻りました。
そんな使者を迎えた天の国のタカミムスビが、「もし天若日子にやましい心があるなら、この矢を当てさせたまえ」と言って矢を放つと、地上で寝ていた天若日子の胸に刺さりそのまま亡くなります。
こうして金のニワトリは亀山に隠されたままになってしまったのです。

それから、何百年も過ぎた13世紀の事、亀山に城を築いた若い殿様がいました。
ある晩の事、殿様が月見をしていると、聞こえてくる虫の音に交じって若い女性の美しい声が聞こえてきました。

「どうか、この石をどけて下さい」

驚いた殿様が声に応えると、

「私は、もう何百年もの間、ここに閉じ込められています、雨が石を叩く音を聞き、風が木々をゆする音に、私の翼が風をきる日を思い起こし、蝉の子とお話をしながら、何百年も主の帰りを待っておりましたが、ついにその日はやってきませんでした」

お殿様が、不思議に思いながらも石を動かすと、中から眩しい輝きと共に金のニワトリが現れました。

「ありがとうございます。これで天の国に帰れます、お礼に金のタマゴを差し上げましょう」

と、言いながら空へと昇って行きました。そしてそこには大きな穴が残されていました。

金のニワトリが飛び立ったあと、殿様が恐る恐る穴を覗くと、数え切れないくらいのの金のタマゴが残されたいたのでした。

お殿様は、

「これは素晴らしい、城の宝にしよう」

と言って穴を大きな石で閉じてしまいました。

冒頭で、亀山は工場を作る時に削り取られて今は小さな山になっている事をお話しましたが、この工事の時には金のタマゴは見つかりませんでした。
このお話がただの昔話なのか、それとも今残されている小さな山の中にまだ金のタマゴが残っているのか…
私は、「もしかしたら城には埋蔵金伝説でもあったのかな?」と思っているのですが、このお話の答えは、皆さんの夢の大きさにお任せしたいと思います。

ちなみに、彦根では亀山以外にも荒神山には蛇に乗った大日如来様が旅行の途中に休憩されて、近江平野の五穀豊穣を願い、乗っていた蛇を岩にして置いていかれた話が残っています。
また、彦根城が建っている金亀山は、天津彦根命(あまつ・ひこねのみこと)が金の亀に乗って降りられた場所で、これが彦根の地名の由来にもなっています。
この辺りの話も、後日ご紹介できたら面白いなぁと思っています。 

琵琶湖と近江平野の美しさは神々すらも魅了したのですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石田三成

2006年10月01日 | 井伊家以外の人物伝
1600年10月1日、石田三成が処刑されました。
という訳で、今回は三成のお話。

JR長浜駅の前に、“出逢いの像”という銅像があります。
一人の武士に、小坊主がお茶を差し上げようとしている姿を現したモノなのですが、この小坊主が、今日のお話の主人公・石田三成です。
この銅像は、三成が15歳のエピソードを元に作られていますので、まずはそのお話を紹介しましょう。

“豊臣秀吉がまだ長浜城主だった時の事、狩りの途中に領内にある観音寺を訪ねて「秀吉じゃ!茶をくれ」と言いました。
すると、小坊主が大きな茶碗にぬるい茶を沢山入れて持ってきました。
喉が渇いていた秀吉は、その茶を一気に飲み干しました。そして「もう一服くれ」と言ったのです。
小坊主は、次は一回目より少し小ぶりな茶碗に、前より熱い茶を半分だけ入れて持ってきました。
その茶も飲み干した秀吉は「もう一服」と命じました。
すると小坊主は、高価で小さな茶碗に舌が火傷しそうなくらい熱い茶を少しだけ入れて持って来たのです。
最初は、喉が渇いているから飲みやすい茶を沢山
次は、少し落ちついて飲める量と熱さ
最後は、茶本来のもてなしの為の茶碗と、ゆっくりする為の熱い茶
と、相手の状況に応じて機転を利かせた小坊主に感心した秀吉は、その小坊主を城に連れて帰り、家臣として育てました”

こうして秀吉に仕えるようになった石田三成は、内政政策に興味を持ち、文官として秀吉の近くに居る事が多くなったのです。
三成は秀吉の為に全てを捧げた人物で、「自分には法令・内政などの文治の才能はあっても、戦国時代に必要な勇猛さを持っていない」と悟っていたので、武断派の家臣を持つ事を心掛けました。

最初の家臣は渡辺新乃丞(渡辺勘兵衛という説もあり、ただし槍の勘兵衛とは別人)という人物。
新乃丞は、他の武将が誘っても「自分は10万石の領地が貰えなければ仕えません」と言い続けていましたが、500石の知行しかない三成に従ったので、不思議に思った秀吉が三成に理由を訪ねると「500石で召抱えました、自分は今、新乃丞の居候です」と涼しい顔で答えたそうです。
また、水口で4万石の城主になった時は、高宮で隠棲生活を送っていた豪傑・島左近を知行の半分である2万石で召抱えました(1万5千石説もあります)。

渡辺新乃丞も島左近も、当時どの武将も欲しがった有能な豪傑だったからこそ、三成は自分に足りない物を補って秀吉の役に立つ人物として、自分の出せる全てで誠意を示して家臣としたのでした。
三成の家臣の殆んどは、三成の秀吉の対する忠誠心に男惚れ(おとこぼれ)して仕えた人物が多かったので、知行の加増(今で言うなら給料の値上げ)を断る人が多かったそうです。

やがて、佐和山城19万石の城主となった三成は、中央政治の中でも官僚として多くの政策に関わりましたが、それと同時に佐和山領内では善政を尽しました。
凶作の年に年貢を免除した話も残っているが、ただ甘いだけではなく厳格な政策もあり、江戸時代を通して連帯責任制度として犯罪防止に役だった“五人組”制度は三成のアイデアを徳川家康がマネしたものです。

こんな三成でしたが、秀吉の重臣には「政治よりも戦いが重要」と考える人物が多く、秀吉の天下統一後は、“戦いが続いた日本を内政で立て直そうとする文治派”と“戦いが終わりやる事が無い武断派”が争うようになり、三成が攻撃対象となりました。
そんな中でも、秀吉の信頼が厚かった為に、秀吉晩年時代の官僚制度である“五大老・五奉行”の中で五奉行の第二席に任命されたのでした。

そして、秀吉が亡くなった後、豊臣家を守ろうとする三成は、秀吉の後釜を狙う徳川家康と対立し、関ケ原の戦いで敗北しました。
三成が嫌いという理由だけで家康に味方した武断派の大名達は、自分が世話になった豊臣家を自分達の手で滅ぼす手助けをした事となったのです。

関ケ原の戦いでの敗北後、三成は伊吹山の麓で隠れていました。
この時、領民達が自分の危険も顧みずに三成を庇ったと伝わっています。しかし、捜索の手が近くまで迫った事を知り、自分を匿うと罰を受けるとして、自分から捕縛隊の前に姿を現しました。

捕まった後に、京の六条河原で打ち首と決まった三成は、処刑当日、刑場に引かれて行く途中で、護衛の兵に「喉が渇いた」と言い白湯を求めました。
あいにく湯の持ち合わせが無かった兵は、近くの民家に干してあった干し柿を変わりに差し出すと、「気持ちはありがたいが、干し柿は痰の毒なので」と断ったのです。
「これから首を切られる者が、体を養生してどうする」と言って兵が周りの者と大笑いすると、三成は「大儀を志す者は、命を失うその瞬間まで体を大事にするものだ」と語り、笑った者は恥じ入ったと伝わっています。
茶の湯から始まった石田三成の逸話は、白湯でその全てを終えたのでした。

石田三成の後に佐和山城主となったのは、関ケ原の戦いで家康の重臣として勇敢に戦った井伊直政でした。
直政は、三成の善政を知る領民から三成の記憶を消す事に苦労したようで、統括地の村々に毎年正月に「ここには石田三成の血縁の者は居ません」という証文に村人全員の署名、捺印を取って提出させていました。
そして、2代藩主・直孝の時には城が彦根城に移ったのを切っ掛けに佐和山を廃山として領民の立入りを禁止しました。
以後、彦根では石田三成の話はタブーとされてきましたが、歴史的には水戸黄門こと水戸光圀や西郷隆盛は三成の功績を高く評価しています。


三成の遺構は、彦根市内の佐和山城跡をはじめ、生誕地である長浜市の石田八幡社や、関ケ原の戦いの後に三成が匿われた木之本町古橋の与次郎大夫屋敷跡・オトチ洞窟など彦根近辺に点在しています、まだまだ歴史の中の悪役として扱われている人物だからこそ400年祭を切っ掛けに新しい評価を発信していきたい人物の一人です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする