世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルスはWHOから「パンデミックと言える」との見解が出されるまでになった。実際に日本国内の様々な活動自粛や世界の感染者の推移を見ても世界的流行であることは間違いない。そして全世界と簡単に繋がっていける現在においては新型あるいは強力な感染症が世界に広がったときに島国である日本でも水際で予防することは困難なのだ。そんな日々のニュースを見ていて、ふっと幕末日本を混乱させた病の流行が頭を過ったので紹介したいと思う。
嘉永6年(1853)黒船来航に始まった列強諸国との付き合いは、翌年の『日米和親条約』締結をはじめとする諸外国との和親条約締結そして安政5年(1858)の『日米修好通商条約』などの列強との修好通商条約締結で歴史上は日本の開国となった。現在は「鎖国」という制度を疑問視する声も多く挙がっていてその考え方の中では「開国」という言葉の意味合も変わってしまうがそれは別の機会があれば書きたい。
開国による海外との繋がりも先に良いものが広がれば幕末日本の外国人に対する攘夷感情はもっと軽いものになっていたのかもしれないが、日本人は先に幾つもの苦難を経験することになった。その一つは経済的苦痛だがこれは本稿とは別の話となる。問題は安政五年から始まったコレラの大流行だった。
実は日本におけるコレラの流行は開国前の文政5年(1822)にも見受けられる。朝鮮半島から九州を経て西日本から東海地方に広がったとされるが詳しい経緯はわかっていない。安政五年のコレラは前年に米艦ミシシッピー号の水兵が清(中国)で感染し長崎で嘔吐したことから日本国内に持ち込まれ一気に拡散することとなる。コレラに感染すると嘔吐と下痢が続き、やがて脱水症状と塩分低下を引き起こして血行障害や血圧低下から死亡へと至るもので、的確な治療を行わなければ患者の3分の2が死亡するとも言われている。しかし空気感染や軽度の接触での感染はなく、患者との濃厚接触や感染地の不衛生さが問題とされるものだった。文政五年の流行では幕府の統治機能が予想外の功を奏し箱根の関での病人の通行を禁止したことから箱根以東にコレラの侵入は阻止され江戸を守る水際対策が成功したが、安政五年は『日米修好通商条約』締結直前に長崎に持ち込まれ国内流通の寄港地にも拡散したことから締結後には江戸でも流行した。コレラは感染するところりと死ぬことから「虎狼狸(コロリ)」とも呼ばれ民衆心理の不安を煽り、攘夷の宣伝材料ともなり、大老に就任したばかりの井伊直弼政権への批判にもなる。京都では直弼と長野主膳が進めていた公武合体の候補・富貴宮(孝明天皇の第二皇女)死去、安政の大獄で最初に捕える筈だった梁川星巌が逮捕三日前に亡くなるなど井伊政権にも悪い影響を与えることとなるのだった。
長野主膳も利用した京都の彦根藩邸跡(木屋町通三条下ル)