彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:一橋慶喜ら朝議参与就任(12月30日)

2013年12月30日 | 何の日?
文久3年(1863)12月30日、一橋慶喜ら5名が朝議参与に就任しました。
就任したのは慶喜の他に松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂です。

これは譜代大名以外の諸侯が国政に関わることができる制度が出来上がったことを意味します。実際にここに参加している5名が3日おきに二条城で行われる会議への出席を義務つけられる物でした。
この中で、今までの江戸幕府の制度によって政治に参加できたのは会津藩主の松平容保だけで、御三卿の慶喜、親藩の春嶽、外様の宗城と容堂は政治に口題することも許されなかったのです。

このように諸侯が国政に参与する考え方は、前薩摩藩主島津斉彬が考えていたことで、藩兵三千人を上洛させて、武力を背景に諸侯の国政参与を訴えようとした矢先に亡くなってしまい、その遺志を斉彬の弟の久光が受け継いで行動し、実現したものでした。
しかし、藩主の父という立場でしかない久光は官位を持っていなかったためにこの日に任命されず、半月後に従四位下左近衛権少将に叙されてから朝議参与に加わったのです。

慶喜、容保を除く4名が幕末の四賢公と称されて後々まで記録に残るのは、このことがきっかけになっています。

150年前:第二回遣欧使節団出航(12月29日)

2013年12月29日 | 何の日?
文久3年(1863)12月29日、第二回遣欧使節団が横浜を出港しました。

この使節団の大きな目的は横浜港の閉鎖を談判することだったので、横浜鎖港談判使節団とも呼ばれています。
正使は池田長発で、12月29日にフランス軍艦ル・モンジュ号で出航。上海・インド経由でスエズに到着。
ここからは陸路でカイロを目指します。この道中でエジプトの三大ピラミッドやスフィンクスを見学したことで、スフィンクスと侍が一緒に写る写真が撮影され歴史上に残ったのです。

カイロから地中海を経由してパリに到着したのは3月でした。
ここでナポレオン三世に謁見し、横浜港閉鎖の談判は失敗します。もともと孝明天皇の無理を通そうとすることに対する、やるだけやりましたというパフォーマンスで派遣された使節ですので失敗前提だったのです。

しかし、これ以外にも長州藩の関門海峡での砲撃に対する賠償金支払いや関税に対する不利な要求をのみ込んだパリ条約を締結することとなり、孝明天皇の無理は日本をますます追い詰める結果になったのです。

150年前:野口健司切腹(12月28日)

2013年12月28日 | 何の日?
文久3年(1863)12月28日、野口健司が切腹しました。

新選組の前身である壬生浪士組には芹沢一派は5人だったといわれています。
芹沢鴨…近藤一派に八木邸で暗殺される。
新見錦…金策の責任を責められ切腹。
平山五郎…芹沢鴨と同じ日に殺される。
平間重助…芹沢鴨暗殺時に逃亡。
そして、野口健司


野口は芹沢暗殺事件の頃、なぜか芹沢一派との交流が疎遠になっていたのです。
近藤派に傾きつつあったとの説もあるのですが、芹沢暗殺後はまだ芹沢派としての認識が周りにもあり近藤勇や土方歳三にとっては厄介な存在だったのです。
しかし、野口には隊務に汚点もなく、無理矢理殺すしかなかったのでした。

芹沢暗殺から3ヵ月後、野口健司は隊内の規律を乱したという理由で切腹させられます。
前日から新年用の餅つきで大騒ぎだった八木邸の中で慌しく行なわれた切腹だったらしく、介錯人の林信太郎は野口の首を跳ねた後にすぐ餅をつきに現れたという話が残っているのです。
こうして近藤勇は芹沢派に邪魔されない新年を迎える事となりました。

150年前:長崎丸砲撃事件(12月24日)

2013年12月24日 | 何の日?
文久3年(1863)12月24日、薩摩藩の蒸気船「長崎丸」が関門海峡で砲撃され沈没しました。

長崎丸は兵庫港から綿を載せて長崎に向かっている最中で、ここには薩摩藩の技術者宇宿彦右衛門とその弟子たちも乗船していたのです。
宇宿は、島津斉彬存命中に薩摩藩で蒸気船や反射炉を建造し、写真技術の研究も行っていた正真正銘の薩摩藩近代化の頭脳でした。そんな宇宿を含む乗員28名が死亡しています。

この事件は、薩英戦争で外国と戦い攘夷の二大巨頭の一藩という顔をしていた薩摩藩が、実は綿を長崎に運んで海外との貿易をやっていると世間に報せるため、長州が薩摩藩の船と知っていて行った砲撃だとされています。
しかし、長州藩はあくまで海外の船と間違えて砲撃したという態度をとり続け、薩摩藩国父の島津久光がこの件で怒りをあらわにしているのを聞いて謝罪使を送ったのです。

薩摩藩でも密貿易をしていた弱みがあるので、この謝罪を受け入れることになるのです。

150年前:二条斉敬関白就任(12月23日)

2013年12月23日 | 何の日?
文久3年(1863)12月23日、二条斉敬が関白に就任しました。

4か月前に起った八月十八日の政変以来、朝廷は一会桑中心の政権を受け入れてきました。
そんな中で、母親が水戸家から輿入れしている二条斉敬は、一橋慶喜の従兄弟という関係になることが幕府の有利に働き関白に就任するのです。

二条斉敬は、徳川家茂が14代将軍に宣下されるときに朝廷の使者を務めた人物でしたが、水戸家に近かったために井伊直弼との面会を断られ、安政の大獄では慎を命じられました。
直弼の死後に復権し、朝廷での地位を固め、関白就任。
孝明天皇の崩御後は明治天皇の摂政となり江戸幕府崩壊時もその役を続けます。やがて王政復古の大号令で摂関制度が廃止されるとその役を解かれ、そのまま公から引退するのです。