元和8年(1622)彦根城築城第二期工事が終了する。これにより彦根城は城下町を含めて現在に近い町割りが完成した。
2007年、実際よりも1年ずれる形で『国宝・彦根城築城400祭』が開催されてから15年が経過する来年(2022)こそが本当の意味で彦根城が完成した『彦根城総構え400年』になり城郭のみが注目されていた15年前よりもより広く多岐に渡る身近な視点も含めた彦根藩領を発掘する機会にならなければならない。個人的にはこの場を借りて私的発信を行いたいと思っているのでお付き合い願いたい。
基本的な話から始めるが、彦根城築城の黎明期は大きく二度の工期に分けられる。
元号が慶長であった頃の第一期工事は、現在の内堀の内側である第一郭の建造であった。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を開幕し、大坂城の豊臣秀頼を包囲するために軍事拠点を設置する必要が生じた。このため家康はその生涯において初めての新城築城をも指示することになる。残念ながら家康最初の築城という価値は膳所城に譲ることになるが彦根城も江戸幕府が近隣諸大名に命じて造らせた天下普請の城となる。このため立地を含めた決定事項は江戸幕府主体で進められ幕府から山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門の3名の奉行も派遣された。このうち佐久間は豊臣政権下で伏見城築城の普請奉行を務め、豊臣秀吉から豊臣姓を許された人物でもあり家康の彦根城築城に対する力の入れ方が伺える。いつ戦が始まるかわからない緊張感を抱えたままの突貫工事が進み、井伊家の城でありながら井伊家が自由にできる要素はほとんどなかった。
大坂の陣ののち、元号が元和と改められ平和の時代がやってきた「元和偃武(げんなえんぶ)」が宣言されると城のあり方が変わってくる。それまでは軍事拠点であった施設が、封建社会の中で秩序を保つための象徴となったのだ。統治の拠点となった城には政庁が置かれ施政者の屋敷が必要となり人が集まる、人が集まる場所には生活必需品が求められ商売も活性化し城下町が形成される。最初は思い思いに集まっていた人々によって坩堝(るつぼ)と化した町を整備する必要性も生じるようになった。結果的に彦根城も拡張工事を行わなければならなくなり武家屋敷や町人たちの住まいも含んだ第二期工事が行われたのだ。
元和の第二期工事は、慶長の工事と異なり彦根藩内で藩士たちが主体となって計画される事業であった。井伊家家臣団が自らの城を自らの意思で作り上げる本当の意味での井伊家の城となる一大事業であり、井伊家の城作りは全国の武家にも注目されたのではないだろうか?
そんな責任を負う元和の彦根城築城工での総奉行に任じられたのは、井伊家の親戚である奥山六左衛門朝忠であった。
彦根城研究の先駆け『彦根山由来記』(昭和44年再版分)