彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

小島頓宮訪問

2021年04月28日 | 史跡

彦根市葛籠町「産の宮」の話を先日書きましたが、あの前に後光厳天皇は京都を追われて美濃にいました。


その後光厳天皇が仮宮として滞在した場所が「小島頓宮」です。

揖斐川近くの小島だったと言われていますが頓宮候補地は3か所伝えられています。


ひとつは、小島城趾ですがあまりそれらしき発信はありません。

2か所目は、光蓮寺という白樫城の麓





そして、3か所目は瑞巌寺です。







後光厳天皇が美濃に逃れていたのは、足利尊氏が鎌倉で弟直義を殺害したとの報を受けて、直義の養子(尊氏の子)直冬が南朝と一緒に京都の足利義詮を追ったためだったのです。

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彦根城総構え400年(1)

2021年04月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 元和8年(1622)彦根城築城第二期工事が終了する。これにより彦根城は城下町を含めて現在に近い町割りが完成した。
 2007年、実際よりも1年ずれる形で『国宝・彦根城築城400祭』が開催されてから15年が経過する来年(2022)こそが本当の意味で彦根城が完成した『彦根城総構え400年』になり城郭のみが注目されていた15年前よりもより広く多岐に渡る身近な視点も含めた彦根藩領を発掘する機会にならなければならない。個人的にはこの場を借りて私的発信を行いたいと思っているのでお付き合い願いたい。
 基本的な話から始めるが、彦根城築城の黎明期は大きく二度の工期に分けられる。
 元号が慶長であった頃の第一期工事は、現在の内堀の内側である第一郭の建造であった。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を開幕し、大坂城の豊臣秀頼を包囲するために軍事拠点を設置する必要が生じた。このため家康はその生涯において初めての新城築城をも指示することになる。残念ながら家康最初の築城という価値は膳所城に譲ることになるが彦根城も江戸幕府が近隣諸大名に命じて造らせた天下普請の城となる。このため立地を含めた決定事項は江戸幕府主体で進められ幕府から山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門の3名の奉行も派遣された。このうち佐久間は豊臣政権下で伏見城築城の普請奉行を務め、豊臣秀吉から豊臣姓を許された人物でもあり家康の彦根城築城に対する力の入れ方が伺える。いつ戦が始まるかわからない緊張感を抱えたままの突貫工事が進み、井伊家の城でありながら井伊家が自由にできる要素はほとんどなかった。
 大坂の陣ののち、元号が元和と改められ平和の時代がやってきた「元和偃武(げんなえんぶ)」が宣言されると城のあり方が変わってくる。それまでは軍事拠点であった施設が、封建社会の中で秩序を保つための象徴となったのだ。統治の拠点となった城には政庁が置かれ施政者の屋敷が必要となり人が集まる、人が集まる場所には生活必需品が求められ商売も活性化し城下町が形成される。最初は思い思いに集まっていた人々によって坩堝(るつぼ)と化した町を整備する必要性も生じるようになった。結果的に彦根城も拡張工事を行わなければならなくなり武家屋敷や町人たちの住まいも含んだ第二期工事が行われたのだ。
 元和の第二期工事は、慶長の工事と異なり彦根藩内で藩士たちが主体となって計画される事業であった。井伊家家臣団が自らの城を自らの意思で作り上げる本当の意味での井伊家の城となる一大事業であり、井伊家の城作りは全国の武家にも注目されたのではないだろうか?
 そんな責任を負う元和の彦根城築城工での総奉行に任じられたのは、井伊家の親戚である奥山六左衛門朝忠であった。


彦根城研究の先駆け『彦根山由来記』(昭和44年再版分)
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産の宮

2021年04月23日 | 史跡
文和4年(1344)足利義詮が京都を追われて、後光厳天皇と共に美濃に逃れました。

その後、京都を奪還し戻る時、義詮の妾女は妊娠したまま義詮に同行して東山道を進みますが今の彦根市で産気付き男子を出産します。
義詮は家臣や侍女を付けてこの地に母子を残して先を急ぎました。

やがて男子は夭折し、義詮の妾女は出家します。
その関連地に作られたのが産の宮です。








残された侍女たちはこの地の竹で葛籠を作り生活したとされていて、この地は今は「葛籠町」となっています。
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高宮宿から多賀大社

2021年04月22日 | 史跡

高宮宿に宿泊した旅人は、多賀大社に参拝してまた高宮宿で一泊してから旅を続けた。


との話を聞いた事がありましたので高宮宿から多賀大社まで歩いてみました。


高宮にある鳥居から出発




所々にある常夜灯が道標とのこと



絵馬通りから多賀大社到着





ここまで個人的データで1時間弱5,200歩くらいでした。


そして、実は昔は参詣道が違ったという話を聞きましたので帰りに通りました。


高宮宿から説明すると、

高宮宿の脇本陣前の道を入り


高宮寺前を通り

高宮小学校前から学校脇の堀跡を通る道を進む



公民館前からまっすぐ道なりに多賀へ向かいます。





ヤマト精工やキリンビールの敷地は通る事ができませんから、ここは廻り道します。



そして、飯盛木の前を通って、絵馬通りに合流したのではとのことでした。



確かにこの方が飯盛木を通るなど納得できるルートではあります。

ただ、高宮宿で本陣近くを不特定多数の旅人がウロウロすることを問題視したとなると、ある程度早い段階で今使っているルートに変更された可能性は高いかもしれません。
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新作狂言『光秀』

2021年04月22日 | イベント

多賀大社古例大祭のイベントの一つとして能舞台で披露された新作狂言『光秀』を観てきました。



まずは、面を着けた光秀の霊がご挨拶。



狂言の世界では背面の松の下にいる人物は見えない存在とのことで光秀はその場に移動。

続いて、光秀の子孫が当時し周囲から光秀近江生誕説を訊かれるから近江に調べに行くとのこと。

多賀大社で光秀発行の禁制を観て、


禁制(資料)

佐目で見津氏から話を聞く。

そして、子孫が悟ったことに光秀が喜ぶ。



との話でした。


大河ドラマをきっかけに注目された光秀近江出身説をひとつの文化として残すことは、民間伝承を伝える形として日本古来の方法だと思います。

今後、佐目でどう残って行くのか注目です。

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地域通貨「彦」

2021年04月15日 | その他

今年も地域通貨「彦」の交付が始まりましたので、活動報告と共に受取に行ってきました。


昨年度はコロナ禍の影響で地域活動が無く、毎週あまり変わり映えのしない報告になりました。

1300彦を受け取り、500彦をエコバッグ、300彦をゴミ袋に交換して500彦を残すのが例年のパターンですが、今年も同じにしました。



今年度は、今のところ毎週長くウォーキングしていることがメインの報告になるかもしれないです。

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長浜曳山祭見学

2021年04月14日 | イベント

コロナの影響で昨年は中止された長浜曳山祭。


今年は、やや形を変え縮小して行われるとのことで、14日(本祭の前日)に長浜市街地を覗いてきました。

本来なら、奉納歌舞伎が行われるはずの長浜八幡宮では子ども歌舞伎を行わず、バラバラに3か所の山車が出てその場で子ども歌舞伎が演じられます。

ただ、曳山祭の御朱印もありますのでお詣りに行くのは良いと思います。



時間の都合で、長浜駅に一番近かった「春日山」の『義経千本桜』

















大通寺前の諫皷山の『新竹取物語』


















を見学しました。

他には青海山も出ています。







個人的には、2018年の『長浜ものがたり大賞』で『繋ぐ者』という天保8年の曳山祭を舞台にした小説を書いたこともありますので子ども歌舞伎を演じる役者たちが凄く気になりながら見学しました。

特に『新竹取物語』を観ている時は風も冷たく、軽く雨が降りましたが、それでも真剣に演じている役者たち。


長浜の大切な伝統を繋ぎ続けて欲しいです。

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