治承4年(1180)2月21日、高倉天皇が退位し、言仁親王の即位が決まりました。後に安徳天皇と呼ばれる人物です。
安徳天皇の母親は、平清盛の娘の徳子(建礼門院)でした。
治承2年11月12日に誕生し、その約ひと月後の12月15日には皇太子として発表され、そして1歳3ヶ月(数えで3歳)での即位が決まったのです。
正式に即位するのは4月22日まで待たねばなりませんが、この日から安徳天皇の御代が始まったのです。
なぜこのように若い安徳天皇が即位することになったのかといえば、その外戚が平清盛だったことに尽きます。
藤原氏の摂関政治は、藤原一族が自分の娘を天皇に入内させて、その間に生まれた子どもを次の天皇に据えることで、外戚として政権を握っていました。
そして、藤原氏に娘が生まれず、藤原氏の血が薄い白河天皇が即位した時に摂関政治には限界が生じ、白河天皇が退位しいて上皇となって堀河天皇の後ろ盾になることで院政という新しい政治体系が生まれたのです。
これは、政治の主権が母方から父方に移る事例となり、実はこの頃から男系が重視される社会制度になったともいえます。平安時代では当たり前だった通い婚が薄れていったのもこの時代の前辺りからなのです。
そんな院政を崩すために清盛が再び外戚としての立場を利用したのです。
しかし、武家政権初の権力者となった清盛が、そのまま摂関政治を踏襲した訳ではありません。すでに太政大臣にまで上り詰めていて、名誉職ともいえる太政大臣はさっさと辞めてしまって実質的な実権を握っていたからです。
清盛は、安徳天皇が即位した年の6月に福原に遷都し、12月には京に戻りました。これは源氏の挙兵に対して京に戻ったと解釈されていますが、それならば守り易い福原の方が軍事拠点には適しています。
安徳天皇即位と福原遷都と京への帰還は、摂関政治や院政による既得権に満ちていた京を捨てることで、清盛を中心とした集権体制を福原で明確にし、その力を前面に押し立てながら既得権を飲み込むために京へ戻ったと考える方がわかり易いのです。
安徳天皇即位が急がれたのは、清盛の余命を考えての焦りであったのかもしれませんね。
安徳天皇の母親は、平清盛の娘の徳子(建礼門院)でした。
治承2年11月12日に誕生し、その約ひと月後の12月15日には皇太子として発表され、そして1歳3ヶ月(数えで3歳)での即位が決まったのです。
正式に即位するのは4月22日まで待たねばなりませんが、この日から安徳天皇の御代が始まったのです。
なぜこのように若い安徳天皇が即位することになったのかといえば、その外戚が平清盛だったことに尽きます。
藤原氏の摂関政治は、藤原一族が自分の娘を天皇に入内させて、その間に生まれた子どもを次の天皇に据えることで、外戚として政権を握っていました。
そして、藤原氏に娘が生まれず、藤原氏の血が薄い白河天皇が即位した時に摂関政治には限界が生じ、白河天皇が退位しいて上皇となって堀河天皇の後ろ盾になることで院政という新しい政治体系が生まれたのです。
これは、政治の主権が母方から父方に移る事例となり、実はこの頃から男系が重視される社会制度になったともいえます。平安時代では当たり前だった通い婚が薄れていったのもこの時代の前辺りからなのです。
そんな院政を崩すために清盛が再び外戚としての立場を利用したのです。
しかし、武家政権初の権力者となった清盛が、そのまま摂関政治を踏襲した訳ではありません。すでに太政大臣にまで上り詰めていて、名誉職ともいえる太政大臣はさっさと辞めてしまって実質的な実権を握っていたからです。
清盛は、安徳天皇が即位した年の6月に福原に遷都し、12月には京に戻りました。これは源氏の挙兵に対して京に戻ったと解釈されていますが、それならば守り易い福原の方が軍事拠点には適しています。
安徳天皇即位と福原遷都と京への帰還は、摂関政治や院政による既得権に満ちていた京を捨てることで、清盛を中心とした集権体制を福原で明確にし、その力を前面に押し立てながら既得権を飲み込むために京へ戻ったと考える方がわかり易いのです。
安徳天皇即位が急がれたのは、清盛の余命を考えての焦りであったのかもしれませんね。