他所で拝借した大東義徹の写真(汗)
明治4(1871)年11月12日、岩倉使節団が出航しました。
今日は、その岩倉使節団に同行した彦根の偉人を紹介しましょう。
その人物の名は大東義徹(おおひがし・よしてつ)
天保12(1841)年、彦根藩主が井伊直弼の兄・直亮だった時、大東義徹は、彦根藩の足軽・小西貞徹の次男として生まれました。
早くに母を亡くし、厳しい父親が男手一つで育てたと言われています。特に武芸に秀でていて、河西忠左衛門の教えを受けています。
大望を抱く身として小西という姓はふさわしくないと思い、大東に改名するほどに自分の人生に大きな希望を抱いていましたが、安政7(1860)年3月3日、桜田門外の変が起こり師と仰いでいた河西忠左衛門が闘死してしまいます。
余談ですが、この河西忠左衛門の強さは、桜田門外の変を扱ったドラマなどの映像で今でも見る事ができます。
井伊直弼の乗る駕篭を守るように戦っているのが忠左衛門で、より忠実に映像を作っていると、2振りの刀を持って何度も襲撃者達を押し返して獅子奮迅の働きをしている姿が再現されていますよね。
そんな忠左衛門ですら直弼を守れなかった事実にショックを受けた義徹は、剣術から砲術へと進む道を変更していまうのです。
またまた余談ですが、直弼の仇を討つために同じ年の8月15日に水戸に潜入し、月見をしていた水戸藩前藩主・徳川斉昭を暗殺した彦根藩士が居るのではないかという噂があります。その犯人の候補の一人が大東義徹で、このエピソードを元に『修羅の武士道』(延原潤一郎・著)という小説が書かれていますので、興味がある方は読んでみて下さい。
さて、砲術を志した義徹が次に歴史の舞台に登場するのが、慶応4(1868)年1月3日の事でした。
前年に大政奉還で政権を朝廷に返上した徳川慶喜を討つ為に薩摩藩や長州藩を中心とした官軍は旧幕府軍との戦いにのぞみました。歴史上、“鳥羽伏見の戦い”と呼ばれる戦争は、終始、官軍有利に進んでいたイメージがありますが、実は開戦からしばらくは旧幕府軍が有利だったのです。
官軍を指揮していた西郷隆盛が撤退も仕方ないと考えていた時、彦根藩の大砲が旧幕府軍に打ち込まれ、その一撃で形勢が逆転したのです。その砲撃を指揮したのが義徹でした。
この時の活躍で西郷隆盛との縁ができた義徹は明治維新後に中央政界に進む足掛かりを得ることになるのです。
明治4(1871)年、明治政府は岩倉具視(全権大使・副使が大久保利通、木戸孝允、伊藤博文)を欧米視察に派遣しますが、その時にこれから時代を背負う人材育成も兼ねて、多くの人間が派遣されます。
そんな人物の中には6歳の津田梅子も含まれていました。
この岩倉使節団に彦根藩代表として義徹も参加し、欧米の政治・文化を目の当たりにしました。
帰国後は、特に法律に深い興味を持ち、そこで得た知識を生かして司法省に出仕し、後に大阪、山梨の裁判所長を歴任します。
明治10(1877)年、鳥羽伏見の戦い以来深い交流を続けてきた西郷隆盛が明治政府に対しての反乱である“西南戦争”を起こすと、これに参戦。この時、西郷の為に大坂城乗っ取りを企てたという説話も残っているんですよ。
終戦後は不穏分子として暫らく獄に繋がれますが、やがて許されます。
義徹は地元・彦根では豪胆な性格と深い知識、人当たりの良さから義徹の事を「近江西郷」と呼んで慕っていました。
その為、人気も高く、明治23(1890)年第一回帝国議会創設に伴う衆議院選挙では、武力を排した「與論政治」の実現と民選議員の設立を訴え続けた功績が支持されて当選し、以後7回連続当選を果たします。
明治31(1898)年には、最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣で司法大臣に任命されます、これは県内初・戦前唯一の滋賀県出身大臣となるのです。
またまたまた3度目の余談ですが、この時の他の大臣には
内務大臣・板垣退助
陸軍大臣・桂太郎
海軍大臣・西郷従道
文部大臣・尾崎行雄、犬養毅
など、歴史の教科書で何度も登場する人物が並んでいます。
この第一次大隈重信内閣は尾崎行雄の共和演説事件によって4ヶ月余りで総辞職に追い込まれますが、義徹は法典調査会副総裁として後の条約改正にもつながる事業を進めてゆきます。
中央政界でその痕跡を確実に残した義徹ですが、それと同時に地元・彦根でも数多くの足跡を残しました。
司法省を退官してから、西南戦争に参戦するまでの期間に地元氏族と集議社を設立。法律・司法制度の研究・教育、新聞の閲覧、訴訟の代言代書、演説会を行いました。
この集議社設立メンバーは、彦根中学の前身となる彦根学校の設立と運営に力を注ぎ、町立彦根中学の開設を実現しました。
また、衆議院議員を務めていた明治29(1896)年、彦根の氏族達と有力な近江商人達が連携して近江鉄道を開設し、初代社長に就任しています。
明治の偉人・勝海舟は、西郷隆盛を認めていた人物で、隆盛の死後に「○○西郷」と称される人物に批判的な言葉を浴びせました。
今回紹介しました大東義徹もそんな海舟の批判を受けた一人ですが、義徹が自ら「近江西郷」を称したのではなく、周りからそう呼ばれ、それに応えた所に、周囲の義徹に対する人柄が窺えるのでないでしょうか?
さて、近代の政治家である義徹の息吹をそのまま感じる事は難しいです。しかし、彦根市里根町の天寧寺には、彦根出身で明治三筆の一人に数えられている書道家・日下部鳴鶴による『大東義徹顕彰碑』が残っています。
また、義徹が初代社長を務めた近江鉄道も今でも滋賀県民の大切な交通手段になっているんです。そんな近江鉄道に乗って近江平野をのんびり旅をすると、先人の趣に出会えるかもしれませんね。
なお、今回は名前を“よしてつ”と紹介しましたが、これは彦根市の図書『彦根の先覚』より引用致しました。
“よしてつ”の他に“ぎてつ”“よしあきら”という呼び方もされている事もお伝えしておきます。
明治4(1871)年11月12日、岩倉使節団が出航しました。
今日は、その岩倉使節団に同行した彦根の偉人を紹介しましょう。
その人物の名は大東義徹(おおひがし・よしてつ)
天保12(1841)年、彦根藩主が井伊直弼の兄・直亮だった時、大東義徹は、彦根藩の足軽・小西貞徹の次男として生まれました。
早くに母を亡くし、厳しい父親が男手一つで育てたと言われています。特に武芸に秀でていて、河西忠左衛門の教えを受けています。
大望を抱く身として小西という姓はふさわしくないと思い、大東に改名するほどに自分の人生に大きな希望を抱いていましたが、安政7(1860)年3月3日、桜田門外の変が起こり師と仰いでいた河西忠左衛門が闘死してしまいます。
余談ですが、この河西忠左衛門の強さは、桜田門外の変を扱ったドラマなどの映像で今でも見る事ができます。
井伊直弼の乗る駕篭を守るように戦っているのが忠左衛門で、より忠実に映像を作っていると、2振りの刀を持って何度も襲撃者達を押し返して獅子奮迅の働きをしている姿が再現されていますよね。
そんな忠左衛門ですら直弼を守れなかった事実にショックを受けた義徹は、剣術から砲術へと進む道を変更していまうのです。
またまた余談ですが、直弼の仇を討つために同じ年の8月15日に水戸に潜入し、月見をしていた水戸藩前藩主・徳川斉昭を暗殺した彦根藩士が居るのではないかという噂があります。その犯人の候補の一人が大東義徹で、このエピソードを元に『修羅の武士道』(延原潤一郎・著)という小説が書かれていますので、興味がある方は読んでみて下さい。
さて、砲術を志した義徹が次に歴史の舞台に登場するのが、慶応4(1868)年1月3日の事でした。
前年に大政奉還で政権を朝廷に返上した徳川慶喜を討つ為に薩摩藩や長州藩を中心とした官軍は旧幕府軍との戦いにのぞみました。歴史上、“鳥羽伏見の戦い”と呼ばれる戦争は、終始、官軍有利に進んでいたイメージがありますが、実は開戦からしばらくは旧幕府軍が有利だったのです。
官軍を指揮していた西郷隆盛が撤退も仕方ないと考えていた時、彦根藩の大砲が旧幕府軍に打ち込まれ、その一撃で形勢が逆転したのです。その砲撃を指揮したのが義徹でした。
この時の活躍で西郷隆盛との縁ができた義徹は明治維新後に中央政界に進む足掛かりを得ることになるのです。
明治4(1871)年、明治政府は岩倉具視(全権大使・副使が大久保利通、木戸孝允、伊藤博文)を欧米視察に派遣しますが、その時にこれから時代を背負う人材育成も兼ねて、多くの人間が派遣されます。
そんな人物の中には6歳の津田梅子も含まれていました。
この岩倉使節団に彦根藩代表として義徹も参加し、欧米の政治・文化を目の当たりにしました。
帰国後は、特に法律に深い興味を持ち、そこで得た知識を生かして司法省に出仕し、後に大阪、山梨の裁判所長を歴任します。
明治10(1877)年、鳥羽伏見の戦い以来深い交流を続けてきた西郷隆盛が明治政府に対しての反乱である“西南戦争”を起こすと、これに参戦。この時、西郷の為に大坂城乗っ取りを企てたという説話も残っているんですよ。
終戦後は不穏分子として暫らく獄に繋がれますが、やがて許されます。
義徹は地元・彦根では豪胆な性格と深い知識、人当たりの良さから義徹の事を「近江西郷」と呼んで慕っていました。
その為、人気も高く、明治23(1890)年第一回帝国議会創設に伴う衆議院選挙では、武力を排した「與論政治」の実現と民選議員の設立を訴え続けた功績が支持されて当選し、以後7回連続当選を果たします。
明治31(1898)年には、最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣で司法大臣に任命されます、これは県内初・戦前唯一の滋賀県出身大臣となるのです。
またまたまた3度目の余談ですが、この時の他の大臣には
内務大臣・板垣退助
陸軍大臣・桂太郎
海軍大臣・西郷従道
文部大臣・尾崎行雄、犬養毅
など、歴史の教科書で何度も登場する人物が並んでいます。
この第一次大隈重信内閣は尾崎行雄の共和演説事件によって4ヶ月余りで総辞職に追い込まれますが、義徹は法典調査会副総裁として後の条約改正にもつながる事業を進めてゆきます。
中央政界でその痕跡を確実に残した義徹ですが、それと同時に地元・彦根でも数多くの足跡を残しました。
司法省を退官してから、西南戦争に参戦するまでの期間に地元氏族と集議社を設立。法律・司法制度の研究・教育、新聞の閲覧、訴訟の代言代書、演説会を行いました。
この集議社設立メンバーは、彦根中学の前身となる彦根学校の設立と運営に力を注ぎ、町立彦根中学の開設を実現しました。
また、衆議院議員を務めていた明治29(1896)年、彦根の氏族達と有力な近江商人達が連携して近江鉄道を開設し、初代社長に就任しています。
明治の偉人・勝海舟は、西郷隆盛を認めていた人物で、隆盛の死後に「○○西郷」と称される人物に批判的な言葉を浴びせました。
今回紹介しました大東義徹もそんな海舟の批判を受けた一人ですが、義徹が自ら「近江西郷」を称したのではなく、周りからそう呼ばれ、それに応えた所に、周囲の義徹に対する人柄が窺えるのでないでしょうか?
さて、近代の政治家である義徹の息吹をそのまま感じる事は難しいです。しかし、彦根市里根町の天寧寺には、彦根出身で明治三筆の一人に数えられている書道家・日下部鳴鶴による『大東義徹顕彰碑』が残っています。
また、義徹が初代社長を務めた近江鉄道も今でも滋賀県民の大切な交通手段になっているんです。そんな近江鉄道に乗って近江平野をのんびり旅をすると、先人の趣に出会えるかもしれませんね。
なお、今回は名前を“よしてつ”と紹介しましたが、これは彦根市の図書『彦根の先覚』より引用致しました。
“よしてつ”の他に“ぎてつ”“よしあきら”という呼び方もされている事もお伝えしておきます。