●今日の一枚 19●
John Coltrane A Love Supreme
勇気をもって告白しよう。やはり、私はコルトレーンが好きである。そんなことに勇気は必要ないだろう、と考える人も多いだろう。しかし、コルトレーンが、それも「至上の愛」が好きだなどというのは、現在では、まともなジャズ・ファンとはみなされない傾向があるのだ。1960年代のカウンター・カルチャーの時代、コルトレーンは異常ともいえる聴かれ方をした。その後遺症かどうかわからないが、ジャズ評論家のみなさんは、ジャズ音楽として積極的に評価されない方が多いのだ。例えば、吉祥寺のジャズ喫茶メグの寺島靖国さんは、つぎのように語る。
《コルトレーン・ファンの怒りを買うのはわかっているが、あえて言うと、笑ってしまうのである。だいたい神などと口にする人をぼくはおかしいと思うが、コルトレーンは真剣なのだ。笑ってしまってから、気の毒だなあと思う。気の毒と思ったらもう音楽は聴けない。尊敬する人だけ聴けばいい。「ちょっと変だな」と思うのが普通の神経。》 (寺島靖国『辛口JAZZ名盤1001』講談社α文庫)
また、寺島さんの天敵、四谷のジャズ喫茶いーぐるの後藤雅洋さんも次のように語る。
《「至上の愛」は考えようによっては、コルトレーンのすべてが体現されている傑作なのだけれど、何度も聴いていると、いささか押しつけがましさが気になってくることがある。どうしてそうなるのか考えてみると、どうやら、音楽と同時に聞こえてくる内面の物語が、うっとうしく感じられるのだと思う。音楽はあくまで音楽のことばで、これが僕のジャズを聞くときの基本姿勢だ。》 (後藤雅洋『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書)
けれども、と私は思う。私は「音楽はあくまで音楽のことばで」判断して、コルトレーンがすきなのだ。例えば「至上の愛」パート2の「決意」。こんな爽快でかっこいいフレーズは、ちょっとないのではないだろうか。私は、コルトレーンが異常にかけられていた時代のジャズ喫茶の雰囲気をリアルタイムでは知らない。音楽で判断するしかないのだ。音楽で判断してコルトレーンが好きだ。彼の内面の物語の軌跡は理解しているつもりだし、内省的と言えば内省的な音楽だが、そこにはまぎれもなく黒人のブルースのフィーリングが息づいている。しかも、他のミュージシャンとはまったく異なる形で……。
思うに、私より上の世代は、1960年代にあまりにコルトレーンが流行したゆえに、当時の政治的・文化的な背景がまとわりつき、それがうっとうしいのではないだろうかと考えるのだが、いかがであろうか。寺島さんのように宗教性を云々するなら、多くの西洋人が「ちょっと変」である筈だ。評論家の理屈としての気持ちはわかるが、ちょっと拡大解釈しすぎだと思う。
確かに、コルトレーンは聖者への道を歩もうとしたが、にもかかわらず、音楽の芯の部分でブルースのフィーリングが常に息づいていた、というのが私の結論だ。