連休の谷間、DVDで「硫黄島の手紙」を見ました DVDでは日時が曖昧なので多少爺の知識を追加して紹介します
1944年6月栗林中将は小笠原兵団長として父島に赴任すると間もなく7月には「硫黄島に進出し兵団司令部を置き硫黄島の防御」を直接指導します
やる気のない西郷一等兵と相棒は海岸の陣地構築中「この島なんかアメリカに渡してしまえば良いのにーー」なんて与太話をしている所を上官に聞きとがめられ焼きを入れられています 丁度着任早々島の様子を視察する栗林中将に「兵は貴重な戦力」と止められ事なきを得ます
司令部で海岸陣地は(敵の)艦砲射撃に耐えられないので洞窟陣地にこもる様指導をしますが(従来の戦術教本の運用から中々抜けられない)部下の反発と海軍による指揮命令の違いで上手く機能しません
島内視察の合間に島民の子供を見かけます 自分の息子タローと思いが重なり島民の内地疎開が決まります
中将は駐在武官として米国に居たときから広く米国の国力を認識すると同時にその様子を当時幼かったタローに絵入で手紙を書き送っていました 離島で郵便の往復もまま成らぬ今でも手紙は書き続けています
ある日島内視察中、戦車連隊西中佐と出会います 西中佐はバロン(男爵)西と呼ばれロスアンゼルスオリンピックの乗馬種目で入賞した国際的有名人です
二人の会話をセリフ回しに使い米軍はサイパンを陥落させ連合艦隊はもはや機能していない事を観客にわからせます
そうなると本土はB29の爆撃範囲になり東京から1080キロ南の硫黄島は護衛戦闘機の基地として又B29の不時着飛行場として絶対〔米軍に〕必要な島となり日本軍にとっては米軍に渡してはならない拠点となりました
洞窟陣地の構築が一段と急がれる中、米軍機による空襲が始まります
避難した防空壕の中で西郷一等兵は大宮のパン屋の主人でお腹に子のいる妻を残して出征したのでした 乏しくなる材料を使っての商品を見回りの憲兵は「国の為」と称してはタカリ食いをしたと憤ります 相棒の清水も呉服屋で似たような状態でした
連日の爆撃に耐えられなく頃米艦隊がサイパンを出航した情報が入ります
栗林中将は直ちに「戦闘配置」を発令し「兵1名が米兵10名を殺すまで軽はずみな戦死をしない様」戒めます
そしてある日(史実では1945年2月19日)硫黄島前面に米軍が展開し上陸を開始します
米軍の占領予定は5日ですむ筈でした 上陸地点に群がる米軍をみて部下は応戦を望みます しかし中将は上陸地点を米兵で一杯にした所を狙い撃ちする戦法をとります
満を持しての反撃に米軍の損害は大きいようです その夜の点検では海岸線の防御陣地は全滅しますが洞窟陣地に損害はありません しかし引き続く戦闘で南のすり鉢山陣地で弾丸糧食とも尽きて部下は玉砕の許可を求めてきます 中将は司令部に撤退し抗戦するよう指導しますが部隊長は自決し同様の命令を部下に下します
次々と手榴弾で自決する兵隊 あまりやる気のない西郷一等兵もその場に居て自決を強要されますが栗林中将の指導を受け入れ生き延びて戦い続ける事を選びます
史実ではすり鉢山の陣地は2月19日に陥落してしまいます これは陸海軍の連携が上手く行かず海軍部隊が「隠蔽した大砲」を目の前を行き来する米軍の駆逐艦に敵意を燃やし発砲した為、地上部隊を砲撃する以前に全滅してしまった事とされています
このため島の中央部に上陸した米軍を南北から滅多打ちをするとの栗林戦術が出来なくなりました
さて西郷他生き残り司令部に撤退する部隊は島の中央部で防御壕のない部分で次々と倒れます 戦車連隊の西中佐も戦車の車体を埋め砲塔を出し砲台として健闘しますが戦車は全滅自分も目を焼かれ部下を撤退させた後自決します
米軍による火炎放射器による攻撃 切れる弾薬 司令部にかろうじてたどり着いた西郷たちに一滴の水もありません
ついに栗林中将は大本営に「決別電」を送り最後の突撃を決意します 総勢200名とも400名とも言われます
中将は突撃に当たり西郷に機密文書の焼却と軍用行李の隠匿を命じます
(爺が過日ブログに書いた決別電は3月16日付けですが中将が突撃を命じたのは3月26日 実に一ヶ月以上の健闘でした)
中将は出身兵科の騎兵将校として白たすきを掛け「兵の先頭に立ちます」
やがて銃撃を受け瀕死の重傷を負います 偶然西郷と行き逢い遺骸の処理を頼み自決しました 西郷一等兵は捕虜となったようです
2005年硫黄島協会の手で塹壕内の遺骨や遺品の収集が行われています
(西郷二等兵が埋めたと思われる)軍用行李の中からたくさんの手紙がこぼれ出ました
実際の戦闘は守備側日本軍は20000人の内1000名余が捕虜になった他は全員が玉砕しました 米軍も戦傷者と死者合計28000名を越える損害を出しました
陸上戦闘で米軍の損害が日本側のそれを上回った唯一の例です
また師団長級の指揮官が陣頭に立ち突撃を行ったのも日本陸軍戦史上唯一の例となりました
映画は平時でも40度を越え硫黄ガスの吹き出る劣悪な環境をさらっと流しています 又負傷兵が医薬品の不足で手当てもされないまま壕内に寝かされ壕内に火炎放射器やガソリンを流し込まれ生きたまま焼き殺される様子は深く描写しません
それと「硫黄島からの手紙」と題する意味があまり良くわかりませんでした
日本人監督が作った作品なら失格、クリント・イーストウッド作品としてかろうじて及第(55点)でしょうか
写真:栗林中将
1944年6月栗林中将は小笠原兵団長として父島に赴任すると間もなく7月には「硫黄島に進出し兵団司令部を置き硫黄島の防御」を直接指導します
やる気のない西郷一等兵と相棒は海岸の陣地構築中「この島なんかアメリカに渡してしまえば良いのにーー」なんて与太話をしている所を上官に聞きとがめられ焼きを入れられています 丁度着任早々島の様子を視察する栗林中将に「兵は貴重な戦力」と止められ事なきを得ます
司令部で海岸陣地は(敵の)艦砲射撃に耐えられないので洞窟陣地にこもる様指導をしますが(従来の戦術教本の運用から中々抜けられない)部下の反発と海軍による指揮命令の違いで上手く機能しません
島内視察の合間に島民の子供を見かけます 自分の息子タローと思いが重なり島民の内地疎開が決まります
中将は駐在武官として米国に居たときから広く米国の国力を認識すると同時にその様子を当時幼かったタローに絵入で手紙を書き送っていました 離島で郵便の往復もまま成らぬ今でも手紙は書き続けています
ある日島内視察中、戦車連隊西中佐と出会います 西中佐はバロン(男爵)西と呼ばれロスアンゼルスオリンピックの乗馬種目で入賞した国際的有名人です
二人の会話をセリフ回しに使い米軍はサイパンを陥落させ連合艦隊はもはや機能していない事を観客にわからせます
そうなると本土はB29の爆撃範囲になり東京から1080キロ南の硫黄島は護衛戦闘機の基地として又B29の不時着飛行場として絶対〔米軍に〕必要な島となり日本軍にとっては米軍に渡してはならない拠点となりました
洞窟陣地の構築が一段と急がれる中、米軍機による空襲が始まります
避難した防空壕の中で西郷一等兵は大宮のパン屋の主人でお腹に子のいる妻を残して出征したのでした 乏しくなる材料を使っての商品を見回りの憲兵は「国の為」と称してはタカリ食いをしたと憤ります 相棒の清水も呉服屋で似たような状態でした
連日の爆撃に耐えられなく頃米艦隊がサイパンを出航した情報が入ります
栗林中将は直ちに「戦闘配置」を発令し「兵1名が米兵10名を殺すまで軽はずみな戦死をしない様」戒めます
そしてある日(史実では1945年2月19日)硫黄島前面に米軍が展開し上陸を開始します
米軍の占領予定は5日ですむ筈でした 上陸地点に群がる米軍をみて部下は応戦を望みます しかし中将は上陸地点を米兵で一杯にした所を狙い撃ちする戦法をとります
満を持しての反撃に米軍の損害は大きいようです その夜の点検では海岸線の防御陣地は全滅しますが洞窟陣地に損害はありません しかし引き続く戦闘で南のすり鉢山陣地で弾丸糧食とも尽きて部下は玉砕の許可を求めてきます 中将は司令部に撤退し抗戦するよう指導しますが部隊長は自決し同様の命令を部下に下します
次々と手榴弾で自決する兵隊 あまりやる気のない西郷一等兵もその場に居て自決を強要されますが栗林中将の指導を受け入れ生き延びて戦い続ける事を選びます
史実ではすり鉢山の陣地は2月19日に陥落してしまいます これは陸海軍の連携が上手く行かず海軍部隊が「隠蔽した大砲」を目の前を行き来する米軍の駆逐艦に敵意を燃やし発砲した為、地上部隊を砲撃する以前に全滅してしまった事とされています
このため島の中央部に上陸した米軍を南北から滅多打ちをするとの栗林戦術が出来なくなりました
さて西郷他生き残り司令部に撤退する部隊は島の中央部で防御壕のない部分で次々と倒れます 戦車連隊の西中佐も戦車の車体を埋め砲塔を出し砲台として健闘しますが戦車は全滅自分も目を焼かれ部下を撤退させた後自決します
米軍による火炎放射器による攻撃 切れる弾薬 司令部にかろうじてたどり着いた西郷たちに一滴の水もありません
ついに栗林中将は大本営に「決別電」を送り最後の突撃を決意します 総勢200名とも400名とも言われます
中将は突撃に当たり西郷に機密文書の焼却と軍用行李の隠匿を命じます
(爺が過日ブログに書いた決別電は3月16日付けですが中将が突撃を命じたのは3月26日 実に一ヶ月以上の健闘でした)
中将は出身兵科の騎兵将校として白たすきを掛け「兵の先頭に立ちます」
やがて銃撃を受け瀕死の重傷を負います 偶然西郷と行き逢い遺骸の処理を頼み自決しました 西郷一等兵は捕虜となったようです
2005年硫黄島協会の手で塹壕内の遺骨や遺品の収集が行われています
(西郷二等兵が埋めたと思われる)軍用行李の中からたくさんの手紙がこぼれ出ました
実際の戦闘は守備側日本軍は20000人の内1000名余が捕虜になった他は全員が玉砕しました 米軍も戦傷者と死者合計28000名を越える損害を出しました
陸上戦闘で米軍の損害が日本側のそれを上回った唯一の例です
また師団長級の指揮官が陣頭に立ち突撃を行ったのも日本陸軍戦史上唯一の例となりました
映画は平時でも40度を越え硫黄ガスの吹き出る劣悪な環境をさらっと流しています 又負傷兵が医薬品の不足で手当てもされないまま壕内に寝かされ壕内に火炎放射器やガソリンを流し込まれ生きたまま焼き殺される様子は深く描写しません
それと「硫黄島からの手紙」と題する意味があまり良くわかりませんでした
日本人監督が作った作品なら失格、クリント・イーストウッド作品としてかろうじて及第(55点)でしょうか
写真:栗林中将