王様の耳はロバの耳

横浜在住の偏屈爺が世の出来事、時折の事件、日々の話、読書や映画等に感想をもらし心の憂さを晴らす場所です

天皇陛下 ご在位最後の誕生日会見 !!

2018-12-23 10:13:20 | 天皇家
時おり声を詰まらせ“天皇としての旅”ふり返られる...天皇陛下がご在位中最後の誕生日【動画全録】

今日23日は天皇誕生日でこのため20日に収録されていた記者会見の様子が動画で流れました。
まだ23日が天皇誕生日である事の刷り込みが浅くてこの三連休は「23日が日曜日なので24日は振替休日」のためでした。
下々の例に例えては失礼ですが先帝昭和天皇は「現人神」から「人間天皇」へと身分を変えられ戦前と戦後の混乱期の日本人を(精神的に)纏めていらっしゃいました。今上陛下は中興の先代を引き継ぎ「象徴天皇である事を意識しその行為を(多分)国民の気持ちに寄り添う祈りを行う」事と絞った様に見受けられました。
明治憲法を含めても憲法が天皇の権能に制限を加え「それ以前から続く天皇家の行事でありかっては国の行事でもあった行為」のいくつかは良く判らないまま実体として継承されてきました。
もともと法治民族でない日本人が論理的かつ首尾一貫して象徴天皇の行為と国事行為と切り分けることなどできませんでした。

それでも今上陛下は「象徴天皇とは祈りである」と規定されそれさえも十分な体力と気力に支えられなければ「満足に果しえない」とされ来年4月末日を持って生前ご退位となりました。
それも決まるまで実に10年くらいはかかっていたのですね。

しかしその結果平成の御代は他国に戦争を仕掛ける事も仕掛けられる事も無く終わりそうです。
これは実に偉大な事だと思います。

又陛下自らが述べられましたが民間から皇室に入られた美智子妃殿下の天皇陛下に捧げる公私に亘る愛情と寄り添いは滅私と呼んでも差し替えないほどにお見受けしました。ついに実家の正田ご一族は一度も国民の前に現れる事なく過ぎました。
是非御退位後はお二人で私的旅行でもお楽しみいただきたいと思っています。
さてそこで三代目ですがどうなりますかね?
浜爺は心配しています。
まあ今日はその事を語る場ではありませんので述べません。
惜しまれつつ去ると言うのは難しいものです。
平穏なご退位を願っております。


写真:ご在位中最後となる誕生日記者会見で

FNN Prime:
23日、天皇陛下はご在位中最後となる、85歳の誕生日を迎えられた。誕生日に先立ち行われた記者会見で、天皇陛下は時おり、涙で声を詰まらせながら平成を振り返られた。

(陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え、皇室は新たな世代が担っていくこととなるが、現在のご心境と、今、国民に伝えたいことは?)

この1年を振り返る時、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。

集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。

新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。

命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。

ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。

今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。

私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。

譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。

第2次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉(しゅうえん)を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。

世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。

以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。

終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々とわが国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。

そしてその翌年、英国のエリザベス2世女王陛下の戴冠式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。

それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、わが国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。

昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。

沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。

皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。

沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。

そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。

先の大戦で多くの人命が失われ、また、わが国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。

平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています。

そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、さらにその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。

皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

次に心に残るのは災害のことです。

平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。

ただ、その中で、人々の間にボランティア活動をはじめ、さまざまな助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。

また、災害が発生したときに規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。

障害者をはじめ困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。

障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。

パラリンピックをはじめ、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。

今年、わが国から海外への移住が始まって150年を迎えました。

この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。

こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。

そして近年、多くの外国人がわが国で働くようになりました。

私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。

日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国からわが国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。

また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者がわが国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。

明年4月に結婚60年を迎えます。

結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。

また、昭和天皇をはじめ私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子どもを育てました。

振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。

天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の1人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心からねぎらいたく思います。

そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。

多くの関係者がこのための準備にあたってくれていることに感謝しています。

新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。

今年もあとわずかとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。
(引用終わり)
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