人生チャレンジ20000km~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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選抜高校野球/準々決勝最終戦で世紀の大誤審(?)か

2012-04-01 22:22:50 | 芸能・スポーツ
横浜無念、本塁ベース踏み忘れ/センバツ(日刊スポーツ)

試合経過、アピールプレーの詳細はリンク先記事の通りだが、5回裏、横浜の攻撃中、スクイズにより生還した3塁走者が本塁を「空過」(ベースを踏まずに通過すること)したとして、関東一の捕手が球審にアピールプレーを行い、生還・得点が取り消されるという珍しいプレーがあった。このプレーがなければ、横浜はここで2-2の同点に追いついていただけに、その後の試合の流れを変えるプレーだったと思う。

ところで、リンク先記事に掲載されている写真を見る限り、どう見ても生還した走者のかかとが本塁に触れているように見える。この判定は勝敗を左右し、大会の行方をも変える「世紀の大誤審」の可能性が出てきた。

今日は休日ということもあり、当ブログ管理人はテレビでこの試合を生で見ていたが、インコース真ん中に落ちてきた明らかなストライクをボールと判定するなど、試合序盤から「この球審、大丈夫か?」と思うような判定が続出していた。こうした疑いを持たれるような判定が出てきても、仕方ないと思われる審判員の力量不足が背景にありそうだ。

ところで、正式の野球のルールブックである「公認野球規則」では、走者が塁を空過した場合のアピールプレイについて、次のように定めている。

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公認野球規則<抄>

七.〇八 次の場合、走者はアウトとなる。

(a)~(j) (略)
(k) 走者が本塁に走り込むか、または滑り込んだ際に、本塁に触れないで、しかも本塁に触れ直そうとしないときに、野手がボールを持って本塁に触れて、審判員にアピールした場合。

【原注】本項は、本塁に触れなかった走者がベンチに向かっており、アウトにするためにはその走者を追いかけなければならないような場合に適用される。本塁を踏み損ねた走者が、触球される前に踏み直そうと努力しているような普通のプレイが行われているときには適用されない。この場合には、走者は触球されなければアウトにはならない。
------------------------------------------------------------------------

当ブログ管理人の手元にある2007年版公認野球規則では上のような表現になっている。野球規則は米国で制定・改正され、日本野球規則委員会が日本語に訳しているもので、【原注】とは英語の原文の段階で付けられている注意事項が日本語訳されたものだ。「触球」とはタッチされることをいう。

この規則を読むと、空過(ベースの踏み忘れ)は単にその事実が審判員によって確認されれば自動的にアウトになるというものでなく、守備側のチームがアピールしなければならない、ということがわかる。

今回は、関東一の捕手がアピールしたもので、それ自体は野球規則に従ったアピール行為だが、球審が3塁走者生還時に本塁が踏まれているかどうかの確認をしていたかどうかは疑問が残る。

今日の試合では、審判員の力量不足が看過できないレベルで見られた。もともと教育活動である高校野球では、審判員もプロではなくボランティアのアマチュアが務めているが、この程度の確認行為さえ満足にできないような審判員には何らかの研修等が必要なのではないか。

一方で、横浜の3塁走者、尾関にも苦言を呈する必要がある。そもそも彼が、誰にも疑いを持たれないよう、きちんと本塁を踏んでおけばこのような事態にはならなかった。ベースはきちんと踏むという基本を忠実に守らず、緊張感のないプレーをしたからこそこのような結果を招いたともいえる。大会もあと2日で終了するが、選手たちには、教育活動にふさわしい正々堂々としたプレーを望んでおきたい。

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第93回夏の高校野球を振り返る

2011-08-20 14:02:30 | 芸能・スポーツ
第93回夏の全国高校野球は、日大三(西東京)が光星学院(青森)を11-0で破り、10年ぶり2回目の全国制覇を成し遂げた。小倉全由監督にとっても2回目の優勝。光星学院は東北勢として6回目の全国制覇に挑んだが、6回目の挑戦も敗れ、惜しくも散った。東北勢の決勝進出自体、夏の大会では1969(昭和44)年の第51回大会以来42年ぶりだ。このとき決勝に進出したのは光星と同じ青森代表の三沢だった。松山商(愛媛)との延長15回引き分け再試合を経て松山商が優勝したこの戦いは甲子園史上に残る、勝敗すら超越した名勝負として現在まで語り継がれている。

では、例年どおり今大会を振り返ろう。

今年は被災地に当たる関東・東北勢が頑張った大会であったように思う。決勝で対戦した両校を初め、関東勢がベスト8に3校(習志野・作新学院)、東北勢が1校残った。その他、関西勢が2校(智弁学園(奈良)、東洋大姫路(兵庫))、中国勢が2校(関西(岡山)、如水館(広島))残った。東日本大震災の影響を受けたのかどうかわからないが、関東・東北勢は背中に被災者の魂とでも形容すべき、何か見えない力を背負っているような気がした。一方、今年の選抜で好成績を収め、レベルが高いと思われた九州・沖縄勢、四国勢はベスト8に1校も残らなかった。特に九州・沖縄勢8校のうち6校は初戦敗退。九州勢がベスト8に1校も残れなかったのは16年ぶりという寂しい結果となった。

全体的に、今年は9回に大逆転という試合が多く、大量得点差を跳ね返しての逆転劇も目につくなど、「あきらめなければ勝てる」を実証する実力伯仲の面白い大会だった。とりわけ2回戦、大会8日目の帝京(東東京)-八幡商(滋賀)戦では、帝京投手陣に完璧に抑えられ、8回まで2塁も踏めなかった八幡商が、9回に突然単打を3つ固め打ちした後、逆転満塁弾を放ち、そのまま帝京の反撃をかわした。この試合は、優勝候補の一角・帝京が敗れる番狂わせであるとともに「あきらめなければ終盤に逆転」「実力伯仲」の今大会を象徴する試合だったように思う。

また、全体的に打高投低で、強打、集中打が試合を決めることが多かった。これは近年、夏の大会の全般的傾向といえるが、守備に関しては残念ながらレベルの高い大会とはいえなかった。さすがに3回戦以降は少なくなったが、1回戦、2回戦段階では、ボールを落として拾い直したり、捕球後握り直すうちに投球が遅れ、内野安打や走者生還につながるケースが多かった。こうした記録に表れない守備上のミスが決勝点になることも多かった。守備に関しては東日本大震災で直接被災地とならなかった西日本地区の出場校も含め、練習不足がはっきり出ていたと思う。ただ、未曾有の災害で日本中が浮き足立っていた今春以降の社会状況を見ると、ある程度やむを得ないとは思っている。

その中で、優勝した日大三の吉永は大会屈指の好投手といわれた前評判に違わない投球ぶりで優勝に大きく貢献した。結果的には、今日の決勝戦が最も投球内容としてはよかったのではないか。準々決勝あたりまでは、走者を背負うとストライク、ボールがはっきりし、球が荒れる弱点もあった。ただ、決勝までの5試合で投球数640球(1試合平均130球弱)はまずまずの投球内容で、与四死球が多い割には投球数は多くない。適度に荒れた球に相手打線が苦しみ、早打ちをして倒れていった様子がデータからもうかがえる。走者を抱えたときのコントロールの問題は技術より精神面が大きいので、今後試合数を重ねて克服できれば、140km台の速球と合わせてプロでも十分通用する投手だと思う。

印象深かった学校としては、初出場ながら屈指の機動力を見せた健大高崎(群馬)を挙げておきたい。地方予選6試合で26盗塁というずば抜けた機動力は1回戦で遺憾なく発揮され、甲子園でもなかなかお目にかかれない2ランスクイズという貴重なシーンも見せてもらった。だが、2回戦で屈指の強豪・横浜に敗れ甲子園を去った。機動力だけでも勝ち上がれない甲子園は厳しい世界だが、イチローを見てもわかるように俊足は内野ゴロを内野安打に変えてしまう大きな武器だ。その俊足をもってまた甲子園に来てほしい。

そうそう、今年の甲子園の忘れ得ぬ思い出として、いい話があるので記憶にとどめておこう。大会7日目(8月12日)、東京都市大塩尻(長野)-明豊(大分)戦での出来事だ。奪三振を“訂正申告”都市大塩尻、正々堂々散る(スポニチ)という見出しの記事を参照いただきたいが、この試合の6回、明豊の攻撃中、東京都市大塩尻が1点失った後、なお無死三塁の場面だった。5番の佐藤を内角高めのカーブで空振り三振に仕留めたと思われたが、捕手の古谷が「バットに当たっていました」と審判に正直に申告。判定はファウルに訂正された。その後、佐藤は四球で出塁し、これをきっかけとして東京都市大塩尻は6点を失った。

自校に有利な誤審であり、黙っていればそのまま試合は進み、東京都市大塩尻は勝てたかもしれない。だが主将の古谷は「常に敵味方関係なく、正々堂々とプレーしろと監督に言われている。後悔はありません」と、さわやかな笑顔で甲子園を去った。

原発事故以降、「いかにウソをつき、情報を隠して他人を騙すか」しか考えない大人ばかりになってしまった絶望的なこの国で、ひとりでも彼のような若者がいることにいちるの希望が見えた気がする。ぜひそのまま古谷君には正しく美しい大人になり、腐り切ったこの国を変えてほしいと思う。

地方予選段階の大きな話題としては、常総学院(茨城)の木内幸男監督(79)の引退を挙げておきたい。甲子園で木内監督の名声を高からしめたのは1984(昭和59)年、取手二高を率いた夏の大会で、桑田真澄、清原和博の「KKコンビ」を擁し、高校野球史上最強といわれたPL学園(大阪)に終盤、追いつき、打ち砕いて初出場初優勝という快挙を成し遂げたことだ(ちなみに茨城県勢としてもこのときの取手二が初優勝)。その後は常総学院に移り、ここでも2001年、2003年に全国制覇を成し遂げた。いったん引退、2007年に監督に復帰したが、さすがに高齢による健康問題がささやかれる中での引退となった。PL学園・中村監督、沖縄水産・栽監督、池田高校・蔦監督などと並ぶ甲子園名監督に数えて間違いないと思う。長年の労をねぎらいたい。

東日本大震災による節電の影響で、決勝戦も午前開始となるなど異例ずくめの展開となった今大会だが、節電という社会的要請があったとはいえ、準決勝、決勝では午前中に試合を終えてしまう今回の運営方式は、選手や関係者、観客の熱中症対策という意味でも今後のモデルケースとなるだろう。そもそも、電力も気温もピークとなる時間帯にわざわざ決勝戦を構える今までのやり方に無理・無駄が多すぎたのだ。教育活動の領域を大きく踏み越え国民的行事となった高校野球だが、あくまで原点は「部活動、教育活動」である。頑張れ一辺倒の精神主義ではなく、時代の要請に応え、気象条件に合わせて無理なく実施する柔軟で合理的な大会のあり方をともに考え、実行していくことも立派な教育活動なのではないだろうか。ぜひ、今回の大会で得た新しいスタイルが定着するよう、この方式は来年以降も継続してもらいたいと思っている。

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平野綾、ついに事務所に反旗?

2010-11-18 21:33:27 | 芸能・スポーツ
平野綾が所属事務所を猛烈批判 「私の積み重ねを否定」(J-CASTニュース)

平野綾という声優に、今まで私はほとんど興味がなかったのだが、最近の騒動を見ていて、なんだかとても彼女が不憫に思えてきた。そもそも、この事務所は声優というものの世界を根本的に理解していないのではないかと思わざるを得ない。

平野綾が、声優以外でも活躍できるマルチな能力を持っているのをいいことに、マルチに活躍させようと目論んでいるのかもしれないが、過去、オタク界と一般芸能界を股にかけようとして成功した実例は残念ながらほとんどない。中途半端にその道を目指せば、椎名へきるのように両方とも実らず、消えていくことにもなりかねないが、平野綾は今、無理解な事務所によって、その最も危険な道に分け入っているように思える。しかも、形勢不利となると、突然、脳の病気をカミングアウトしての「お涙頂戴作戦」だ。

20歳代というのは、(他の職業もすべてそうだが)声優にとって最も伸び盛りの時期である。この業界で生き残れるか、消えていく運命になるかは20歳代で決まると言っても過言ではない。そんな大切な時期に、事務所の指示とはいえ本業そっちのけのスタンドプレーばかりでは伸びるものも伸びないに決まっている。

今、この最も大事な瞬間を、彼女は自分の本業での成長だけ考えて過ごすべきだ。精一杯頑張って、それでもだめなら仕方ないが、今のこの状況で、仮に声優界も芸能界も追われた場合、彼女にはおそらく後悔だけが残るだろう。

23歳という年齢は、この世界では決して若いほうではないが、かといってやり直しがきかないほどの高齢というわけでもない。声優業界に残って頑張るのか、芸能界に転身するか。事務所によって潰される前に、彼女には決断の時が迫っている。

厳しい言い方だが、声優業界の中ではマルチな能力でも、一般芸能界では彼女は「その他大勢」だろう。私自身としては、この業界を理解している事務所に思い切って移籍し、声優界に残る決断をして頑張るべきだと思っている。ただし移籍にはエネルギーが要る。事務所と闘うなら、それなりの覚悟で臨むべきだ。平野綾が腹をくくり、その決意をして闘うなら、当ブログは平野綾を支持する。

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赤松健、ネットで「ラブひな」無料公開へ

2010-11-17 21:20:35 | 芸能・スポーツ
「ラブひな」全巻無料公開へ 赤松健氏、ネット漫画の新ビジネスに挑戦(ITmediaニュース)

赤松健先生が、なにやらマンガビジネスに乗り出したようで。

商業ベースに乗らなかった幻のマンガをネットで復刊させようという試みは面白いかもしれないし、いずれ出る出ると言われながら各社、模様眺めで足踏み状態にある電子書籍の将来を占うひとつの試金石になるかもしれない。

「何をやってもどうせネットに流出しちゃうんだったら、広告入れてビジネスにしちゃえ」という発想が、いかにも赤松先生らしい。この人の商才には脱帽してしまう。マンガが売れなくなっても、実業家として十分やっていけそうな気がする。

いずれにしても、今でも大好きな作品であるラブひなが、ひと味違ったテイストで読めそうなのはうれしい。無料だし、外に出るのがおっくうな冬はPDF版ラブひなでも読んで過ごそうか。

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あの懐かしい「ラブひな」、8年半ぶりに読切に

2010-09-02 23:21:16 | 芸能・スポーツ
ラブひな :マガジンで読み切り復活 「魔法先生ネギま!」連載300回特別企画で(毎日新聞)

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 東大を目指す内気な浪人生と美少女たちの日常を描いた赤松健さんのラブコメ「ラブひな」が、1日発売の「週刊少年マガジン」40号で復活し、6ページの読み切りで掲載された。赤松さんが現在連載中のマンガ「魔法先生ネギま!」の連載300回に合わせた特別企画。

 「ラブひな」は、98~01年に同誌に連載、全14巻で約900万部を発行した人気マンガで、赤松さんの代表作の一つ。女子寮「ひなた荘」を舞台に、東大を目指す内気な浪人生の浦島景太郎と、景太郎にすぐちょっかいを出すちょっとドジな優等生・成瀬川なるらの個性派ぞろいの美少女たちの日常を描いたラブコメディー。テレビ東京系でアニメ化、舞台化もされている。

 読み切りは、ひなた荘の温泉で美少女たちがちょっとHなトークに花を咲かせているところに、景太郎が予備校から戻って来て……というショートストーリーが描かれている。(毎日新聞デジタル)
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これはもう、奇跡の復活と言わずしてなんと言えばいいのか。

1998年に「週刊少年マガジン」誌で連載が始まり、単行本は900万部も売り上げた、あの伝説のラブコメが読切の形で帰ってきた。私をオタク界に引きずり込んだ運命の作品、おそらく生涯忘れることのできない作品かもしれない。堀江由衣さんのファンになったのも、彼女がこの作品のヒロイン・成瀬川なるを演じたことがきっかけだ。

8年半ぶりに読むラブひなは、女子寮「ひなた荘」での各キャラの日常を描いたものとなった。読切とはいえ、わずか6ページとあっては手の込んだストーリーを仕立てるのは難しいだろうから、一話完結型のネタというのが無難なところだろう。本当は、成長した大人の各キャラを「その後のひなた荘と住人たち」という形で描いて欲しかったが、「魔法先生ネギま!」の連載を続けながら「ラブひな」についても新しいストーリーを考えるというのは、週刊連載を落とさずに続けていることが奇跡に近い遅筆(?)の赤松先生にとって、かなり酷に違いない。

それでも、久しぶりに読んだ「ラブひな」は、私たちほとんどのファンがもっとも熱狂的に支持していた頃の「ラブひな」のテイストを感じさせるもので、純粋に嬉しかった。この予定調和的で、くだらなくて、しかしその予定調和性とくだらなさこそが、個性的な各キャラの魅力を最大限に引き出したことにより、往時の「ラブひな」に最も近い形で再現された読切は、私にとって最大限に評価してよいものだ。

それより何より、最も嬉しかったのは、「ラブひな」の読切が掲載されるこの週の「マガジン」の発売日が待ち遠しくてたまらなかったことだ。思えば「ラブひな」連載当時は、毎週、水曜日が来るたびにこのワクワクするような躍動感を抑えられなかった。ラブひなの連載終了以来、マガジンを買うことすらなかった私だが、あのときと同じような、ワクワクする期待と躍動感を与えてくれる「ラブひな」が、終了から8年半経った今なお、自分にとって特別な作品であることを再確認できた。そのことが何より嬉しい。

(注:当記事は、わかる人にしかわからない内容になっていますが、お許しください。)

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大黒摩季、活動休止へ

2010-08-25 23:53:26 | 芸能・スポーツ
大黒摩季さん、活動休止へ(夕刊フジ)

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 シンガー・ソングライターの大黒摩季(40)が、子宮疾患の治療に専念するため、10月末から無期限で活動を休止することになった。25日未明、公式ホームページやファン向けのブログで報告した。
 大黒によると、病名は「重度の子宮腺筋症、左卵巣嚢腫=子宮内膜症性のチョコレート嚢腫、子宮内膜症、子宮筋腫という子宮疾患メドレー」だという。

 子宮疾患は1996年末に発覚、「だましだまし付き合って来ました」。病状は進行。子宮全体がふくれあがり、これ以上肥大すると摘出しかなくなり、妊娠できなくなるという。

 大黒は2003年に会社員男性と結婚。妊娠が子宮疾患の治療になるともいわれ、体外受精を試みてきた。しかし、ハードな仕事で流産を繰り返し、体に相当なダメージを受けたため、今後は夫と病に向き合っていくことにした。

 また、同じ病気を持つ女性のため、あえてくわしい病状の公表に踏み切った。

 大黒はきょう25日、2年半ぶりのアルバム「すっぴん」を発売。全国ツアー中で、9月11日には東京・渋谷C.C.Lemonホールが控える。

 完治するまでの無期限の活動休止となるが、ファンには「ちょっと語学留学に行ってきます」ぐらいだとメッセージ。「幼少の頃より歌わないことなどひと月たりとも無かったので復帰の時は相当歌う喜びに満ちていると思います」と、再会を誓っている。
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大黒摩季公式ホームページでの告知

最近は、大黒摩季の姿勢に対して思うところもいろいろあり、距離を置いていた私だが、それにしてもショックなニュースではある。

96年からわかっていたというが、当時は大黒摩季にとって全盛期だったから、仮に休養を言い出しても認められる可能性はなかっただろう。2000年から1年ほど「充電期間」を設けて活動を休止したことはあったが、そのときはまだ大した症状ではなかったのかもしれない。30代後半になるまで独身だったから、彼女の中での優先順位もきっと低かったに違いない。

30歳代後半から40歳代は、あらゆる人にとって身体の曲がり角といえる。大黒摩季もこの機会に、自分の全身を見つめ直す時期だということだろう。

焦らなくて良いから、ゆっくり治療し、完全な状態になってからファンの前にまた帰ってきて欲しい。

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興南、沖縄県勢初の夏制覇

2010-08-22 22:32:43 | 芸能・スポーツ
<夏の高校野球>興南打線爆発で春夏連覇 東海大相模破る(毎日新聞)

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 第92回全国高校野球選手権大会は21日、決勝が行われ、興南(沖縄)が東海大相模(神奈川)に13-1と大勝。沖縄勢の夏初優勝とともに、98年の横浜以来、史上6校目の春夏連覇を達成した。

 序盤から両チーム、得点圏にランナーが出ながら、決定打を欠いていたが、興南は四回、東海大相模・一二三をとらえた。四球と安打、相手守備のミスで1死二、三塁としたあと、伊礼がセンター前にはじき返し1点を先制した。さらに、次打者の島袋の際に、スクイズを外したものの、捕手から三塁への送球が悪送球になり2点目、2死から大城が左前適時打を放ち3点目。さらに慶田城の右越え2点三塁打、我如古のセカンドへの適時内野安打、真栄平の右越え適時三塁打など打者11人を送る猛攻で計7点を挙げた。五回に1点を追加したあと、六回には我如古の左中間3点本塁打が飛び出すなど5点を加え、先発全員安打で圧勝した。

 準決勝の報徳学園戦で甲子園奪三振記録を歴代2位とした島袋は、この試合はきっちりと変化球を打たせて、奪三振は4にとどまったが、4試合で34得点を挙げた東海大相模打線を1点に抑えた。

 東海大相模は七回、2死二塁から伊地知の左前適時打で1点を返すのがやっと。一回、ヒットと四球で1死一、二塁と島袋の立ち上がりを攻めたが、四番・大城卓がセカンドゴロ併殺となり、先制のチャンスをつぶしたのが響いた。甲子園をわかせたエース・一二三も六回までで降板した。【毎日jp編集部】
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92回夏の甲子園は、興南(沖縄)が沖縄県勢として初の全国制覇を成し遂げた。沖縄県勢は、90~91に沖縄水産が準優勝。春の選抜では、沖縄尚学が全国制覇しているが、夏の大会の全国制覇はこれが始めて。沖縄県民の悲願がついに実現した形だ。

だが、当ブログは興南の春夏連覇、ひょっとしたら…と思っていた。春の優勝校だけに他の各校から徹底的にマークされ、難しいと思う一方、エース・島袋が選抜と同じ調子で投球すれば、夢ではないと感じていたのだ。

例年通り、大会全般を振り返ろう。

春のセンバツ講評で、当ブログは「今年は打高投低の年になる」と予告した。この予告が的中したかどうかの判断は読者諸氏にお任せしたいが、1回戦から決勝戦まで、今大会は大差ゲーム、ワンサイドゲームが目立った。その象徴が8月14日に行われた2回戦・早稲田実業-中京大中京の21-6だ。どちらか一方のチームが打ち始めると止まらなくなり、「ビッグイニング」が生まれるのはここ10年くらいの甲子園の傾向として見られる現象ではあるものの、今大会は特にそれが顕著だったように思う。その意味では、当ブログの予告はある程度的中したといえるのではないだろうか。

しかし、そのような中でも、やはり投手力の際だったチームが上位に勝ち残った。島袋を擁する興南をはじめ、一二三投手を擁する東海大相模、中川を擁する成田(千葉)、歳内を擁する聖光学院(福島)などがその典型である。改めて、野球は打撃力だけでもダメなのだということを教えてくれた大会だった。

一二三投手については、前評判が高かったものの、「思っていたほどの逸材ではない」という声も一部に聞かれるなど、評価は割れている。春の大会以降の不振で、投球フォームをサイドスローに変更したが、そうした急ごしらえのフォーム改造の影響が、最後の最後で出てしまったのではないだろうか。

今大会では、特に強く印象に残った学校はないが、強いて1校を挙げるなら延岡学園(宮崎)だろう。家畜伝染病・口蹄疫の影響で、宮崎では地方予選のほとんどが無観客試合となった。そうした苦難の中から出場を果たし、2回戦に進出した。球児たちの活躍が、宮崎県民にきっと大きな勇気を与えたことだろう。

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日本一長い行列

2010-08-15 09:24:51 | 芸能・スポーツ
ただ今、東京ビックサイト前。久しぶりの「夏祭り」。

少なくとも、結婚後初参加であることは間違いない。

(追記)
というわけで、久々の夏コミケ、通称「夏祭り」最終日に少しだけ参加してきた。私が目指したのは、鉄道島である。しばらく鉄道ジャンル外で活動してきた放射性同位体さんが久しぶりに鉄道島に戻ってきたというのも参加動機になっている。

コミケもここ数年は3日間の参加者が50万人くらいの「高値安定」を続けており、一般マスコミの報道もそれなりに冷静なものになってきた感もある。そして、私がメインに訪れる鉄道島に関して言えば、数年くらいではほとんど空気は変わらない。逆にそれこそが、安心感の源であったりもする。

数年ぶりに参加してみて、大きく変わったのは動画(DVD)を扱うサークルが激増したことだろう。動画はここ数年、一大ムーブメントになっているようだ。

しかし、動画というのは、撮影にある程度労力を使う反面、撮影後はDVDに焼いたものを発売するだけだから、思っているほど手間がかかるわけではない。逆に、本当の意味で労力をかけているんだなぁとわかる作品群、例えば○○研究などといった本はほとんど見かけなくなってしまった。

高い旅費をかけて遠くまで撮影に出向き、DVDを制作して売っているサークルさんには申し訳ないのだけれど、写真や動画というのは、同じ撮影場所で同じアングルの下、同じ撮影条件で撮影すれば誰でも同じように撮影ができるのである。場所取りや移動の苦労はもちろんあるだろうし、自分が忙しくて行けなかった「○○系の最後」なんかを撮影してくれているのはありがたくもあるが、鉄道島全般を通して、労力をかけたアカデミックな作品群がもっともっと登場して欲しいと思っている。

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渋谷HMV、8月閉店へ

2010-06-09 20:37:03 | 芸能・スポーツ
さらばHMV渋谷!! CD不況で20年の歴史に幕(夕刊フジ)

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 約20年にわたって最新の音楽文化を発信し続けてきた東京・渋谷のCDショップ「HMV渋谷」が8月中旬で閉店することがわかった。運営元の「HMVジャパン」(港区)は、CD販売店としては「タワーレコード」に次ぐ規模を誇る大手だが、今年に入って店舗閉鎖が続発。深刻なCD不況が直撃している。

 同店は1990年、音楽・映像ソフト、書籍などを販売するHMV国内第1号店としてオープン。98年には現在のセンター街へと移転した。

 同店では、国内外の有名アーティストの小規模ライブやサイン会を頻繁に開催。売り場面積は全国に55カ所ある同社の店舗中最大で、同社の基幹店として、最先端の音楽文化を牽引してきた。

 しかし、音楽配信の普及などでCDの販売額が激減。「CD不況の影響が予想を上回るペースで進んだ」(同社関係者)ことなどから、店舗閉鎖に踏み切った模様だ。

 同社を巡っては、現在CD・DVDレンタル大手の「TSUTAYA」を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が買収の方向で検討を進めている。

 今回の渋谷店閉鎖は「独自の経営判断によるもの」というが、5月には川崎大師店など2店舗、6月には銀座店と、今年に入り大型店舗が相次いで閉鎖。苦境の色を鮮明にしている。
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1990年代中期から後期にかけて、いわゆる「渋谷系」ブームの火付け役になるなど、J-POP界のけん引役としての役割も果たしてきたHMVがよもやの閉店を迎えることになった。これは明らかに、ひとつの時代の終わりを意味する。

HMV、それも渋谷が存続できないというのだから、もはや日本国内で生き残れるCDショップは皆無なのではないか。

日本のCD業界がこうした惨憺たる状況を迎えることになった原因は、CDが売れなくなったことにつきるわけだが、なぜ売れなくなったのかと言えば、業界自身に原因がある。メガヒットが続出した1990年代の成功体験にあぐらをかき、コピーコントロールCDなどという消費者不在の「不良品」を平然と世に送り出し、消費者のCD離れを招いたのだ。

そもそも、1990年代以前の音楽業界では、ミリオンセラーなんて数年に1枚、出るかどうかというレベルで、売れないことの方が当たり前だった。それを、1990年代になり、売ることだけを目的とした興行主義的、資本主義的音楽を、小室哲哉なんぞが立て続けに世に送り出し、やたら売れたことが業界をおかしくしたのだ。

ある音楽評論家が、かなり批判的に書いているけれど、「レコード屋の店員が(個人の)好みでキャプションを付けたものがひとつのカテゴリーとして認知されてしまう」という状況は、業界の仕掛けたブームがいかに空疎で、実体が伴っていなかったかを如実に物語っている。

カテゴリー分類もできないような薄っぺらな音楽を「○○系」などと称し、無内容なブームをあおりながら売り続けてきた当のHMVが渋谷から消えることは、私のような人間にとってはむしろ大歓迎だ。それだけ消費者の方が賢くなり、レコード会社主導の正体不明のブームには踊らされなくなったということだろう。

もう、日本の音楽シーンにメガヒットなど要らないと思うし、多種多様なアーティストが多種多様な消費者に、直接ネット配信や着うたフルサービスを通じてアクセスしていく、という今日的形態から後戻りすることは不可能なような気がする。

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第82回センバツ講評

2010-04-03 18:20:20 | 芸能・スポーツ
興南が春夏通じて初優勝…延長で日大三破る(読売新聞) - goo ニュース

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 興南10―5日大三(選抜高校野球大会・決勝=3日)

興南(沖縄)が日大三(東京)を延長十二回、10―5で破り、初優勝を飾った。

 試合は、5―5の同点のまま、延長戦に突入。興南は十二回、一死満塁から日大三の守備の乱れと島袋選手の適時二塁打などで計5点のリードを奪い、その裏の日大三の反撃を許さなかった。

 沖縄勢の優勝は、第80回大会(2008年)の沖縄尚学以来2年ぶり3度目。日大三は、39年ぶりの優勝を逃した。
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私は、センバツ大会歌「今ありて」が大好きだ。三寒四温といわれ、冬と春がせめぎ合う季節が、この曲を聞くことで一挙に春になる、そんな気がする。夏の大会歌「栄冠は君に輝く」もいいが、冬から春になる感動には及ばない。

さて、第82回選抜高校野球は、延長戦にもつれ込んだ末、12回表に一挙5点を奪った興南が日大三を振り切った。センバツ大会決勝戦の延長は、1989年の東邦(愛知)×上宮(大阪)で東邦が勝って以来、21年ぶりだ。ちなみにこの時の上宮からは後に、元木大介(巨人)、種田仁(中日)らがプロ野球に進んでいる。

簡単に今大会を振り返ろう。

21世紀枠は、昨年の利府(宮城)に続き、今年も山形中央の出場という形で東北に割り当てられた。東北地方の出場枠は通常、3校だが、21世紀枠のおかげで2年連続して枠が拡大されたことになる。雪国のハンディは遠い昔の話になった。東北地方のレベルアップは著しい。

今大会はまた、悪天候に苦しめられた。1回戦の2日目は、4試合すべてが2日連続で順延となった。1日4試合すべてが2日連続で順延されたのは、1985年以来25年ぶりのことである。また、強風の日が多かったことも特徴的で、多くの球児たちが強風に苦しんだ。

大会中、21世紀枠で出場した向陽(和歌山)に敗退した学校の監督が「末代の恥」と発言して辞任に追い込まれる騒ぎがあったが、21世紀枠は、出場枠が足りない地域でどうしても出場させたい学校があるときに割り当てられる制度だから、「21世紀枠の出場校は弱い」というのは思い込みに過ぎないということが理解できるだろう。

1回戦から2回戦は、得点が少なく投手戦が目に付いた反面、準々決勝以降は大差のゲームが多かったが、これは通常の大会とは逆の現象だと思う。出場各校の戦力がバラバラな状態で対戦する1回戦から2回戦のほうが大差ゲームが多く、強い学校が勝ち残って戦力が均衡する準々決勝以降は投手戦が多いというのが通常の姿だろう。

そして、高校野球は「投手力の春、総合力の夏」と言われるとおり、春のセンバツは投手力が勝敗を決めるが、そこで各校の戦力が均衡するはずの後半戦で大差ゲームが多かったことは、投手力が発展途上にあるチームが多かったということを意味する。春から夏までに急成長するチームもあるから現時点で判断するのは早計だと思うが、今年は全体的に見て「打高投低」の年になるのではないだろうか。

ただ、その中でも優勝した興南のエース・島袋は速球がよく切れ、延長戦突入後も球速は140km代でまったく落ちなかった。日大三のエース・山崎も延長戦でスタミナ切れを起こしたものの、島袋同様140km代の速球と変化球で緩急をつけられ、コントロールもよく期待できる。夏に向け、スタミナをつければプロ入りも見えてくるだろう。

以上が当ブログ管理人のセンバツ講評だが、開会前に大きく話題になったのは、興南、嘉手納と史上初めて沖縄から2校が出場したことだ。昨年秋の九州大会で嘉手納は優勝、興南は3位だから、この成績を見る限りアベック出場となったのは別に不思議ではないが、米軍普天間基地問題が焦点となっているこの時期に、沖縄から2校がアベック出場を果たし、東京と沖縄が対決した決勝戦で沖縄が勝つという結果に、政治的な因縁を感じるのは私だけだろうか。

思えば、今年は沖縄代表が初めてセンバツに出場できるようになった1960年からちょうど半世紀に当たる。1960年、日本返還前の沖縄は米軍の軍政下にあり、戦後、初のセンバツ出場を果たした那覇高校は、「外国」だった甲子園にパスポートを持ってやって来た。その2年前の1958年、初めて夏の甲子園に出場した首里高校の選手たちは、記念に持ち帰ろうとした甲子園の土を、米国政府の検疫制度によって「米国領沖縄」に持ち込むことができず、すべて捨てさせられた。

戦後の沖縄史には、こうした悲劇がたくさん詰まっている。沖縄が日本に復帰するのは、それから12年も経った1972年のことである。今でこそ沖縄代表は優勝候補の常連となったが、50年の節目となった今年、ただ単に興南の優勝を喜ぶだけでなく、こうした沖縄の戦後史も、きちんと知っておきたい。

選抜大会歌「今ありて」 2009年版

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