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尾崎豊の死後17年・墓参記

2009-04-27 23:02:37 | 芸能・スポーツ
4月25日は尼崎事故の日だが、また同時にロック歌手・尾崎豊の命日としても知られている。1992年4月25日、26歳の若さで彼がこの世を去った衝撃の日から、早くも17年の歳月が流れた。

彼の眠る墓地は、埼玉県・西武ドームにほど近い狭山湖畔霊園にある。関東(横浜)勤務だった頃は、毎年4月になると彼のお墓参りをするのが常だったが、地方在住となってからはずっと行けずじまいだった。しかし、たまたま25日に都内に用事ができたので、墓参を行うことにした。前回の墓参は2000年だったから、実に9年ぶりである。

東北新幹線を大宮で降り、埼京線で武蔵浦和へ。武蔵野線に乗り換え、新秋津まで行く。雨の降る中を西武線秋津駅へ歩き、池袋線で西所沢へ。西所沢から狭山線に乗り換えると、西武球場前まではすぐに着く。

9年ぶりに降り立った西武球場前駅。狭山湖畔霊園まで迷わずたどり着けるかと心配だったが、降りて周囲を見回した瞬間、9年前の方向感覚がよみがえり、すぐに進むべき方向がわかった。物覚えの悪い私が意外に覚えているあたり、やはり尾崎豊は私にとって特別な存在なのだと、改めて思う。

もうひとつ、9年ぶりの墓参で確認したいことがあった。9年前は、4月25日の命日に訪れると、尾崎豊の墓の前でギターを弾きながら歌っている若者の集団に必ず出会ったものだ。彼らが今どうしているのか、9年間でどんなふうに変わっているのか、そのことにも興味があった。

駅から霊園に行く途中、高校生か大学生に見える女性2人組とすれ違った。私の数メートル先には、花束を持った、やはり高校生か大学生風の男性2人組。どちらも尾崎豊のファンだとすぐにわかった。ファンの世代交代が順調に進み、彼をリアルで知らない若い層から新たなファンが生まれている。そのことが私には嬉しかった。

霊園へと続く坂道を上り、霊園に入るとすぐ左手に事務所があり、ここで花を売っている。私が事務所に入っていくと、係の女性が「どちらへ墓参ですか? 尾崎さん?」と話しかけてくる。確か9年前にも、この女性はいたような気がする。4月25日が尾崎豊の命日で、ファンの墓参の日であることは、霊園職員にもおなじみになっている。彼の命日に墓参をする人は、いつまで経っても絶えることがない。

花束を購入すると、お線香はどうしますかと尋ねられたので、一瞬迷ったが、雨が降っていたので遠慮しておく。事務所を出て、霊園内の墓地へ至る坂をなお上っていく。尾崎豊の墓は、墓地に入ってすぐのところにあり、命日であるこの日には多くの人が並んでいるのですぐにわかる。

尾崎豊の墓石には「生きること。それは日々を告白していくことだろう。~放熱への証」と刻まれている。尾崎豊が死の直前にレコーディングした最後のアルバムのタイトルが「放熱への証」だ。そのアルバムをひっさげた全国ツアーが1992年夏から始まることになっていた。しかし、そのツアーの日は結局、訪れることはなかった。

お墓の前に立ち、順番を待って花を捧げ、手を合わせる。9年前と何も変わっていない中で、ひとつだけ変わったことがあった。40歳前後の夫婦が子供連れで墓参に訪れていたのだ。9年前には見られなかった光景である。時の流れを感じるとともに、尾崎豊ファンもずいぶん年を取ったなぁと思った。

しかし、9年前のようにギターを弾きながらお墓の前で歌っているファンには出会わなかった。悪天候のせいもあるかもしれないし、尾崎豊ファンの主力は正社員になれなかった人が多い「失われた10年」世代で、最も苦労している世代だから、もうそんな余力もないのかもしれない。

一方で、霊園への道の途中で見かけたような若いファンも新たに生まれている。かつてのファンに変わらず愛され、新たなファンにも恵まれている尾崎豊はやはり希有な存在だと思った。彼がもし存命だったら、大企業がぼろ切れのように労働者を酷使し、使えなくなったらポイ捨てにする社会に対し、どんな形で抗っただろうか。

17年前のあの日、尾崎豊を死に至らしめた原因は依然として謎に包まれている。尾崎豊ファンの中には、そっとしておいてほしい、今さら死因をほじくり返さないでほしいと思う人たちも多く存在する。病院の診断結果によれば死因は「肺水腫」というあまり聞き慣れないものだったが、そこに至るまでに空白の時間帯があり、その間彼が何をし、あるいはどのような目に遭っていたかは今もってわからない部分が多い。多くのファンがいる伝説的歌手だけに、憶測で語ることは慎まねばならないが、尾崎豊の全国ツアーに帯同した元マネージャー・鬼頭明嗣氏の著書によれば、尾崎豊がツアー中、常に20本もの「ユンケル」を常備しており、酷いときには1日に7~8本を開けることがあったとされている。麻薬での逮捕歴もあり、麻薬や栄養剤の過剰摂取が尾崎豊の身体を蝕んでいたことは、ある程度事実と考えていいのではないだろうか。

しかし、私たちにとって尾崎豊が伝説であったことは間違いないし、今も伝説であり続けている。尼崎事故の追悼・調査活動と並行しながら、私は今後も可能な限り尾崎豊の曲を聴き、命日には墓参を続けると思う。地方在住の身とあっては、なかなか難しいが…。

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