安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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JR尼崎事故、3社長に禁錮3年求刑

2013-03-28 23:34:01 | 鉄道・公共交通/安全問題
福知山線脱線:JR西歴代3社長に禁錮3年求刑(毎日)

2005年のJR福知山線脱線事故を巡って業務上過失致死傷罪に問われ、神戸地検が不起訴としたものの、神戸第1検察審査会による2度の「起訴相当」議決を受けて強制起訴されたJR西日本の歴代3社長(井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛の3被告)に対する論告求刑公判が27日に行われ、検察官役の指定弁護士が禁錮3年を求刑した。今後、裁判は3被告による弁論が5月31日に行われ結審、判決が言い渡される。

禁錮3年という求刑自体は、先に神戸地検が起訴した山崎正夫・元社長に対する量刑を参考にしたのであろうが、乗客・乗務員107名死亡という結果に対し、あまりにも軽すぎるというのが素朴な市民感情であろう。

裁判は司法手続きだから感情ではなく法律論によって行われなければならないことはもちろんである。しかし一方、法とは市民社会をよりよく維持し発展させるためのものだから、市民が納得できるような形で事件が処理されることもまた、司法に対する社会的要請だというべきであろう。それゆえ、この国の主権者である市民が「法によって守られていない」「法が正しく運用されていない」と感じるような事態が起きれば、それは法治主義の崩壊につながる。司法に携わる人たちには改めて心してもらいたいが、司法手続きとは法律論だけで進めればよいという単純なものではないのだ。

(ここでは別課題なので詳しく論じないが、当ブログ管理人が関わっている福島原発告訴団による原発事故告訴・告発運動にも全く同じことがいえる。平たい言い方をすれば、「法が誰を向いているか」は「その国の主権者は誰か」の最も鮮やかな反映である。)

この裁判のもうひとつの焦点は「過失責任をどこまで、どの程度問うか」である。犯意がなければ成立し得ない「故意犯」は立証が容易であるのに対し、犯意がなくても過失があれば成立する「過失犯」の立証は難しい。事故を「起こしたくて起こす」人はまずいないから、事故はすべからく過失犯であるといってよい。3社長の裁判では、現場がトップに対してものが言えないJR西日本の強権的企業体質を作り上げたのが歴代社長としての3被告であり、それゆえ、安全優先の企業風土を作れずに事故を誘発した最大の責任は彼らにある、との論法で立証を行ってきた。

過失をどこまで立証するか(別の言い方をすれば、被告が過失と思っていないものを過失と結論づけるにはどのような立証活動が必要か)は、これまで過失による事故の裁判で遺族・原告側に立ちはだかってきた巨大な壁である。私たち市民が、どのように英知を結集してこの壁を突破するかが今、改めて問われている。

判決は、おそらく今年中にも言い渡されるであろう。私たちは、改めてこの事故の遺族たちに連帯を表明し、彼らを物心両面で支援しなければならない。遺族たちが通ってきたこの道は、福島原発事故を巡って私たちがおそらくこれから通ることになる道でもあるからだ。この闘いを支援することは、彼ら遺族のためだけではなく私たちのためでもある。

もうひとつ、歴史的な話をして本記事の締めくくりとしよう。1985年の日航機墜落事故でも、巨大国策企業・日航に対し、検察当局は遺族・被害者が告訴するまで動かなかった。ようやく動いた後もおざなりな捜査で結局誰一人として起訴されなかった(当時、強制起訴の制度はなかった)。遺体安置所となった体育館を訪れた日航の幹部が、「暑い」と言いながら扇子であおいでいる様子が写真週刊誌によって暴露され、社会的糾弾を受けるなど、無神経で傲慢な企業体質もJR(東電も!)と全く同じだった。最も大切な人を奪われながら、誰も責任を取らないという幕切れを迎える中で、遺族たちは「自分の大切な人が誰のせいで死ななければならなかったのか」を今なお問い続けている。

それからちょうど20年後に起きた福知山線事故では、無罪になったが山崎前社長は起訴された。被害者参加制度を利用して遺族が直接、山崎前社長に質問する機会を得た。多くの遺族がそのことに対し「無駄ではなかった」と回答している。

歴史の針は、少しずつではあるが着実に進んでいる。当ブログ管理人に課せられた役割は、この歴史の進展を逆転させることなく確かなものにすることである。その目的が達せられるまで、私たちの闘いは、決して終わることはない。

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