(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」に寄稿した原稿をそのまま掲載しています。)
最後まで狐につままれたような、戦後最も摩訶不思議な総選挙から早いもので3週間経った。この間、何か結果について論評すべきだろうといろいろなことを考えているうちに、おおかたの論評らしきものは出尽くしてしまったようだ。だが、政党とは何か、政治家が主義主張を貫き、操を守るとはどういうことなのか、今回ほど深く考えさせられた選挙もなかった。今後のために書き残しておかなければならないはずなのに、誰からの指摘も受けていない事実が山ほどある。かなり出遅れたが、私のこの考察によって読者の皆さんが政治の本質に少しでも迫ることができればと思っている。
●戦時中よりひどい「戦慄」の選挙結果
10月22日に投開票された第48回総選挙の結果をまとめておこう。定数削減の結果、総定数が465となった総選挙。獲得議席数で与党が3分の2を超えたことは周知の通りだが、日本共産党12議席、社民党2議席。立憲民主党の全員を護憲派とみなすことにして、その全議席(55)を加えても「護憲派」の総議席数はわずかに69。総定数に占める護憲派の比率は14.8%といまや6分の1にも満たなくなった。
ここで少し歴史をひもといてみる。1942年4月30日に投票が行われた第21回衆院総選挙。この選挙の前年、日本は太平洋戦争に突入しており、選挙ポスターには「大東亜 築く力だ この1票」のスローガンが踊った。太平洋戦争中に行われたものとしては唯一となったこのときの総選挙では、すべての政党が解散または弾圧を受けた結果、大政翼賛会以外の「政党」は一切参加を許されず、翼賛選挙と呼ばれた。
この翼賛選挙で、それでも大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦議員」が85人も当選した。陰に陽に政府の様々な妨害を受けながら、これだけの非推薦議員が当選したことが当時は驚きをもって受け止められたことだろう。ちなみに、このときの衆院の総定数は今回とほぼ同じ466。当時より今の方がはるかに人口が多いのに、当時より衆院の総定数が少ないことに驚かれる方も多いと思う。だが、驚くのはまだ早い。非推薦議員の総定数に占める割合を算出してみると、18.2%――。
当時は中選挙区制だったのに対し、今は小選挙区制。女性には選挙権がなかった当時と、女性にも選挙権がある今を単純比較することはもちろんできない。だが、今回の総選挙における護憲派の議席数が翼賛選挙における非推薦議員の数よりも少ないことがわかる。数字の比較だけなら戦時中の翼賛選挙よりひどい、まさに戦慄すべき結果といえる。
<参考>戦時中の「翼賛選挙」と今回総選挙の比較
だが、それでも改憲派に衆参両院で3分の2を許した2016年参院選の時のような悲壮感、絶望感は私には不思議なほどない。それどころか安倍政権発足以来、後退に次ぐ後退、絶望に次ぐ絶望だった時代から、小さな反転攻勢の芽をつかんだ高揚感さえある。おそらく、後で振り返ったとき「今思えば、2017年の総選挙が転機だった」と言われることになるのではないかという気がする。今後、私たちは何をめざし、どう戦うべきなのか。
●立憲民主党の勝因と今後
「共通の政治的目標の達成」を可能にするために、党は緩やかにいろいろな立場の人を包摂し、大きくあるほうがよいのか。それとも決意と確信に満ちた人々のみで構成され、戦闘力があるなら小さくてもかまわないのか。10月1日付けレイバーネット記事「
希望の党ドタバタ劇といつか見た風景~問われる決意と覚悟」の中で、私はこのような問いを提示した。闇鍋のように右も左もごちゃ混ぜになった民進党が存在していることで、結論を見ないまま放置されていたこの問いに、はっきり答えが示されたことが今回の総選挙の大きな特徴といえよう。
希望の党の発足に当たり、小池百合子・東京都知事が行った「安保・憲法で考えが一致しない議員を排除する」との方針を「妥当」とした人が53%、「妥当ではない」とした人が25%だった(10月5日付け「朝日新聞」)。改憲・戦争路線・差別排外主義という排除の方向性が大きな批判を浴びたものの、「排除それ自体」は世論の支持を受けたことがこの調査結果からは窺える。「政治的目標や利害関係、思想・信条を同じくする人々のみで構成され、戦闘力がある政党なら小さくてもやむを得ない」が今回、日本の有権者の出した回答である。
立憲民主党に参加した議員たちがそうせざるを得なかったのは希望の党に「排除」されたからであって、仮に排除がなければ旧民進党議員は全員丸ごと希望の党に移籍していたであろうから、立憲民主党議員を「信念を貫いた人たち」であるかのように言うのは過大評価だろう。だが選挙でどんな判断の下にどの候補者や政党を選ぶかを決めるのは有権者だ。「実際にどうであるか」よりも「有権者の目にどのように映るか」のほうが重要なこともある。党としてのまとまりや一体感を求める有権者の考えに合致したことが今回の立憲民主党の勝因だと結論づけてよいと思う。選挙後、「民進党との合併や再結集、統一会派の結成は当面は考えない」「永田町の権力ゲームに加わる考えもない」と発言しているところを見ると、枝野幸男代表もまた、そのことをよく理解しているように思える。
社会党崩壊から四半世紀。自民党政権を支持しないが、投票用紙に共産党と書くことにも抵抗がある――そんな緩やかな中道左派勢力をすくい上げられる政党だけが、この間、常に日本の政治空間から欠落していた。中道左派を緩やかに支持する有権者の票は、四半世紀ずっと漂流を続けてきた。立憲民主党は、この空白を埋めるに値する久しぶりの政党として、待ち望まれた登場を果たした。「僕ら労組系には久しぶりの追い風だ」と評した立憲民主党関係者がいるとの証言もある(月刊「FACTA」誌10月号)。だからこそ安倍政権への対案を求める無党派層に支持を受けたのである。
それを証明するデータがある。TBS-JNN系列による世論調査(11月11~12日実施)によれば、立憲民主党支持率は11.0%で自民党(35.6%)に次ぐ2位、テレビ朝日の世論調査(11月4~5日実施)に至っては19.9%と自民党(43.7%)の半分の数字を叩き出し、こちらも2位という健闘ぶりだ。にわか仕立ての党にもかかわらず、1970~80年代の社会党支持率(13~15%程度のことが多かった)にあと一歩まで迫っている(ついでに言えば、55年体制当時、社会党は支持率でも議席数でも自民党のちょうど半分で、そのため55年体制は「1と2分の1政党制」と呼ばれた。立憲民主党の支持率がほぼ自民党の半分になったテレビ朝日の世論調査結果を見る限り、55年体制の復活との評価もできる)。希望の党による排除の結果とはいえ、野党共闘と改憲阻止を訴える中道左派への「純化路線」は現在までのところ、見事に成功している。
立憲民主党が今後どのような道を歩むかを予測することは、このような客観情勢・データを見ればそれほど難しくない。中道左派への「純化路線」で勝利したことが、今後のこの党の方向性を大きく規定すると考えられるからだ。中身が伴わない割に魅惑的な「政権交代」の甘言に惑わされることなく、枝野代表の言葉通りに民進党との合併や再結集、統一会派の結成の動きや、永田町の権力ゲームにも決して与(くみ)せず、野党共闘と改憲阻止を旗印として一体感を持って行動するなら、立憲民主党はかつて社会党が占めていた位置まで上ることができる。政権獲得は不可能でも、自民党政権の暴走を抑止するしっかりしたブレーキ役として、有権者から大いに歓迎されるに違いない。
もちろん、立憲民主党がいかに力を付けたとしても、かつての社会党に完全に取って代わることはできない。「プロレタリアート独裁」を綱領に掲げ、「日本における社会主義の道」を綱領に準ずる重要方針と位置づけ、社会主義インターナショナルにも加盟していた社会党と異なり、立憲民主党はそのような綱領を持つわけではない。プロレタリア政党かブルジョア政党か(別の言い方をすれば階級政党か国民政党か)と問われた場合、立憲民主党は紛れもなくブルジョア政党、国民政党としか答えられないからである。だが今は憲法破壊、戦争挑発路線を進む安倍政権に対し、これに反対するすべての勢力が「反ファシズム人民戦線」を結成して戦わなければならない重要局面だ。立憲民主党が社会主義勢力でないとしても、労働者・市民が野党共闘という「現代日本版人民戦線」を形づくる勢力のひとつとして手を結ぶには、これで十分ではないだろうか。
●政党とは何か、政権交代は最優先目標か
前原誠司・民進党前代表の全身に取り付いた「政権交代病」はもはや手の施しようがないように思える。もちろん、健全な民主主義社会を目指すなら政権交代はないよりはあったほうがいいことに疑いの余地はない。だが、政権交代を実現しても、大企業・富裕層・社会的強者のための政策から中小企業・貧困層や中間層・社会的弱者のための政策へ、変更を勝ち取れないなら意味がないということを、民主党政権3年半の教訓としてこの国の有権者は学んだ。いたずらに政治が混乱した挙げ句、市民に約束されたはずの看板政策はすべて投げ捨てられ、いつの間にか自民党と変わらない政治に舞い戻った民主党政権3年半の授業料は、東日本大震災・福島第1原発事故も加わってあまりに高すぎた。だが、「変えなければならないのは政策であって政権ではない」「政権交代は政策変更のための手段であってそれ自体は目的ではない」ということを日本の有権者が学んだ意味は大きかった。極端な言い方になるが、市民本位の政策が実施されるのであればその実施主体は自民党政権で何ら問題はないのである。前原氏の政治的罪は、手段に過ぎない政権交代を目的と取り違え、政策変更を(具体的なその実現方法まで含めて)提示しないまま野党共闘を民進党もろとも破壊したことであり、万死に値する。
学校の授業のようだが、政党の果たすべき機能は何か、この機会にもう一度確認しておこう。(1)政権を担当し、自分たちの掲げた政策を実施すること、(2)政権を批判・監視・チェックし、市民・有権者にとって不利益な政策を阻止または修正させること、(3)市民の要求を吸い上げ、政府に伝えるためのチャンネル機能を果たすこと――の3つが特に重要な政党の機能である。このうち(1)は与党だけが、また(2)は野党だけが果たすことのできる機能である。(3)は与野党にかかわらず果たすことができる。イタリアの政治学者ジョヴァンニ・サルトーリは、(3)の機能がある限り、政党の必要性は1党独裁制でも失われることがない、と主張したが、1党独裁は(2)の機能を果たす政党の存在を認めない政治体制であり、権力に腐敗が生じやすいことは言うまでもない。あまりに自民党だけが強すぎ、(2)の機能が極端に減衰している日本も同様の状況であり、これが加計学園問題に象徴される政治私物化、安倍政権の暴走につながっている。
今回の選挙結果が私たちに示したのは、日本では政権交代は当分の間不可能であり、二大政党制に至ってはおそらく永久に実現不可能だろうということである。だが、55年体制当時のように、自民党の暴走を阻止し、政府与党に緊張感を与えられるだけの「強力な抵抗野党」が復活する端緒が切り開かれた。前述した私の「小さな反転攻勢の芽をつかんだ高揚感」もここから来ているに違いない。
市民は今後、野党とどのように関わるべきだろうか。立憲民主党を強力な抵抗野党として育て、かつての社会党のポジションに押し上げるために、さし当たって私たちがなすべきことがある。(1)この党に中道左派「純化路線」を維持させるため、右派の合流・復党(右派込みの参院民進党へのなだれ込みを含む)を許さないこと、(2)立憲民主党執行部を監視し「右旋回」させないこと、(3)これら2つを維持するために、下からの野党共闘路線を強化発展させること、(4)連合の支持をこの党につなぎ留めるとともに、彼らを監視し、特に民間右派労組による立憲民主党破壊・分裂策動を阻止すること。これらの行動を、市民主体で作り上げることができるなら、政権交代は不可能でも、今よりずっと幸せだった55年体制当時に近い政治体制を再建することができる。
●社会主義革命から100年、ロシアとの奇妙な一致
ロシア帝国・ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世は、みずから放った「朕は国家なり!」の言葉通り、国家と国民がまるで自分の私有物ででもあるかのように勝手気ままに振る舞った。自分に対抗する勢力が政治家をめざす動きに対しても「ばかげた夢だ」と言い放ったこの粗野な皇帝は、ついに1917年2月、革命で倒される。帝政ロシア打倒後の2月革命で成立した臨時政府(連立政権)の第1党は、立憲民主党(カデット)を名乗った。この後、カデットが政権を離脱して第1次臨時政府は崩壊。引き続いて成立した第2次臨時政府は左翼政党、社会革命党(エス・エル)が第1党となり、エス・エル出身のケレンスキーが首相になった。しかしこの政府も不安定で長続きせず、ついに10月、第2次臨時政府も倒される。身の危険を感じたケレンスキーは女装しロシアを脱出、事態はやがてロシア社会民主労働党(ボルシェヴィキ)が政権を獲得し、レーニンが指導者となる世界初の社会主義革命へと進んでいった。革命の数年前、「陛下の命は長くは持たないでしょう」と不気味な予言をしたのは、宮殿内に跋扈し、怪僧と恐れられたラスプーチンだった。その予言通り、ウラル山脈の麓に位置するイパチェフ館で、皇帝一家の命を絶つ銃声が響き渡ったのは、革命翌年、1918年のことだ。
今からちょうど100年前、実際に起きた出来事である。国家私物化の限りを尽くした皇帝の打倒後に成立した臨時政府の第1党と同じ名前の政党が100年後の今年、日本で生まれた。偶然とはいえ、あまりにできすぎたストーリーだ。時代と場所を変え、歴史はまた繰り返すのか。それともまったく新しい未来が今後の日本に待つのか。粗野な独裁者を倒し、よりよい未来を作るためには、独裁に反対するブルジョア政党から社会主義政党までが小異を捨てて手を結ぶこと、真の社会主義勢力を育て、チャンスが来たら一気に攻勢を掛け変革をめざすこと。これこそロシア革命の歴史から私たちが得るべき教訓なのではないだろうか。雨降って地固まるということわざもある。前を向いてまた歩き出そう。「あの時があったから今がある」と、100年後の日本人から正当な歴史的評価を受けられるように。
(文責:黒鉄好)