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京都、東京原発訴訟 相次いで国の責任認める 京都は画期的内容も

2018-03-18 11:47:54 | 原発問題/一般
<原発避難訴訟>国と東電の賠償責任認める 京都地裁(毎日)

<原発避難訴訟>東京地裁も国と東電に賠償命令 国は4例目(毎日)

3月15日(京都地裁)、16日(東京地裁)で相次いだ原発事故避難者の賠償請求訴訟で、国の責任を認める判決が出された。記事にもあるように、東京電力はもちろんのこと、国の責任を認める判決は4例目。国の責任が認められなかったのは昨年春の千葉訴訟のみ。その千葉の訴訟も、実質的に国の責任を認めたに等しい高額の賠償が示されたことを考えると、国の責任を認める流れはほぼ定着したといえよう。

3.11前の原発行政は、およそ規制行政の名に値しないひどいもので、福島原発事故後の2012年に国会事故調査委員会がとりまとめた報告書で「規制する立場とされる立場の“逆転”が起き、規制当局が電力会社の虜(とりこ)になっていた」と指摘されるほどだった(関連記事)。今さら「原発を運転していたのは電力会社」などという言い訳が通じるほど国民世論は甘くないことを政府は知るべきだ。

京都訴訟の判決骨子、判決文などの詳細な資料は、「原発賠償訴訟京都原告団を支える会」のサイトに掲載されている(資料ページはこちら)。

判決文は400ページを超える膨大なもので、当ブログもまだ検討に入れていないが、8ページの「判決要旨」であれば20~30分で読んでおおむね理解できるだろう。国側は、津波予測が不可能だったことの根拠として、2002年に政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が公表した地震に関する「長期評価」を「数ある予測のひとつに過ぎない」と主張してきた。だが、これまでの過去の裁判と同様、京都地裁もまた国側のこうした無責任な主張を退けた。

『(原発に関して)監督権限を有している経済産業大臣は,常に最新の知見に注意を払い,現在の原子力発電所の安全性について,万が一でも事故が発生しないといえる程度にあるのかどうか,常に再検討することが求められている。

 ここでいう最新の知見は,統一的通説的見解でなければ採用することができないというわけではない。長期評価は,地震に関する調査,分析,評価を所掌事務とする被告国の専門機関である地震本部が,地震防災のために公表した見解であり,地震又は津波に関する学者や民間団体の一見解とは重要性が明らかに異なり,単に学者間で異論があるという理由で採用に値しない,少なくとも検討にも値しないということはできない。』

京都地裁は明快に断じている。そもそも被告の国(経産省)が、国自身(地震本部)によってまとめられた見解さえ原発の安全対策に採用できないということになれば、その後に何が残るというのか。

今回の京都判決では、国の避難指示によらない避難者、いわゆる「自主避難者」の避難について、きわめて注目すべき見解が示された。

『低線量被ばくに関する科学的知見は,未解明の部分が多く,LNTモデルが科学的に実証されたものとはいえず,1mSvの被ばくによる健康影響は明らかでないことに加えて,国内法において年間1mSv等の線量の基準が取り入れられることとなったICRP勧告も,線量限度を設けることは政策上の目安であるなどというものであるから,空間線量が年間1mSvを超える地域からの避難及び避難継続は全て相当であるとする原告らの主張を採用することはできない。

 一方,年間追加被ばく20mSvという基準は,政府による避難指示を行う基準としては,一応合理性を有する基準であるということができるが,政府による避難指示を行う基準が,そのまま避難の相当性を判断する基準ともなり得ない。

 避難指示による避難は,当然,本件事故と相当因果関係のある避難であるといえるものの,そうでない避難であっても,個々人の属性や置かれた状況によっては,各自がリスクを考慮した上で避難を決断したとしても,社会通念上,相当である場合はあり得るというべきである。』

判決要旨は『避難の相当性』についてこのように結論づけている。注目すべきなのは最後の段落(『避難指示による避難は,~あり得るというべきである』の部分)だ。

京都地裁の今回の判決は、一見すると原告が求めてきた「安全基準としては一般市民の被曝の上限を1ミリシーベルトとすべき」との主張を退け、被曝の危険性を低く見積もる「御用学者」側の主張である「20ミリシーベルトを超える場合のみ何らかの対策をすればよい」に沿った内容になっている。このこと自体は批判すべきだと当ブログは考えるものの、一方で「個々人の属性や置かれた状況によっては」自主的な避難が「社会通念上,相当である場合はあり得る」と明快に判示し、自主避難者にも賠償を認めたことである。

これまで、自主避難をめぐっては「危険だから避難の権利を認めてほしい」「危険でないから認める必要はない」の見解が鋭く対立し、双方の間に激しい非難の応酬、叩き合いが続いてきた。当ブログも、自主避難を認めようとしない立場の論者は、それが誰であろうと徹底的に批判してきたとの自負を持っている(自主避難者に「自己責任」「裁判でも何でもすればいい」と言い放った今村雅弘元復興相に対する徹底的な批判はその一例である)。しかし一方で、氷点下50度の屋外に1日中立ち続けたとしても、死ぬ人と死なない人がいるように、外部環境に対する感受性は人によって違う。それを「自分は平気だったから他の人が危険だというのはおかしい」「自分が危険な目に遭ったから平気だなどという奴は絶対に許さない」というのでは、論争は1万年経っても終わらない。国はそのことを理解しており、わざと両論併記に持ち込んで、政府に異を唱える人たちが疲弊するのを息を潜めて待っているのだ。

今回の京都訴訟は、むしろ避難の合理性の議論を危険性/安全性の議論と切り離したところにこそ意味がある。平たくいえば「放射能汚染された場所に自分が住みたくないと思う人は、危険か安全かに関わりなく住まないことを自己決定すればいいし、それは権利である。そうした権利を行使する人も賠償の対象になり得る」という論理展開になっていることだ。避難する側がいちいち放射能汚染地の危険性を証明しなければならなかったこれまでの不合理から解放される。憲法が保障する「居住・移転の自由」に沿った判決ともいえるだろう。

福島では、国や県の公式統計では避難者として扱われないものの、被害者視点で見るならば避難者の1類型に加えてもよいと考えられるような「広義の避難者」と呼ぶべき人たちも無数にいる。最も典型的な一例を挙げれば「原発事故によって事業所が避難指示区域に入ったり、あるいは顧客の避難などで勤務先の経営が悪化して倒産。失業したが、福島県内に再就職先がなく、遠く離れた西日本や北海道などで就職が見つかったため、一家揃って福島から再就職先に移住」したようなケースである。

こうした人たちまで「避難者」として公式統計に加えることは、国や県には無理な相談だろう。しかし「原発事故がなければ、その会社が経営破たんせずに済んだ」とある程度客観的に考えられるようなケースでは、こうした移住も避難の1類型に加えていいように、当ブログには思われるのである。自己決定権による避難、すなわち「自分が住み、生きる場所を自分で決定する権利の行使としての自主避難」にも賠償適用の余地がある、と判示した今回の京都判決は、危険安全論争を一気に飛び越え、こうした広義の避難者の救済にまで道を開き得る、あらゆる可能性を持った判決であるとの評価も可能なのである。

『被災者生活支援等施策は、被災者一人一人が第八条第一項の支援対象地域における居住、他の地域への移動及び移動前の地域への帰還についての選択を自らの意思によって行うことができるよう、被災者がそのいずれを選択した場合であっても適切に支援するものでなければならない。』

今ではすっかり忘れ去られてしまった感があるが、2012年、超党派の議員立法によって成立した「原発事故子ども・被災者支援法」は高らかにこう謳う。京都地裁の判決は、「子ども・被災者支援法」の精神を活かしたものだとの評価もできるのだ。

もうひとつ画期的なのは、千葉県松戸市、柏市からの自主避難者にも賠償を認めたことだ。松戸や柏の放射線量が高いことは原発事故直後から判明しており、特に柏市は、当ブログ管理人が北海道移住前に住んでいた福島県白河地域さえ上回るほどの放射線量を観測している。都内でも江戸川区、江東区といった地域の放射線量が特に高いことは知られており、東京からの自主避難者にも大きな希望を与えるものだ。

一方で、京都地裁が認めた原告への賠償は、これまでの裁判と比べてもあまりに低額すぎる。174人の原告中、64人がまったく賠償を認められなかったことも不満だ。原告は直ちに控訴を表明しており、当ブログもこの判断を支持する。

ちなみに、京都訴訟で中心的な役割を果たしてきた郡山市からの自主避難者、萩原ゆきみさんとは、当ブログは事故直後からの長い付き合いになる。福島敦子さんとも面識があるほか、訴訟事務局を務める方とは原発事故前から10年以上の長い付き合いだ。それだけに、原発賠償訴訟の中でもとりわけ京都訴訟は実質的に当ブログ自身の訴訟といえる。これからも、控訴審に向け、当ブログは最大限の支援をしていく予定だ。

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