ここ10年ほどの日本列島は、1年の半分が夏という状況になり、明らかに熱帯化している。フィリピン沖より北の海域では発生することがないとされていた熱帯低気圧が、今年は日本近海で相次いで発生するという、気象学の常識を覆す出来事も起きた。
そんなしぶとかった猛暑もいつの間にか過ぎ、西日本でもようやく最高気温が30度を切るようになった。ここ北海道では、最低気温はすでに10度を切り、5度を切る日もある。気密性の高い北海道の住宅ではまだストーブを焚くほどではないが、これ以上最低気温が下がると必要も出てくるだろう。この3連休でストーブの準備をするつもりでいる。
さて、読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋などと言われるが、私にとっては「復調の秋」となりそうな気配が濃厚になっている。昨年夏以降、1年以上にわたって続いてきたスランプから脱出の気配……というより、完全に脱出したといえそうだ。それはなにより、最近投稿する文章の好調と、確かな手応えという形で現れている。特に、当ブログ8月23日付記事「じわり広がる「令和の米騒動」 これは日本の「暗い未来予想図」か」と、その続編に当たる9月24日付記事「余波続く「令和の米騒動」 日本の歴史的転機になるかもしれない」には近年にないほど大きな反響があった。
この記事は、もともと「地域と労働運動」誌向けに執筆し、レイバーネット日本に転載したものだが、転載後、右翼と思われる人物から私をライターから解任するようレイバーネットに要求があったという。この不当な要求をレイバーネット日本が拒否したことはいうまでもない。レイバーネットでは、記者を含む「運営委員」は、年に1回、3月に開催される総会で選出されている。死去するか、本人から辞任を申し出ない限り、不当にその地位を奪われることはない。本人の意思に反して運営委員を解任できるのは総会だけと決められているのだ。
スランプが顕在化した昨年夏からしばらくの間、私の書く文章に、支配層・右翼・原発推進派などの「敵対陣営」からでなく、「こちら側」であるはずの運動関係者からクレームが付くということが、立て続けに3度続いた。そのほとんどは、文章全体から見れば些末な部分に過ぎなかった。だが、ただでさえ疲れていたところにこういうことが続いて精神的に嫌になった。3度のクレームのうち2回を占めていた「ある媒体」での休筆を宣言したことは、当ブログ2月14日付記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で詳しく述べた。
スランプ期間中、普段あまり書くことのない日記を頻繁に書いてきた。6月2日付記事「閉塞感で行き詰まったとき、ふと思い出す「幼き日」の出来事」、そして6月10日付記事「Good times,bad times あきらめない いつか飛び立てる時まで(渡辺美里さんの曲の歌詞より)」も、読者からは大きな反響があった。それまでの当ブログは、硬派な政治情勢や運動・闘いの記事を中心に「弱みを見せない」ことを運営方針の中心に据えてきた。それだけに、ほとんど露出することのなかった私の「人間的な悩み」が、リアルで面識のない読者に興味深く、そして割と好意的に読んでいただけたと思っている。
「ある媒体」の編集長からは「とりわけ原発問題に関しては、あなたがいないと紙面が成り立たない」と懇願され、結果的に、以前と同じペースでの執筆はできないとの条件で復帰している。休筆前には、週に2本の記事を書くこともあったが、30代~40代の頃のペースのまま執筆を続けることは、50代という年齢を考えても限界に突き当たっており、見直すいいきっかけになったと思っている。
スランプ脱出への気配をはっきり感じたのは、夏がピークを過ぎる頃だった。自分の書いた文章にキレがかなり戻ってきた。スランプに陥る前のように、ほとんどの原稿が書き直しもなく1回で点検・校正を通過するようになった。「こちら側」からのクレームはなくなり、「令和の米騒動」記事に見られるように、攻撃は再び「敵対陣営」から来るようになった。これは、私の書く文章に、権力・支配層に対する「攻撃力」が戻ってきたことを意味している。
『優れた文章、迫力のある文章には、揚げ足取りのような批評者をねじ伏せるだけの生命力がある。それが長年にわたってライターとして生き残ってきた私の率直な実感である。・・「ある媒体」に復帰するかどうかはもうしばらく様子を見たい。・・以前と同じように、つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信ができたら、それが復帰の時である』
前述した2月14日付記事「年末に見た夢の意味が、少しわかってきた。私にとって「書くこと」の意味」で私はこう述べた。『つまらない批評者をねじ伏せるだけの生命力を自分の書く文章に再び宿らせる自信』が戻って来ている。これが復調の第1の意味である。
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そして、復調を確信させる出来事の2つ目は、9月12~13日に受講した職場の研修(非管理職対象)である。上京し、1泊2日の研修に、全国から20歳代~50歳代まで10人が参加した。「業務上のミス防止」をテーマに、実際のミスの事例を基にした再発防止策を事前にまとめ、当日、プレゼンする。10人の参加者のうち、プレゼンした再発防止策の採用がその場で即、決まったのは私を含め2人だけだった。誰でもできる簡単な内容の割には、業務効率化の効果が見えやすいというのが、私のプレゼンが採用された理由だった。
もっとも、この研修参加者のうち、50代は私1人だけ。他は全員が20代~40代だった。経験年数からいえば、最も長い私がこれくらいの結果は出せて当然で、そうでなければ職場で生き残ること自体、難しい。
私の職場で、定年後の再雇用者を除けば、非管理職の最年長者は別地域にいる50代後半の人だが、その人はアルコール依存傾向が強く、たびたび遅刻している。遅刻せずに通常勤務できている非管理職の中では事実上、私が最年長である。同年齢の人はほぼ全員が管理職になっており、そもそも非管理職向けの研修にこの年で参加していること自体が異例中の異例なのだ。
この先、自分にどんな道が待っているかは、自分が決めることではないだけにまだわからない。だが、上で紹介した6月2日付記事、6月10日付記事で書いたように、私は幼少期から「長」のつく仕事とは無縁の人生を生きてきた。他人と同じことを他人と同じスピードでこなすことが苦手だった。電気屋のチラシに掲載されている時計の針がすべて10時10分を指していることなど、普通の人はどうでもいいと思って気にしないことが気になり、理由が知りたくて仕方なく、何度も図書館に通い詰めたあげく、最後には時計メーカーに電話までして理由を教えてもらった(そのとき聞いた理由は、こちらに記載されているのと同じ内容だった)。
その一方で、普通の人なら備わっていて当然のことに対する注意力ーー例えば、忘れ物をしない、自分が出した物は元通り片付けるといったことへの注意力ーーは散漫で、明らかに欠けていた。興味・関心・記憶力を向ける対象がはっきり偏っており、「他のクラスメートや、同年代の友達に約束されているであろう『普通の幸せな人生』は、自分にはないかもしれない」と、小学校4年生の時に早くも悟った。
発達障害という概念自体がまだなかった時代だったが、ASD(自閉症スペクトラム障害。少し前まで「アスペルガー障害」と呼ばれていた)のテストを受ければ、該当かグレーゾーンかは別として、「正常ではない」との診断を下される可能性は、今なおあると思っている。だが、そう診断されることが自分にとって幸せかは別問題であり、社会生活を送れている限り、診断を受ける必要はないと考えている。
自分がこの年齢まで生き延びてこられたのは、「全力を尽くしてもダメなら、自分のペースで最後まで走りきるように。最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だという母の言葉を実践してきたからだ。幼稚園の時のマラソンで、下級生にも負け続け卒園までずっとビリなのが嫌で仕方なかった。だが、たとえ勝てなくても、あきらめさえしなければ最後に自分の居場所はできるというのが、半世紀を生きてきた私の人生訓である。
自分ひとりだけ50代で非管理職のままだとしても、そこが自分の居場所なら、逆らわずにそこできちんと結果につなげる。結果につながらないときでも、次につながる何かを残す。今回の研修で、誰が見ても効果がはっきり理解できる業務効率化提案をプレゼンしようと私が決めたのも、そのことが大切だと思ったからである。
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1994年4月に今の職場に勤め始めてから、今年で30年となり、表彰も受けた。
採用辞令を受けたとき、30年勤務の表彰を受ける大先輩の姿を見ながら、あの大先輩たちのように、30年後も私がこの職場に残れているだろうか、と思った。30年後まで残れる可能性は五分五分だというのがそのときの感覚だった。就職氷河期まっただ中、1年就職浪人をしてまでやっとつかんだ正規職の職場であり、「ここまで苦労してつかんだのだから、絶対辞めるものか」という気持ちが半分。残りの半分は「不器用な自分が30年も生き残ることが果たして本当にできるのだろうか」という不安だった。
今振り返ると、30年はあっという間だったような気がする。昨日と今日がまったく同じということはなく、退屈なのではないかと予想していた職場が意外にもそうでなかったことは嬉しい誤算というべきかもしれない。
未熟な自分を温かく見守り、励ましてくれる先輩方がいる一方で、理不尽なことで八つ当たりをしてくる先輩も、自分に非がないとわかっているのに叱ってくる上司も経験した。正直に告白すれば、すべてを捨てて逃げ出したいと思ったことも、この30年で2回ある。だが2回とも優れた上司、先輩に恵まれ何とかやってこられた。
新人時代、理不尽な八つ当たりをしてきた先輩は30年を待つことなく、気づけば職場を去っていた。自分に非がないとわかっているのに叱ってくる上司は、2度と出会うことのない遠い関連会社に出向となり、やはり30年を待たずに職場を去った。一方で、私を温かく見守ってくれた先輩方は、そのほとんどがふさわしい役職に就いている。やはり、世の中とはよくできているものだと思う。
30年務めたので表彰を受けたことを、離れて暮らしている両親に報告したら、大変喜んでくれた。特に母は「継続は力なり。よく頑張ったね」と言ってくれた。「最後までやり抜くことは、ずるをして勝つよりもずっと価値があること」だと教えてくれた母は、半世紀の時を過ぎてもまったく変わっていなかった。私に理不尽な八つ当たりをし、30年を待たず職場を去った先輩が、今の私を見たらどう思うだろうか。
まもなく厳しい冬が訪れる。だが「このスランプがあったから今があるのだ」と思えるときも、必ず来るというのが半世紀を生きた私の実感である。厳しい冬が訪れる前のわずかな期間、さわやかに吹き抜ける風を全身に浴びながら、少しだけ自分を褒めてあげたいと今は思う。