新年早々、鉄道ライター小林拓矢さんによる心強い論考がインターネットに掲載されています。長文ですが、読み応えのある内容ですのでご紹介します。なお、写真を含む記事全体は、リンク先からご覧いただけます。
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「社会的共通資本」としての鉄道 「廃線」を回避しよう SDGs時代こそ公共交通機関が必要だ!(小林拓矢さんのブログ)
鉄道がなくなってしまうところには、あるいは路線バスさえもないところには、人は住まなくなるのではないだろうか――毎年のように起こる災害で、閑散路線の廃止が話題となり、そう思うことは多い。
一昨年はコロナ禍の中でJR北海道の札沼線の末端部分が廃止され、昨年は日高本線の大部分が廃線になった。
これらの路線以外でも、JR北海道では存続をどうするかが問われている路線がある。その路線の中には、かつては「骨格」と呼べたものも。
●危機の路線は全国に
JR北海道だけではない。一昨年の豪雨で被災したJR九州の肥薩線八代~吉松間は復旧のめどが立たず、むしろそこから分岐していくくま川鉄道のほうが再開に向けた動きを見せ、昨年11月に肥後西村~湯前間で運転が再開した。
時刻表の路線図の欄外を見ると、各地で被災路線の不通が見られる。路線ネットワークの上で重要だから復旧工事をするところもあれば、BRTへの移行をすでに決めたところもある。いっぽうで、どうするかを何年にもわたり議論しているところも。
そのような視点だと、昨年はうれしいニュースもあった。2011年7月の新潟・福島豪雨による只見~会津川口間の運休状態が、JR東日本と福島県の上下分離方式が成立したことにより、今年中の運転再開をめざして動いている。2011年には福島県では東日本大震災と福島第一原発事故があり、その影響で常磐線は長期間にわたる一部不通状態が続き、一昨年にようやく復旧した。福島県の鉄道が長く寸断されていたものの、ようやくつながった。
鉄道の存廃論議が起こるとき、都会の人は経済効率性の観点からバス転換やむなしという考えを持ち、地元の人は存続を強く望む人もいれば、あきらめる人もいる。なお、国鉄末期からJR初期に廃止になった路線には、バス転換後そのバス路線もなくなったところがある。
だが、鉄道が廃止になったところには、いったい誰が生活し、やってくるのだろうか。バス路線もなくなってしまったら?
かつては人の営みがあったところも、だんだん人がいなくなり、地域が消えてしまう。
●路線網の衰退がもたらすものとは
もし鉄道路線もバス路線もなくなり、自ら自動車を運転して移動するほかないところが多くなったら――完全に自力救済、自己責任の世界となり、社会的な、公共的なものというのが具体的に存在しない地域がかなり増えてくるということになる。
昨年秋のダイヤ改正で、JR西日本は大幅な減便を行った。閑散路線では、ただでさえ少ない鉄道の本数がさらに減った。
この流れは今春のダイヤ改正でも続く。首都圏の本数減が大きく取り上げられるものの、地方の路線もダイヤ見直しが行われる。野岩鉄道や会津鉄道のように、第三セクターでも大きく本数を減少させるところもある。
鉄道はどの地域でも、地域の中心であり、社会の重要な要素となっている。そういった「社会」は鉄道網が弱くなることにより、衰退してしまうという悲しい未来が見える。
公共交通は「社会」の重要な構成物であり、大切にしないといけない。鉄道は多くが企業の手により運営されているものの、単純に経済原理だけで考えていいものではない。
世界的に「ソーシャル」なものが復活する中、日本だけ市場主義的なものが強く、その中で人々は苦しめられている一方、責任は当該に帰せられる。この国の場合、鉄道事業者と地域住民である。
そのような風潮が強まるこの国で、鉄道はどこをめざしていくべきなのか?
●「社会的共通資本」としての鉄道・公共交通
この「社会」の重要な要素として、人々のインフラとしての鉄道・公共交通を確実に維持・発展させていくためにはどんな考え方が必要なのか。
宇沢弘文という経済学者は、「社会的共通資本」という概念を提示していた。人々がゆたかな生活を送り、社会を持続的、安定的に維持することを可能にする社会的装置のことだ。
宇沢は社会的インフラストラクチャーもその一つとして挙げ、交通機関も重要視している。
その著書『社会的共通資本』(岩波新書)で新古典派経済学を厳しく批判し、それに対して社会的な装置を大切にしようと主張している。『自動車の社会的費用』(岩波新書)で自家用車がいかにコストがかかるかについて書いた流れからこの「社会的共通資本」の概念は生まれた。
宇沢は地球環境についても触れ、持続可能性や地球温暖化についても触れている。それらに対してもっとも優しいのは、鉄道であることは言うまでもない。
近年、「SDGs」がさかんに言われている。鉄道会社でも、SDGsへの取り組みはさかんだ。「産業と技術革新の基礎をつくろう」「住み続けられるまちづくりを」「気候変動に具体的な対策を」をといったところが、鉄道、そして公共交通が大きく関与できるところである。このあたりは「社会的共通資本」の価値観と一致する。
鉄道は本来エコな乗り物でありながら、現実の気候変動に対して厳しい状況にさらされている。だが、地域に人が住み続けられる基盤となり、誰かがやってくるにも便利な鉄道を残し続けることは、「社会」を維持する上で必要なことではないだろうか。
鉄道、そして公共交通機関を逆境に立たせ、脆弱にしてはならない。
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「社会的共通資本」としての鉄道 「廃線」を回避しよう SDGs時代こそ公共交通機関が必要だ!(小林拓矢さんのブログ)
鉄道がなくなってしまうところには、あるいは路線バスさえもないところには、人は住まなくなるのではないだろうか――毎年のように起こる災害で、閑散路線の廃止が話題となり、そう思うことは多い。
一昨年はコロナ禍の中でJR北海道の札沼線の末端部分が廃止され、昨年は日高本線の大部分が廃線になった。
これらの路線以外でも、JR北海道では存続をどうするかが問われている路線がある。その路線の中には、かつては「骨格」と呼べたものも。
●危機の路線は全国に
JR北海道だけではない。一昨年の豪雨で被災したJR九州の肥薩線八代~吉松間は復旧のめどが立たず、むしろそこから分岐していくくま川鉄道のほうが再開に向けた動きを見せ、昨年11月に肥後西村~湯前間で運転が再開した。
時刻表の路線図の欄外を見ると、各地で被災路線の不通が見られる。路線ネットワークの上で重要だから復旧工事をするところもあれば、BRTへの移行をすでに決めたところもある。いっぽうで、どうするかを何年にもわたり議論しているところも。
そのような視点だと、昨年はうれしいニュースもあった。2011年7月の新潟・福島豪雨による只見~会津川口間の運休状態が、JR東日本と福島県の上下分離方式が成立したことにより、今年中の運転再開をめざして動いている。2011年には福島県では東日本大震災と福島第一原発事故があり、その影響で常磐線は長期間にわたる一部不通状態が続き、一昨年にようやく復旧した。福島県の鉄道が長く寸断されていたものの、ようやくつながった。
鉄道の存廃論議が起こるとき、都会の人は経済効率性の観点からバス転換やむなしという考えを持ち、地元の人は存続を強く望む人もいれば、あきらめる人もいる。なお、国鉄末期からJR初期に廃止になった路線には、バス転換後そのバス路線もなくなったところがある。
だが、鉄道が廃止になったところには、いったい誰が生活し、やってくるのだろうか。バス路線もなくなってしまったら?
かつては人の営みがあったところも、だんだん人がいなくなり、地域が消えてしまう。
●路線網の衰退がもたらすものとは
もし鉄道路線もバス路線もなくなり、自ら自動車を運転して移動するほかないところが多くなったら――完全に自力救済、自己責任の世界となり、社会的な、公共的なものというのが具体的に存在しない地域がかなり増えてくるということになる。
昨年秋のダイヤ改正で、JR西日本は大幅な減便を行った。閑散路線では、ただでさえ少ない鉄道の本数がさらに減った。
この流れは今春のダイヤ改正でも続く。首都圏の本数減が大きく取り上げられるものの、地方の路線もダイヤ見直しが行われる。野岩鉄道や会津鉄道のように、第三セクターでも大きく本数を減少させるところもある。
鉄道はどの地域でも、地域の中心であり、社会の重要な要素となっている。そういった「社会」は鉄道網が弱くなることにより、衰退してしまうという悲しい未来が見える。
公共交通は「社会」の重要な構成物であり、大切にしないといけない。鉄道は多くが企業の手により運営されているものの、単純に経済原理だけで考えていいものではない。
世界的に「ソーシャル」なものが復活する中、日本だけ市場主義的なものが強く、その中で人々は苦しめられている一方、責任は当該に帰せられる。この国の場合、鉄道事業者と地域住民である。
そのような風潮が強まるこの国で、鉄道はどこをめざしていくべきなのか?
●「社会的共通資本」としての鉄道・公共交通
この「社会」の重要な要素として、人々のインフラとしての鉄道・公共交通を確実に維持・発展させていくためにはどんな考え方が必要なのか。
宇沢弘文という経済学者は、「社会的共通資本」という概念を提示していた。人々がゆたかな生活を送り、社会を持続的、安定的に維持することを可能にする社会的装置のことだ。
宇沢は社会的インフラストラクチャーもその一つとして挙げ、交通機関も重要視している。
その著書『社会的共通資本』(岩波新書)で新古典派経済学を厳しく批判し、それに対して社会的な装置を大切にしようと主張している。『自動車の社会的費用』(岩波新書)で自家用車がいかにコストがかかるかについて書いた流れからこの「社会的共通資本」の概念は生まれた。
宇沢は地球環境についても触れ、持続可能性や地球温暖化についても触れている。それらに対してもっとも優しいのは、鉄道であることは言うまでもない。
近年、「SDGs」がさかんに言われている。鉄道会社でも、SDGsへの取り組みはさかんだ。「産業と技術革新の基礎をつくろう」「住み続けられるまちづくりを」「気候変動に具体的な対策を」をといったところが、鉄道、そして公共交通が大きく関与できるところである。このあたりは「社会的共通資本」の価値観と一致する。
鉄道は本来エコな乗り物でありながら、現実の気候変動に対して厳しい状況にさらされている。だが、地域に人が住み続けられる基盤となり、誰かがやってくるにも便利な鉄道を残し続けることは、「社会」を維持する上で必要なことではないだろうか。
鉄道、そして公共交通機関を逆境に立たせ、脆弱にしてはならない。