<訃報>肥田舜太郎さん100歳=広島原爆で被爆の医師(毎日)
---------------------------------------------------------------
広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)さんが20日、肺炎のため亡くなった。100歳。葬儀は26日午前10時半、さいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10のさがみ典礼北浦和葬斎センターで営まれる。喪主は元全日本民医連会長の長男泰(ゆたか)さん。
軍医として広島陸軍病院在勤中の1945年8月6日に被爆し、直後から被災者救護にあたった。戦後、東京や埼玉で低所得者向けの診療所を開設し被爆者を診察。30年にわたって日本被団協原爆被爆者中央相談所(既に解散)の理事長を務め、全国の被爆者への医療相談に取り組んだ。医師の立場から原爆被害の実態を伝えるため、欧米など海外約30カ国も訪問。各国の反核団体と連携して核兵器廃絶を訴えた。
2000年代の原爆症認定集団訴訟では証人として出廷し、長年の臨床経験と海外の文献研究を基に証言。原爆投下後に広島・長崎に入った「入市被爆者」が、飛散した放射性物質を呼吸や飲食で体内に摂取し、「内部被ばく」を起こしてがんなどの原因になったと訴えた。国の認定手法の問題点を突き、原告勝訴の判決を引き出す力になった。
09年に医療の第一線から退いた後も、各地で精力的に講演活動を展開。毎日新聞が06年から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも反核や平和への思いを語っていた。
---------------------------------------------------------------
自らも広島で被爆しながら、被爆者の医療にも携わってきた医師・肥田舜太郞さんが亡くなった。享年100歳は大往生といえるが、福島で健康不安を訴える人が続いているときだけに、もう少し、肥田さんにお力添えをいただきたかったと思っている。本当に残念であり、深くご冥福をお祈りする。
肥田さんの被爆者に対する姿勢の基本は、常に「寄り添い続ける」ことだった。被爆者と向き合い、対話し、同じ被爆者として共感する。対話、共感が肥田さんのキーワードだった。だからこそ、肥田さんは多くの広島被爆者の信頼を勝ち得た。内部被曝という概念を初めて広めた功労者でもある。肥田さんの活動は、長い間、原爆被爆者を「外部被曝」だけで認定し、または切り捨て、賠償や救済の面で被爆者に分断を強いてきた国の姿勢を、裁判を通じて変えさせる原動力となった。
チェルノブイリでの健康被害を過小評価し、切り捨てる先頭に立ったのは、恥ずかしいことに日本の原子力ムラの手先となった医師グループだった。その筆頭に放射線影響研究所理事長を務めた重松逸造がいた。重松の「弟子」に当たるのが、福島で被害者切り捨ての先頭に立っている長瀧重信、そしてそのさらに弟子に当たる山下俊一が、高村昇らと一緒になって、飯舘村で「泥んこ遊びをしても大丈夫」「ニコニコしている人に放射線は来ません」などの不見識極まる発言を繰り返し、健康被害に直面する福島県民から袋叩きに遭った。
肥田さんも「健康に生きるには笑顔が大切」と被爆者に訴え続けた。実際の発言内容を見ると、山下の「ニコニコしている人に放射線は来ません」と大きく違わない。言っていることはほとんど同じなのに、子どもの健康を真剣に心配する母親たちから肥田さんは信頼され、山下は袋叩きにされる。山下の言うことには猛反発している母親たちが、肥田さんが「内部被曝の影響を軽減するには味噌汁を飲むのがいい」というと、一生懸命味噌汁を飲む。
この違いはどこから来るのか。それは、被害者に寄り添い、対話し、共感する姿勢が肥田さんにはあるのに対し、山下らにはそれが露ほども感じられないからだろう。内容的には同じことを言っていても、その発言者が「誰の利益を代弁しているのか」「誰の味方で、誰の敵か」を、理解する人はちゃんとしているのである。
現在、「原子力ムラ」側にいる学者たちは、リスクコミュニケーションの失敗、福島県民に「科学的な理解」をしてもらおうという対話の姿勢が欠けていた――として、リスクコミュニケーションの研究に余念がない。だが、彼らが彼らであり続ける限り、子どもの健康を心配する母親たちが彼らに理解、支持を与えることはないであろう。なぜなら母親たちは、彼らが「あちら側」の人間であることを正しく理解しているからである。彼ら「御用学者」が、子どもの健康を心配する母親たちの支持を得たいと望むなら、それは美辞麗句を弄することではなく、「あちら側」から「こちら側」の人間になることで初めて実現される。つまり、出世を諦め「御用」の立場を降り、母親たちととともに歩むことである。
『科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。そうでなくては、たとえいかに理科教育に工夫を施してみても、若者たちの“理科離れ”はいっそう進み、社会(市民)の支持を失った科学は活力を失うであろう』
これは、生涯を反原発に捧げ、62歳の若さで世を去った市民科学者、高木仁三郎が私たちに残したメッセージである(原子力資料情報室サイト「市民の不安を共有する」より)。これこそ市民とともに歩む科学者の模範であろう。肥田さんは、高木仁三郎と同じように、この道を貫いた模範的学者だった。彼に比肩する人物は今の日本には片手で足りるほどしかいない。肥田さんを失ったことによる損失は計り知れない。
---------------------------------------------------------------
広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう)さんが20日、肺炎のため亡くなった。100歳。葬儀は26日午前10時半、さいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10のさがみ典礼北浦和葬斎センターで営まれる。喪主は元全日本民医連会長の長男泰(ゆたか)さん。
軍医として広島陸軍病院在勤中の1945年8月6日に被爆し、直後から被災者救護にあたった。戦後、東京や埼玉で低所得者向けの診療所を開設し被爆者を診察。30年にわたって日本被団協原爆被爆者中央相談所(既に解散)の理事長を務め、全国の被爆者への医療相談に取り組んだ。医師の立場から原爆被害の実態を伝えるため、欧米など海外約30カ国も訪問。各国の反核団体と連携して核兵器廃絶を訴えた。
2000年代の原爆症認定集団訴訟では証人として出廷し、長年の臨床経験と海外の文献研究を基に証言。原爆投下後に広島・長崎に入った「入市被爆者」が、飛散した放射性物質を呼吸や飲食で体内に摂取し、「内部被ばく」を起こしてがんなどの原因になったと訴えた。国の認定手法の問題点を突き、原告勝訴の判決を引き出す力になった。
09年に医療の第一線から退いた後も、各地で精力的に講演活動を展開。毎日新聞が06年から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも反核や平和への思いを語っていた。
---------------------------------------------------------------
自らも広島で被爆しながら、被爆者の医療にも携わってきた医師・肥田舜太郞さんが亡くなった。享年100歳は大往生といえるが、福島で健康不安を訴える人が続いているときだけに、もう少し、肥田さんにお力添えをいただきたかったと思っている。本当に残念であり、深くご冥福をお祈りする。
肥田さんの被爆者に対する姿勢の基本は、常に「寄り添い続ける」ことだった。被爆者と向き合い、対話し、同じ被爆者として共感する。対話、共感が肥田さんのキーワードだった。だからこそ、肥田さんは多くの広島被爆者の信頼を勝ち得た。内部被曝という概念を初めて広めた功労者でもある。肥田さんの活動は、長い間、原爆被爆者を「外部被曝」だけで認定し、または切り捨て、賠償や救済の面で被爆者に分断を強いてきた国の姿勢を、裁判を通じて変えさせる原動力となった。
チェルノブイリでの健康被害を過小評価し、切り捨てる先頭に立ったのは、恥ずかしいことに日本の原子力ムラの手先となった医師グループだった。その筆頭に放射線影響研究所理事長を務めた重松逸造がいた。重松の「弟子」に当たるのが、福島で被害者切り捨ての先頭に立っている長瀧重信、そしてそのさらに弟子に当たる山下俊一が、高村昇らと一緒になって、飯舘村で「泥んこ遊びをしても大丈夫」「ニコニコしている人に放射線は来ません」などの不見識極まる発言を繰り返し、健康被害に直面する福島県民から袋叩きに遭った。
肥田さんも「健康に生きるには笑顔が大切」と被爆者に訴え続けた。実際の発言内容を見ると、山下の「ニコニコしている人に放射線は来ません」と大きく違わない。言っていることはほとんど同じなのに、子どもの健康を真剣に心配する母親たちから肥田さんは信頼され、山下は袋叩きにされる。山下の言うことには猛反発している母親たちが、肥田さんが「内部被曝の影響を軽減するには味噌汁を飲むのがいい」というと、一生懸命味噌汁を飲む。
この違いはどこから来るのか。それは、被害者に寄り添い、対話し、共感する姿勢が肥田さんにはあるのに対し、山下らにはそれが露ほども感じられないからだろう。内容的には同じことを言っていても、その発言者が「誰の利益を代弁しているのか」「誰の味方で、誰の敵か」を、理解する人はちゃんとしているのである。
現在、「原子力ムラ」側にいる学者たちは、リスクコミュニケーションの失敗、福島県民に「科学的な理解」をしてもらおうという対話の姿勢が欠けていた――として、リスクコミュニケーションの研究に余念がない。だが、彼らが彼らであり続ける限り、子どもの健康を心配する母親たちが彼らに理解、支持を与えることはないであろう。なぜなら母親たちは、彼らが「あちら側」の人間であることを正しく理解しているからである。彼ら「御用学者」が、子どもの健康を心配する母親たちの支持を得たいと望むなら、それは美辞麗句を弄することではなく、「あちら側」から「こちら側」の人間になることで初めて実現される。つまり、出世を諦め「御用」の立場を降り、母親たちととともに歩むことである。
『科学者が科学者たりうるのは、本来社会がその時代時代で科学という営みに託した期待に応えようとする努力によってであろう。高度に制度化された研究システムの下ではみえにくくなっているが、社会と科学者の間には本来このような暗黙の契約関係が成り立っているとみるべきだ。としたら、科学者たちは、まず、市民の不安を共有するところから始めるべきだ。そうでなくては、たとえいかに理科教育に工夫を施してみても、若者たちの“理科離れ”はいっそう進み、社会(市民)の支持を失った科学は活力を失うであろう』
これは、生涯を反原発に捧げ、62歳の若さで世を去った市民科学者、高木仁三郎が私たちに残したメッセージである(原子力資料情報室サイト「市民の不安を共有する」より)。これこそ市民とともに歩む科学者の模範であろう。肥田さんは、高木仁三郎と同じように、この道を貫いた模範的学者だった。彼に比肩する人物は今の日本には片手で足りるほどしかいない。肥田さんを失ったことによる損失は計り知れない。