学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

芥川龍之介『大正十二年九月一日の大震に際して』

2012-04-16 20:12:58 | 読書感想
東日本大震災が起こってから1年と1カ月が経過しました。この間、改めて地質を調査してみたところ、首都圏では大きな地震が起こる確率が非常に高い、ということがわかってきたようです。過去に首都圏を襲った大地震といえば、やはり関東大震災。1923年(大正12)9月1日の出来事でした。今から約90年前の出来事です。先日、図書館で芥川の全集を読んでいたとき、この表題の文章を見つけました。芥川があの震災のときにどんな行動を取ったのか、気になった私は早速読んでみることにしたのです。

1923年、当時芥川は32歳で、東京の田端に住んでいました。すでに体調のすぐれなかった芥川は、同年8月末は微熱に悩まされていたようです。8月29日は夕方から悪寒があり、熱は38.6度あったと記載されています。翌日、震災前日はやや体調が戻ったようで、森鴎外の『渋江抽斎』(しぶえちゅうさい)を読んでいます。そして9月1日正午近く、昼ご飯にパンと牛乳を用意し、これから食べようというときに地震が起こりました。地震が起きてすぐに芥川は母とともに外へ出ます。妻や伯母、子供たち、女中、その後に遅れて父が家から出てきました。


「この間家大いに動き、歩行甚だ自由ならず」


地震がおさまってのち、家の被害を確認すると屋根瓦が落ちたのと石灯籠が倒れたのみで、人的被害はなかったようです。夜、風が非常に強くなり、東京のいたるところで火災が広がります。


「東京の火災愈(いよいよ)猛に、一望大いなる溶鉱炉を見るが如し」


まるで溶鉱炉のようだったという東京の火災。何もかもが炎で溶けてしまうほどの強い印象を与えたようです。私はこの表現を読んで、東日本大震災時に炎に包まれた宮城県気仙沼市の様子を思い浮かべました…。

震災から2日目の9月2日。東京の空は未だに煙に覆われ、その灰が庭前にも落ちたとのこと。延焼が田端まで広がるのではないかとの懸念から、万が一のことを考えて身支度を整えます。しかし、夜になって芥川は再び発熱。39度の熱が生じたため寝込んでしまいます。このとき、東京で暴動の噂があり、熱で寝込んだ芥川の代わりに近所に住んでいたらしい円月堂なる人物が警戒の任にあたったようです。具体的な記録はここで終わっています。

その後、田端への延焼はなく、体調が持ち直した芥川は浅草や丸ノ内の焼け跡や遺体を見てきたようです。火災によって焼野原となった東京ですが、芥川は特に「落つる涙」もなく冷静に見ています。(一方で火災により多くの古書が失われたことに対するショックが大きかった)

芥川の感情の動きはなかなか読み取れない部分がありますが、一家の長として家族を守らなければならないときに、微熱に悩まされて、なかなか思うように体が動かなかったあたりは、さすがにはがゆかったのかもしれません。


私は本を閉じて、東日本大震災のときにとった自分の行動について思い起こしていました。時代は違えど、大震災での局面。文章を読み終えて、私の知らない遠い過去のことが、現在とつながってよみがえってくるような感覚を覚えました。


●『芥川龍之介全集8』筑摩書房 1971年

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