語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『三十九階段』

2013年12月29日 | ミステリー・SF
 南アフリカのブールワーヨでひと財産を稼ぎ、ロンドンへ戻って3か月目の5月、リチャード・ハネー、元鉱山技師、37歳はすっかり退屈していた。気候は不快、出会う人々の会話はいただけないし、娯楽は気の抜けたビール同然ときている。名所見物には飽き、劇場や競馬場は見つくした。
 クラブで読んだ新聞に、ギリシア首相カロリデスの記事があった。彼こそ第一次世界大戦の危機を救う最後の切り札だ、うんぬん。
 その夜、アパートの自室に入りかけたハネーの前に、やせて油断のない目つきの男が立ちはだかって言った。
 貴君を冷静な人と見こんでお願いがある。戦さを起こし、どさくさに革命を企てる無政府主義の一味がいるが、そのもくろみをぶち壊したのがカロリデス。その彼を無政府主義者が始末しようとしている。6月15日、彼が訪英するときに暗殺される。その方法を自分は知ってしまった、うんぬん。
 ハネーはいくぶん眉唾の思いでスカッダーと名のる謎の男を自室にかくまうが、半時間のうちにインド駐留英軍の、現在休暇中の将校に変装した彼の演技は堂に入ったものだった。
 そして4日目の夜、外出先から帰宅したハネーは、心臓を長いナイフに串刺しにされたスカッダーを発見した・・・・。

 本書は、推理小説、スパイ小説の古典であり、このジャンルのその後の原型となった。角川文庫にも訳書がある(『ザ・スパイ』、1967)。
 まきこまれ型スパイ小説である。
 だが、巻き込まれるのは三好徹的な一介の市民、日々汗をして働く市民ではない。イギリス中産階級の、ただし長期休暇中の有閑人である。
 時代はベル・エポックの名残をひく第一次世界大戦前夜。
 されば、全編におおらかさがただよう。たとえば「3 文学好きの宿屋の亭主の冒険」あるいは「4 自由党候補の冒険」。「5 眼鏡をかけた道路工夫の冒険」では、飲んだくれの道路工夫に変身したりもする。変装というものはその役割に没入することだ、と語ったローデシアの老スパイの言葉を引用しつつ。

 そして、敵の一味に追われつ横断するつスコットランドの田園地帯が冒険に彩りをそえる。
 そう、スパイを捕捉するスパイ小説だが、じじつスカッダーの手帳に記された暗号を解いたり、変装を見破ってスパイを摘発したりもするのだが、主人公の気分は退屈な日常に活をいれる冒険だ。

 危機を活力(運転する車が渓谷に落ちてもへこたれない)と才知(初対面の議員候補からヨイショの演説を頼まれて器用にこなす)で切りぬける。観察眼(まったくの別人に変装したスパイの親玉をほんのちょっとしたそぶりから見抜く)と推理力(断片的な覚書から正しい結論を導きだす)にもめぐまれた主人公は、その後量産される冒険小説の主人公の典型の一つとなった。
 しかし、背景をなすおおらかさな時代とスコットランドの自然は、後世の有象無象がよく模倣できるところではないだろう。

 本書を最初に映画化したヒッチコック作品は、いま見るとさすがに古めかしいが、傑作の噂が高い。その後、なんどもリメイクされたが、見るにたえる作品は、ドン・シャープ監督による1978年版(英)くらいだ。

 ジョン・バカンは、1875年生、1940年没。英国の弁護士、軍人、政治家、評論家、歴史学者、実業家として多方面で活躍した人物。「実業家を自分の職業とし、書くことを娯楽とし、政治は自分の義務とこころえる」とはジョン・バカン自身の弁。カナダ総督在任中に事故死した。

□ジョン・バカン(小西宏訳)『三十九階段』(創元推理文庫、1959)
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