四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鎌倉街道 上道跡 -毛呂山町 2-(埼玉県毛呂山町)

2016年02月08日 | 鎌倉街道
県道39号線(川越・坂戸・毛呂山線)北側にある川越街道上道跡や古墳群散策の後は県道南側に位置する川越街道上道跡を目指します。



県道を渡るとここにも看板(案内板)が




鎌倉街道遺跡まで600m 往復で1200m 帰りは資料館までプラス200m 
もう大分歩いているから一旦資料館に戻り高級車に乗ってとの悪魔のささやきに打ち勝って徒歩で散策を続けることに



 
⑦と⑧の上道跡が目的です




この辺りが⑦で印した「大類と市場境界の鎌倉街道上道跡」と称される所でしょう




堀割状の遺構は認められませんが雰囲気は抜群です 生活道路として使われています




鎌倉街道遺跡の標柱の先に遺構が見えます  ここが「市場・西大久保境界の鎌倉街道上道跡」と称される遺構でしょう
歩いてきた道路の直線上に遺構があり現在の道路は一旦右にカーブしてから延びています




標柱の側面には 『ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。
左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。
堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。』と記してあります。




調べたところによればここの堀割状遺構は 長さ約200m 幅6~7m 深さ0.5~2m とありますが見た目では土塁上までは7mどころか10m以上ありそうです。
本来の古道は土塁の下あたりまでではなかったかと素人が勝手に推理します。

上記標柱側面の説明文の中に「・・・長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」との記述があるように元は雑木林状態であったようですが、
ここの町道を通る車が、木があって通りずらいので地権者の判断により数年前に木を伐採したようです、それで切り株だけが残っているようです。
伐採されたのは西側(写真では右側・市場側)だけで、東側(写真では左側・西大久保側)は伐採されておりませんが、
それは地権者が異なるからであるというようなことがどこかに書かれていました。




伐採により雰囲気は半減してしまった感がしますが堀割状遺跡は確認しやすくなったかも知れません




長さ200mの突き当り近くですが、ここには木が伐採されずに残っております。
元の姿をとどめておくために敢えてここだけは伐採しなかったのでしょうか。
こうした状態で約200mも遺っていたわけですから素晴らしい遺構と言えます。




突き当りから北方向に振り返って撮ってみました。 旧道の雰囲気を偲ばせてくれるようです。




上の写真同様に北方向に振り返って




鎌倉街道上道が真っ直ぐに延びていたことがはっきりわかります


以上 鎌倉街道 上道跡(毛呂山町 1)に載せた「大類と川角境界の鎌倉街道上道跡」とあわせ「歴史の道」の対象となっている毛呂山地内3か所の
遺構を全部見て歩くことが出来ました。古墳群やその他については手を抜きすぎてしまいましたが、これはこれで機会あれば改めて・・・

散策日:2016(平成28)年2月5日(金)