嵐山町にある「菅谷館跡」(国指定史跡)の西側に鎌倉街道の石碑、説明板が立っています。これを目にしたとき、鎌倉街道ってここを通っていたのかと興味を持ち
いつかゆっくりと思っていたにも関わらず、どうも幻の鎌倉街道跡であったようです。

これがその石碑で昭和33年4月に建立されたことが裏面に刻まれています

いつの設置かはわかりませんが手書き文字の説明板であることからかなりの年数が経っていることは確かです

延長約200mのくぼ地で鎌倉街道上道跡の掘割状遺構と言われてきた所

鎌倉街道説明板と並んで立てられている山王古墳群説明板

山王古墳群の一部
この場所は、嵐山町大字千手堂地内に位置し、オオムラサキの森活動センターの道向いにあたり、山王古墳群の前です。
鎌倉街道跡でなく実は城域の堀であったのではないかと分ったのは昨日今日の話しではなく、30年以上も前の1983(昭和58)年のことで、
歴史の道にともなうトレンチ調査を1982(昭和57)年から2年間にわたって小川町・寄居町・毛呂山町、そしてこの嵐山町の4か所の鎌倉街道上道跡で
行ったところ、ここ嵐山町千手堂については、その構造が鎌倉街道上道跡の掘割状遺構ではなく城(菅谷館)の堀跡ではないかとの結果に至ったようです。
詳しいことは〔鎌倉街道上道跡菅谷〕等のキーワードで検索していただければいろいろ出てきますので興味ある方は・・・
撮影日:2016(平成28)年2月11日(木・祝) 〔2017.5.6再編集〕
いつかゆっくりと思っていたにも関わらず、どうも幻の鎌倉街道跡であったようです。

これがその石碑で昭和33年4月に建立されたことが裏面に刻まれています

いつの設置かはわかりませんが手書き文字の説明板であることからかなりの年数が経っていることは確かです

延長約200mのくぼ地で鎌倉街道上道跡の掘割状遺構と言われてきた所

鎌倉街道説明板と並んで立てられている山王古墳群説明板

山王古墳群の一部
この場所は、嵐山町大字千手堂地内に位置し、オオムラサキの森活動センターの道向いにあたり、山王古墳群の前です。
鎌倉街道跡でなく実は城域の堀であったのではないかと分ったのは昨日今日の話しではなく、30年以上も前の1983(昭和58)年のことで、
歴史の道にともなうトレンチ調査を1982(昭和57)年から2年間にわたって小川町・寄居町・毛呂山町、そしてこの嵐山町の4か所の鎌倉街道上道跡で
行ったところ、ここ嵐山町千手堂については、その構造が鎌倉街道上道跡の掘割状遺構ではなく城(菅谷館)の堀跡ではないかとの結果に至ったようです。
詳しいことは〔鎌倉街道上道跡菅谷〕等のキーワードで検索していただければいろいろ出てきますので興味ある方は・・・
撮影日:2016(平成28)年2月11日(木・祝) 〔2017.5.6再編集〕