字が読めない、書けない。
生物は、それが大部分だ。
字を読んだり書いたりする生き物は特殊だ。
出来る人間でも自国の言葉だけだ。
自国が他民族国家の場合、言葉も一部しか理解できない。
一部も読めない、書けない人間だってかなりの割合だ。
言葉は素晴らしい発明ではあるが、
言葉で通じなくても理解できる話が「やさしい話」だ。
多分、ブッちゃんはそれをやってのけた。
「優しい」と「易しい」は深くて広い。
難しくも厳しくも無いが、とても大きい。
誰にでも、どんな段階でも当てはまる。
それが「優しい・易しい」ということ。
何処までも広く、何処までも高く、深くある。
考えなくても理解できる。
考えていては、理解できないかもしれない。
「優しい・易しい」事に比べたら、
厳しいことや難しいことなど薄っぺらだろ?
「有限の人生の無駄使いだよ」
ブッちゃんは自らの厳しい修行体験をそう語った。
ブッちゃんはその頃はマジメだったから、
ホントに厳しい(命懸けの)修行をしていたらしよ。
「やさしい」事の大きさ、高さ、深さに気づいたら、
ブッちゃんは「いいかげん」になった(と思う・・・)。
何しろ人間もタヌキも一緒に話をしているんだ。
ブッちゃんは「メンドクサガリ屋」になったのかもしれない。
ウソも平気で言うし・・・。
その行いは常に「弱いモノ」の味方(観方)だ。
苦しむモノ、困っているモノに目を向ける。
上を目指すことが「厳しさ」「難しさ」だとすれば、
それは「無駄使いだよ」とやさしく説いた。
でも・・・愚かな弟子達は解らなかったようだ・・・。
(教え方が悪いのかも?・・・ブッちゃんの・・・)
精神世界を彷徨すると「難しいモノ好き」が多い。
ワシもそうだったと思う。
だから迷っていたのだと思う。
「難しいモノ」「厳しいモノ」に価値があると錯覚し、
(自分が)上に行くことを目標にした時期があった。
「やさしい」ことに目を向けるなんて思ってもみなかったなぁ。
イキナリこの仕事に出会い、入ってしまい、
「苦しみ」と「死」に出会うようになった。
「悩み」と「悲しみ」の人達を触るようになった。
もう理屈遊び、言葉遊びの時期を通り過ぎていた。
「やさしい」ことの大切さに気づかされた。
「やさしい」ことの大きさに出会う事ができた。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」