「やさしい話」は言葉でもできるが、
ただの言葉だけじゃ足りない。
「やさしさ」は相手が「やわらぐ」ことだ。
相手が解放できる事だ。
相手がその場で変われる事なんだ。
言葉を使うなら、言葉で感じるモノが必要だ。
言葉から染み入るモノが必要だ。
言葉で飾り立てると、内側に響かない。
見えないモノを言葉に乗せる。
ワシ流に表現するならば、
言葉という乗り物で「氣」を届けるのだろう。
同じ話でもブッちゃんと弟子達は違った。
一言一句、同じ話をしても、ブッちゃんほど響かない。
「話」を覚えても、乗せてある「氣」に気づかなかった。
難しい「氣」ではない。
「やさしい話」だから「やさしさの氣」だった。
実に素直なモノだった。
言葉には「力」があるが、「力」を使わない。
頭の良い弟子達は「力」にこだわった。
「力」は使わない為にもある事を理解できなかった。
「力」を身に付けても使わない使い方(?)がある。
使わない「氣」が「やさしさ」になる。
例え話にしよう。
力の強いレスラーが、その力をフルに使わない。
喧嘩相手そっと抱きしめる。
(ちょ、ちょっと気持ち悪いかも・・・)
それが「やさしさ」というものだ。
すると、別の何かが発生するようだ。
(オトコ同士の愛・・・とか茶化さないで・・・)
ものすごい「力」がある。
あるから使わない。
そして、そっと抱きしめたから、
多くの奇跡が起きた。
マザー・テレサという聖女は、
そういう「やさしい」人だった。
言葉は道具の一つ。
時には「歌」が「やさしい話」になる。
「微笑み」が「やさしい話」になる。
瞳の温もりが「やさしい話」になる
手の温もりが「やさしい話」になる。
ワシは不マジメな生き方をしているが、
プロフェッショナル・ヒーラーとしては
「やさしい」使い方を学ぼう(気づこう)と思う。
とても頼りになる御筆先様という味方がいるが、
文章の言葉でなく、「氣」を言葉に乗せている。
時々・・・上手く乗せる事ができている。
そう思うことが多少増えたかな?(自画自賛)
だから文体が統一されてなくても、
コマギレな節であっても気にしないでね。
ワシはちっとも気にしてません・・・(開き直り)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」