水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

やさしい話・5

2005-03-17 20:52:03 | Weblog


1997年9月。聖女帰天。
同じ年の7月にワシはインドにいた。
マザーテレサとは直接会えなかったが、
その時一緒だった龍村師匠の実姉、和子先生が、
直後に行ったマザーハウスでの「奉仕」を、
04年2月のコラムで書かせていただいた。
(本館のHPにありますよ~)

マザーテレサの言葉は魂に染み込む。
不マジメなワシが姿勢を正してしまう・・・。
その中の一つにこういう言葉があった。

「私は正しくても不親切で冷淡な奇跡より、
間違いでも優しさと慈しみを選びます」

今のこの仕事をしていなかったら、
崖っぷちの人達と接していなかったら、
鈍感で独善のワシではこの言葉の深さが響かなかったろう。
考え方の違い、生き方の違いとしか思わなかったろう。
状況が理解できなかったろうと思う。

ワシが(一時)追い求めていた「正しさ」なんて、
とても、とても、とても恥ずかしいと思った。
ワシは怖くてマザーテレサを追いかけられないが、
プロフェッショナル・ヒーラーとして同じ方向を目指そう。
「いいかげん」なワシでも、魅かれる光には向かうものだ。

今でもワシには癖がある。
治療や指導に「正しさ」を持ち込もうとする。
その時、この言葉を思い出す。
(いや、思い出さない事も結構あるなぁ・・・)
思い出せば、一瞬にして光が観える。
光は・・・やさしい・・・。

「やさしさ」の姿を知らなかった頃、
ワシは「やさしさ」を固定概念で観ていた。
「優しさ」の大きさも柔らかさも凄さも知らなかった。
「易しさ」に深さがあるなんて思いもよらなかった。
「厳しい優しさもある」と勘違いはしていたけどねぇ。

ホンモノの「やさしさ」を受け取ると、
「やさしさ」の大きさに気づいてしまうのだ。
でも、それは受け取れる分だけの気づきだ。
「やさしさ」に底はない。
(あるかもしれないけど、ワシには判断できない)
だから、どんな人でも、いつでも「気づき」がある。
ワシが受け取れた量なんて高が知れている。
だから、いつまでも追いかけることが出来る。

マザーテレサは祝賀会の御馳走を前にして、
「今日は断食の日です」とウソを言った。
主賓が食べないのでは他の人が食べられるはずがない。
「では、お腹を空かせている子供達に配ればいいでしょう」
さっさと会場を後にしたマザーテレサの瞳は笑っていた。
「やさしさ」ってオチャメな姿だってするんだ。
残された人達のそれぞれは、何に「気づき」、
どんな「やさしさ」を受け取っただろう?

グレちゃん(創造主)がこの世を創ったのは、
「やさしさ」だからだと思っている。
だって、かなりオチャメに創られているもの。
生きているモノが可愛くって仕方ない。
たとえ、それが、どんな状況であろうとも。


(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
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