親子の愛
愛、といっても愛情の事よ。
前項で書いたように、「愛」そのものの解説なんてしても理解できないでしょ。でもここでは「愛」と表現したほうがイメージしやすいのよ。
イメージは理解を先導したり、扇動したり、何かの船頭になったりするものなの。
理解は「愛」への入り口なんだけど、イメージが先導役だと知るとイメージの重要性が解るかしら?
ツマラナイ学習より、想像やその先にある創造の癖をつけるほうが、ずっと物事の理解に近づくわ。
勉強をさせるのは何のため? 何かを理解するためでしょ。それなら頭は遊ばせなくっちゃ。
遊びからイメージやもっと直接的に理解や発見が起こるものよ。直感ってヤツかな。
あら?また話しが横にずれていたわ。そうそう親子の愛だったわね。
人間にとって親子の愛は基本形なのよ。だから人間には例外なく親がいるのよ。人間以外では親がいなくて生まれるモノって多いわ。いきなり発生するモノや、分裂するモノなどさまざまよ。
ここでいう親は肉体的遺伝的な存在のことよ。すべては「神」という親から生まれた、だから我ら動物みな兄弟、という表現の仕方もあるけれどねぇ。
いきなり本質的なことを言ったって、それぞれが勝手に受け取ってケンカするのがオチよ。各宗教間の争いを見て。神様がいたら嘆く・・・わけないか。嘆くのは悲観的な人間のほうだったわね。神様はそんな事ぐらい、お見通しのはずよ。そうじゃなければ、神様なんてやってられないわよねぇ。
神様って超ポジティブよ。悲観的な神様なんてニセモノに決まっているじゃない。まして怒る事は絶対しないわ。神様モドキは人間の創りものよ。よく観てね。
親子の愛の特徴は「最初から備わっている」事よ。
通常、愛情は育てたり変化させたりする「行い」が伴うものなんだけど、愛情が最初からあるから親子としてこの世に存在しているの。
ところで覚えているかしら?きっと忘れていると思うけど、以前に
「行い」が伴って感謝の形になる、って言ったのよ。この世で学ぶ大切な事はすべて「行い」を通して理解できるような仕組みなのよ。
これも大切。感謝と愛情は同じモノを違う側面から表現したのよね。感謝って結構「大物」なのよ。つまり親子間では最初から感謝も備わっているのよ。
それにしても「行い」なしで愛情も感謝も最初からあるんだから、親子ってすごいわねぇ。しかも人間なら例外無しに与えられているのよ。この世のこんな仕組みを考えると、こんなアタシだって神様の仕業と思うわよ。
あら?アンダーラインばかり。ここのお話は重要なのかなぁ。
「鏡よ鏡、お前にも親はいるの?」
「ワイらは己を映すことによって、神、つまり大親を観るために創られたんや」
「へ~、そう。で、アンタに親はいるの?」
「ウッ! ワイ、人間やない!」
「知っているわ。で、アンタに親はいるの?」
「ワ、ワイかて人間が羨ましいことだってあるんや」
「つまり、アンタに親はいないのね。フフフ、案外アンタが可愛くないので捨てられたのかもよ」
「そ、そ、そうやろか?」
「あ~。何故か今夜は気分良く眠れそう」
(魔女に限らず、オナゴは底意地が悪いものです・・・)
(何故かB女の評判がいいので、つ、つい、今日も続きをコピペしてしまった
やはりキチンと最後まで書いて、出版という形にしたいなぁ・・・)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」