水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」
インドでのウン○話は沢山ある。
この手の話をすると、とても「場」が活気付く。
どうしてこんなに盛り上がるのか不思議なほど元気になる。
思い出しても、可笑しくてしょうがない。
邪気の無い「笑い」は「生命」を活性化する。
皆さん、ウン○話をしたかったのねぇ・・・。
夜行列車で10数時間の移動があった。
列車内に売り子がくる。
(い、いや、売りオッサンだった・・・)
寝床は天上付近に設置できる。
子供の頃の秘密基地みたいだ。
隣から更に隣に天上伝いで移動できるのだ。
同行者達はヨガ指導者の女性が多い。
そこで列車内のトイレ談義に花が咲く。
列車の天上からウン○とオシッコの話が降り注ぐ。
聞いていた人は迷惑だったろうか、面白かったろうか?
今でも、ワシには判らない・・・。
ただ、話に加わる女性がどんどん増えた・・・。
インディアントイレだ。
直径10センチほどの丸い穴が床に一つ。
僅かに穴に向かって勾配があったのかなぁ?
もちろん垂れ流しだが、それはモンダイない。
モンダイはその位置だ。
壁から20センチほどに穴が一つ。
さぁ、微妙な位置になる。
大きい方はモンダイないだろう。
壁側がお尻だ。
座ったままで手が届くところに水がある。
つまり蛇口が床から40センチ上。
(ちなみに西洋便座でしか用便をしなかった人は、
お尻を支えるモノがないと、とても苦労するようだ。
和式トイレ用の筋肉は発達していないらしい。
だから野外での排便に西洋人は苦労する。
訓練と工夫をしなければ悲惨で滑稽な出来事を体験する)
オトコのオシッコもモンダイない。
キャサリン・メイヤーもその著書で書いていた。
野外でもオトコは威厳を持ってオシッコが出来る。
世界の未来を憂いながらオシッコが出来る。
当初の狙いさえ定めれば、ノーテンキに過ごせる時間だ。
オナゴはそういうわけにはいかない。
周囲に気を配り、自身の一部に気を配る。
姿勢、位置に気を配り、衣服や持ち物に気を配る。
そして態勢を維持する筋肉を緊張させ、
一部のみ緊張を解いて速やかに事を進める。
恋や仕事の悩みも、この時間内で煩う余裕は無い。
しかも西洋便器が無いということは、
あふれ出た液体の行く末の心配までしなければならない。
元の主にしがみつく場合があるからだ。
靴であったり足であったり、それは多いそうだ。
オナゴはまだまだ大変なハンディを背負っている。
男女は同権かもしれないが、同等じゃないのだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
肝心のウン○がちっとも出演しないで話が進む。
やわらかい、温かい題名なのに、中身に偽りありだ!
ウン○友の会の皆様、期待させてゴメンナサイ。
ワシはブッちゃん(仏陀)の方便法を学び、
ウソをつくのが得意になりました(責任転嫁だな・・・)
ウンもウソも似た字だし、どちらも日常にあるということで・・・。
そういえばワシのHPに「インド・エッセイ」がある。
一番肝心な場面を書いてない。
書けないわけではないが・・・御筆先様が乗ってこない。
もう何年もほったらかしのままだ。
そこにウン○の一節がある。
題名を「ウン孝」としてある。
インドは混沌の国だ。
崇高な哲学とウン○が一緒に置いてある。
ワシは性格的にこの国の混沌が好きみたい・・・。
多種多様な民族や宗教や身分や歴史がゴチャゴチャ。
その中で暮らすには「おおらかさ」が不可欠となる。
ワシは「おおらか」なモノが好きみたい・・・。
朝、電車で移動した時のことだ。
冷凍庫のような冷房の列車は駅付近はゆっくり走る。
線路のすぐ脇を老若男女がゾロゾロゾロと歩いている。
背筋を真っ直ぐに、歩調はゆっくりリズムよく・・・。
実にインドの人達の歩く姿は優雅で綺麗な姿勢だ。
手にはビール缶のような入れ物を持ち優雅に歩く。
口は閉じ、おしゃべりはあまりしないようだ。
意思のしっかりした目というか、キツメというか、
歩く脇を通る列車をにらみつけるような目でもある。
(最近の日本人は半開きの口が多いがインドではあまり見かけない)
歩く列はアチコチで延々とある。
そして・・・アチコチで列を離れ、
アチコチでしゃがみこんでいる人がいる。
そう、ここは天然の野外トイレでもあるのだ。
トイレが無いのではなく、
何処でもトイレがある、国なのだ。
ちょっと道(?)から外れた雑草の中、
実に優雅に、実に自然に腰を下ろす。
毎日の自然な日常生活。
多くの人が溢れているのだが、
何故か静かな時間が流れている。
実に当たり前の光景であり、
「生きる」を意識してしまう光景でもある。
インドは不思議な国だった。
朝のウン○時間に出会って、
生物としての生きた哲学を学べる国でもある。
薄っぺらな精神論はオシッコで流される・・・。
文明国とよばれる国は紙(神)を使い、
自然を壊す(環境破壊や戦争をする)。
自分の汚れた(と思い込んでいる)モノを隠し、
正義の名目で常に優位に立とうとする。
「正しさ」は卑怯で薄情なモノなのだよ。
混沌の国、インドでは(伝統的な生活者のみです)
紙(神)もあるが、紙(神)は使わない。
日と水が浄化(調和)してくれる。
エコロジーは当たり前の日常なんだ。
学ぶこと、気づくこと、沢山あると思わないか?
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
下の品だから「下品」
下品の代表として「性」がある。
「性」を正面から取り上げるのはワシでは無理だ。
とても深遠すぎて雑記で書ける相手じゃない。
肉体界と精神界(心の世界じゃないぞ)から、
聖界(真界)への乗り物としての能力を秘めている。
しかも生き物は全て備え付けている。
チベット亡命政府のある北インド、ダラムサラ。
かつての宮殿名ノルブリンカの名をつけれれた文化センター。
そこで見たチベット仏教の大曼荼羅図中心の御神体図。
男女交合神は腹の底が震えるほどの波動があった。
「性」の遥か深く、とんでもない世界がある。
グレちゃん(創造主)がオチャメだというのが、
これ(性)一つとってもわかるだろう。
ワシが話せる(書ける)のは「性」の極一部だけだ。
その更に一片として「下品」部分がある。
でも今回は書かないぞ。
興味のある人にしか話さないぞ。
聞きたかったら、講演依頼を申し込んでくれ。
「下品を愛する事」と
「下品な振る舞い」は正反対の位置にある。
ところが世の中は「下品」に眉をしかめ、
「下品な振る舞い」の政治家達に投票(応援)する。
常識って、かなりおかしい(可笑しくないか?)
ワシは上品はよく判らないが、
「上品な振る舞い」は判る。
ワシにはなかなか出来ないのだが、
「上品な振る舞い」は敬愛する。
「下品」好きと「上品な振る舞い」は矛盾しないのだ。
故マザー・テレサのフィルムを見た。
膿と垢だらけの病人を抱きしめていた。
あれが「上品な振る舞い」というものだ。
自他を融(解)かして行動する。
そこに塊(こだわり)はない。
「やわらぎ」と「やすらぎ」だけがある。
マザー・テレサの行動を評して誤解がある。
「自分を捨て、他の為に生きている」
そう語られ、書かれる事がある。
それは違う。
自分を捨てた行動で「生命」は続かない。
自他を融かした(解放させた)から偉大なのだ。
ワシが無条件で平伏する聖人の一人でもある。
また硬い話になったかなぁ・・・
ウン○話が硬くては苦しむなぁ。
明日こそ、軟かなウン○話を!
ファイト! オー!!(そんなことでファイトするのか?)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
人は何故下品が好きか?
好きかどうか判らなくても、何故魅かれるのか?
わけがわからないけど魅かれるモノの中には、
とても重要なモノが含まれている。
例えば「いのち」「氣」「恋」「心」
ワシはわからないモノには素直になる。
わからないモノをヘタに考えると間違える。
下品に何故魅かれるのか?
下品に魅力があるからだ。
当たり前だよね。
魅力は何処から湧き出るのか?
魅力は「生命」が活性化するモノから湧き出る。
生き物は「生命」を大切にしているんだ。
生き物の本質は「生命」の活性を求めている。
生き物は全て「生きたい」「より元気に生きたい」のだ。
こんな当たり前のことを忘れて行動する。
当たり前に反した文明を築く。
「当たり前」よりも「欲」を優先する。
「生命」よりも「欲」を優先している。
近代以降、かなり歪んでいるよなぁ・・・。
まぁいい(よくないかぁ?)
下品に魅力があるのは、
下品の内に「生命を活性化」するモノがあるからだ。
下品に(本気で)魅力を感じないのなら、
「元気に生きていく」事にも、あまり反応が無いものだ。
下品に何故か魅かれるのは、正常な「生命」だ。
上品が好き(かどうかしらないが)な人達は、
バイタリティ(生命力)が少ない。
下品が好きな連中(!)は、生き生きしている。
それが社会的に良いか悪いかは別として、
「生命」は下品好きと相性がいい。
人の生き方は好き好きだ。
趣味のモンダイだ。
上品好きだろうと下品好きだろうと、
他人が口出すモンダイじゃない。
だが勘違いしては困る。
「下品」と「下品に振舞う事」は別だ。
下品は人に最初から付いている。
それを哀しい性といおうが、
生命の賛歌といおうが、付き物ではある。
付き物は大切に愉しむものだと思う。
ワシは「下品」は好きだが
「下品な振る舞い」は嫌いだ。
下品に振舞う事の中には犯罪がある。
人の作った法律でなく、存在の理としてある。
「他を侵(犯)してはならない」
これが存在するモノ全てに共通の法だ。
これが無いと生物(と他のモノ)は滅亡する。
だからワシは戦争に正面から反対する。
争いは「下品な振る舞い」なのだ。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
最初から言行一致など守る気も無いが、
いつも言行不一致ではマジメすぎる。
(いつも不良なのはマジメなのだ)
たまに言行一致するのが「いいかげん」の道だ。
たまに知行も一致するのがワシ流だ。
本妻と愛人を差別しない生き方。
(一応、区別はしてます・・・)
ウソとホントも差別しない。
有言実行も有言不実行も差別しない・・・。
差別しないから、どちらでもいい。
どちらでも、いいところは沢山ある。
「やわらぎ」が基準だよ、といいながら
結構、硬い題名が続いた(有言不実行だ)
そうだ!やわらかな題名にしよう(有言実行)
そこで乱雑な本をながめていた。
内容がやわらかくても題名は硬いなぁ・・・。
「HOW TO SHIT IN THE WOODS」キャサリン・メイヤー著
これは題名がやわらかい・・・。
日本語名は「山でウンコをする方法」
内容は、野外でのウンコ・オシッコとの付き合い方だ。
表現もやわらかいが、内容はマトモだ。
自然愛好家でもある著者は、特に自然破壊に警鐘を鳴らす。
その一つとして最も身近で例外の無い排便を語った。
しかも、女性の目、女性の行動として語った。
硬く、重くはないが、深く、温かい本でもある。
こういう文章はワシの目指す方向の一つだ。
何しろウンコとオシッコだ。
「やわらかい」し「温かい」・・・。
もし真剣に正面から受け止められないのなら、
アナタは偽善者だ。
汚いと顔をしかめるのなら、
アナタは腹汚い・・・間違いない!
例外なく、人の腹はウンコとオシッコを持っている。
ところで、話は横道・・・。
この「ウン○」の題名にしたら、
アクセス数がかなり増えているみたい。
なるほどなぁ・・・。
上品な話は気が乗らないけど、
下品な話は興味があるんだなぁ・・・。
ワシは上品と下品を差別しない。
どちらも滑稽だと思っている。
上品に価値を付ける人は、抑圧されている。
下品だけに興味を持つ人も抑圧されている。
(その人も上品が上等だと思っているから)
そうだ!
明日は上品と下品の話を書こう!!
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシは有言不実行、知行混乱な人間だ。
反省はしないが、気まぐれに変えるのは好きだ。
意識の基準を「正誤」から「やわらぎ」に、
なんて書いているくせに、いつも題名が硬い。
最近、硬くあるべきトコロが柔らかくなっているが、
そこが何処だかはアナタが詮索するべきじゃない。
乱雑なのは頭だけじゃない。
昔から本を読むのは好きだった。
文字中毒症だった頃もある。
できるだけ厚い本でないと満足しなかった。
ナナメ読みはしないが、速読タイプだった。
月日は流れ、努力研鑽の成果が現れた。
乱読、積どく、メンドク(さい)の三位一体を極めたのだ。
表紙を見るだけで内容が解る。
手を当てれば、智慧が流れ込む。
これがウワサの求聞持法かぁ・・・。
片鱗でも触ってみれば意識は変わるが、
こんなの・・・ツマンナイ。
便利、早いは、ツマラナイものなのだ。
好きなオナゴはいつまでも愛でたい。
少し触っただけで、イッてどうする?
好きなマンガはゆっくり愉しむのがいい。
パラパラめくりで読んでしまったら、
一所懸命書いてくれた漫画家さんに失礼だ。
珈琲と和菓子が残っているのに、
マンガだけ終わっては調和がとれない。
人間、賢い人は稀で充分だ。
誰でも脳細胞は壊れるように創られている。
記憶も知識もボケてくるようになっている。
応用できないのに詰め込むのは無意味だ。
ワシはアホの人間で生きたい。
このように文章文体の乱れも趣味なのだ。
昔、書くのが好きなくせに苦労して書いた時期があった。
上手く書こう、という意識があった。
読んでいただく人が解りやすく、と思っていた。
自分の文才程度が観えてなかったのだ。
「氣」のプロとなって気づく事は多い。
「氣」は上辺、体裁が通用しない。
ウソも技術も通用しない。
ウソに「氣」は乗らないのだ。
この世の仕組みはヒネクレている。
ワシが書きたいように書く。
読む人の事など、知った事かぁ・・・。
そう変えたら、ワシの手から離れた。
御筆先様が勝手に書いてくれるようになった。
今では第一番目の読者がワシになったのだ。
(それにしても題名の「ウン○」は何処?)
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
「優性思想」が「優性嗜好」になれば楽になる。
「頑張れ!」「修行だぁ、精進だぁ!」「努力と根性!」
これらが趣味の選択だけになる。
頑張るのが好きな人が頑張り、
根性の無い人は根性ナシの生き方を堂々と出来る。
自分にも他にも無理を押し通さずにすむから、
社会がとても暮らしやすくなるのだ。
無理を通さなくてもよければ、
争いは無くなり、戦争で苦しむ事もない。
戦争を産みだす意識が無くなれば、
人間だけでなく、多くのモノが楽になると思わないか?
頑張らなくても社会の発展は出来るが、
仮に発展しなくても、平和な社会が優先する。
平和でなければ、未来などありっこない。
発展や進化など趣味としてやってくれ。
頑張って自滅を急ぐのは愚かというものだし、
他に強要するのは迷惑というものだ。
「イジメはいけない」と誰でもいう。
でも「優性思想」は常識だととらえている。
そりゃ、ヘンだろ?
「イジメ」の原因は「優性思想」だろ?
今の日本中で行われている弱者虐待は、
「優性思想」から起こっている。
「優性」は弱者にしか向かえない。
自分が優位になれる相手を虐める。
叛骨精神なんて「優性思想」には無い。
(そんなの無くてもいいけど・・・)
どんなに立派で正論(?)を述べても、
弱者(と思っている)側の見方(味方)にならない。
たまにはヤクザや政治家や警官を虐待してみろよなぁ・・・
「他(人)より優位に立とう、それが勝ち(価値)だ。」
競争で上位に行くことが価値があると思ったら、
下位や弱者への思いやりは失われてしまう。
「イジメ」「虐待」「虐殺」の無い社会にしたければ、
自分の中の「優性思想」を趣味に変えてくれ。
競争で勝つのも趣味にしてくれれば、
楽しみ(他)や愉しみ(自)として社会は和む。
勝者に価値をつけてしまったら、
敗者は小価値か無価値という意味になる。
勝者は一人だが、敗者は全員だ。
無価値ばかりの社会が幸せになると思うか?
「優性思想」というのはとても愚かな思想であり、
社会、世界を理解できない幼稚な霊性の思想でもある。
(ワシを含め)幼稚は可愛いと思うが、
その先に残虐が待っているのでは笑っていられない。
人類はこれだけ戦争を続けてきたんだ。
そろそろ卒業しないかぁ?
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
体、心の弱さはその人の弱さじゃない。
体の一部に弱い箇所があり、
心の一部の方向に癖があるだけだ。
それはどんな人にも当てはまる事柄だが、
自分が健常だと思っている人は気づかないだけだ。
人間は皆、例外無く完全体じゃない。
完全じゃないから人間として生まれてきている。
障害者という言葉を使うなら、障害者以外の人間は存在しない。
体、心が正常だと信じている人は、単に無知か鈍感なだけだ。
これは間違いない事実なんだ。
正常に働く箇所があり、サボる箇所がある。
得意な能力分野があり、不得意な分野がある。
一人の人間の中には様々な部分があるのだ。
そんな事は当たり前だ。
常に健全な心と常に健全な肉体は人間ではありえない。
そんな事もわからないほど「自称健常人」は心に障害がある。
基準を「強弱」「正誤」「優劣」にするから狂う。
いつかは自分の身と心で気づくだろうが、
それまで他の「弱」「誤」「劣」を差別し虐める。
ときにはこっそり自の「弱」部分を責める。
あるいは「頑張れ!」と無責任な言葉を言う。
優しくないんだなぁ・・・。
基準を「調和」「やわらかさ」「畏敬」にすれば、
「生命」は喜び、「世界」は愉しめる。
ワシ流では基準を「いいかげん」にすることなのだがねぇ。
自分のアホさイタラナさを自覚するのが「自立」だと思う。
だから「自立」の問題でもあるんだなぁ。
「優性思想」が趣味の段階ならモンクはいわない。
「強い」が好きだろうが、「優秀」が好きだろうが勝手にして。
ワシだって、来世は格闘家にあこがれる。
(来世はナイスボディの小悪魔もいいかなぁ)
売れっ子女流漫画家の亭主にもあこがれる。
南国のそよぐ風に生まれ変わりたい・・・。
(だんだん、ナマケモノの本性が・・・・)
アマゾンで生息するナマケモノそのものでもいいや。
ところが「優性思想」はデシャバリなのだ。
「こうでなくてはいけない」と本気で主張する。
しかも正論みたいだから性質(たち)が悪い。
この世で性質の悪いのは「正論の主張」なんだぜ。
その性質の悪ささえ自覚できていない。
そして、エスカレートする性質も内蔵しているんだ。
戦争準備下、戦争状態下では必ず「優性思想」がはびこる。
あるいは「優性思想」の先には争いが待ち受けている。
今の日本の状態、もう一度見直そうね。
ワシ、オーバーに煽っているわけじゃないよ。
多少、未来予測は出来るけど、そういう意味じゃない。
体、心の弱い(敏感)な我々が暮らし難い社会は嫌なんだ。
性格の強い人には気づきにくいだろうが、気づいて欲しい。
頑張るタイプの人とも一緒に暮らしていくわけだし・・・。
「優性思想」は「優性嗜好」に直してくれないか?
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
ワシは基本的には思想の違いで争いたくない。
対立から何も生まれないとは言わないが、
大したものは生まれない。
対立を融かしたのなら、大きなモノが生まれるだろう。
違いを気づきあったら、多くに笑顔が生まれるだろう。
糾弾するつもりもないが、気づいて欲しいとは思う。
社会常識化している「優性思想」の愚かさ。
国、民族、階級、地位、金、その他いろいろ。
区別を差別に応用してしまう愚かな思想。
最近は特にアブナイ傾向になっている。
ハンセン病患者に象徴される国の方針。
マスコミの意識。
国民の(優性・健常者)意識。
「優性」が目指す方向と思っている限り、
この国は優しくない。
優しさが無ければ、不幸な国だと思う。
強い、弱い、はある。
一つの才能や方向に優秀や劣等もある。
だが「強い」のが「弱い」よりいいわけじゃない。
「優秀」が「劣等」より価値があるわけじゃない。
多分、この言葉が理解できないのだと思う。
「勝ち組」「負け組」は趣味で選ぶ組だ。
組を選ばない生き方もある。
組を意識しない生き方もある。
何の疑問も持たずに「勝ち組」に価値があると信じるのか?
(ホームレスの一人と会社社長。
どちらに価値があるのか決められないだろ?)
多数の意見だから同調する。
強い意見だから賛同する。
「正しさ」を看板にしてモノ申す。
そんな心の貧しさに気づかない。
そこには少数意見、弱い意見に対する、
「労わり」も「思いやり」もない。
更に、本当の自分の意見も無いんだ。
大抵は受け売りの言葉しかない。
正しさを主張しない意見は声が小さいものだ。
小さな声を聞けない感性で、幸せは見つけられない。
いろいろなモノを認め合わずに、
みんなが嬉しい、愉しい、気持ちいい社会は出来っこない。
そんなこと、当たり前だろ?
威張って言える意見だけ取り上げる意識は、
苦しみの世界を創ってきた歴史がある。
人間の愚かさは108個あるという。
(108は無限という意味もある)
その中の一つとして、
(不幸な)歴史に学ばない愚かさが今でも抜けない。
多くの、大きな苦しみの歴史から何を学んだのだ?
「優性思想」は「苦しみの世界」を創ってきた歴史がある。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
太陽の黄経345度。
360度(0度)で春分だから、もう少しだ。
この角度になると北半球では「陽氣」が地中に届く。
届くというより「共鳴」し始める。
地の「陽氣」の部分が振動しやすくなる。
天だろうが地だろうが人だろうが、
「陽氣」も「陰氣」も「中氣」もある。
グルグル、ゴチャゴチャ渦巻いている。
それぞれ影響分野が違うので一緒にくくれないが、
次元間を超えて、多少は影響し合ってもいる。
「天」の説明は精神世界の話のように、
アイマイでアヤシクなりそうなので省く。
「地」と「人」は見える世界という共通点があるので、
まだ何とか説明しやすいのだ。
ここでいう「人」は人ではなく、個々の物質体を表す。
特に地球上の生物、非生物、非物質も含まれる。
「地」は地球だけじゃなく、太陽系の星、
特に太陽と地球と月を主に指しているのだ。
「啓蟄」は「地の陽氣」が「人の陽氣」を刺激共鳴する話なのだ。
(ここでは地中の虫達が「人」として例えてある)
「春分」に始まる24節気は「地氣」と「人氣」の関係話だ。
天候・天気は「天氣」じゃないぞ。
天気は「地氣」だ。(あ~メンドウくさい・・・)
天候(地氣)を人の行い(ここでは農業)に活かす智慧の言葉だ。
人(地球上のモノ達)は「地氣」に大きく左右させられる。
「氣」の規模が違うのだから、しょうがない。
それは当然、体・心・精神(魂)にまで影響がある。
あっ、ここで話は横道に逸れる・・・・。
「陽氣」が蠢き始めるこの時期は、心を刺激してしまう。
心が乱れる時期なのだ。
病院は「精神病」「精神科」などというけど、
あれは「心の病」であって「精神の病」じゃないからね。
「精神」が病むことはない。
ありえないんだ。
寝てる事はあるようだけど、大抵は起きている。
精神は最初から最後まで「健常」。
でも(ロクデナシの)心が精神を覆う。
元々、精神は(誰のでも)オシトヤカな性格だ。
心はデシャバリの性格だ。
だから精神は口を出せない。
精神に直接働きかけ、精神から心を治す(調和)方法もあるけど、
これは特殊すぎて(リスクがあり)お薦めできない。
施術者の能力不足が自覚できにくい方法だしねぇ。
やはり治療は安全が前提だと思うよ。
心は体(生命)からアプローチすれば消える。
変わるという表現でもいいけど、実際は調和だ。
調和は「(我が)消える」という現象なんだ。
心は我の塊だしねぇ・・・。
(テーマとはズレた横道話になっちまった・・・)
(本館「氣の空間」は講座、一コマ、エッセイ、コラム、
その他いろいろ、言葉の倉庫となっています)